第21話 白ヤギさんとオオカミさん
「シオンさん、はい」
──差し出された小さな手を見下ろして、目を瞬く。
握られた『手帳』を覆う革の表紙は褪せた赤色をしていて、それが長い間大事に使われてきたことを知らせていた。きっと俺や彼女が生まれるよりも前から。
その下にあるものを思い、少し背筋が冷えた。
紙に触ることはいつだって緊張を孕む。
だけど最近はそれも少し和らいできた。彼女が側にいれば大丈夫なんだと、体が理解し始めてる気がする。
血に色濃く刻まれた獣の本能が、誰かによって少しずつ変えられていくのは何だか不思議で、でも心地良いものに思えた。
躊躇していると、彼女はじっと俺を見て、背中を押すように笑みを深めて言った。
「どうぞ!」
そうして俺は手帳を受け取り、少し丸みのある彼女の文字の下に、生まれて初めて自分の予定を書いた。
トールさんは俺に、知らなかったことをたくさん教えてくれる。
人間の常識もそうだし、感情だってきっとそうだ。
* * *
「可愛かったな……」
ふと口からこぼれた言葉のあまりのストレートさに自分でも呆れた。
でも幸い、正門の鉄の扉は重くて分厚い。既にその向こうへと見えなくなったトールさんに聞かれる心配はないはずだ。その証拠に、オーラの干渉を解かれた頭上にはむくむくと山羊の耳も生えてきている。
別れ際もどうにか口に出そうになったのを我慢したのだ。危なかった。今日はすごく頑張った。霊峰を下りる時より頑張ったかもしれない。
謎の達成感に頷きつつ、思い返す。
淡いミルクティー色の柔らかそうな髪に、深い紫色の丸くて大きい瞳。
葡萄みたいだな、と最初に目が合った時に思ったのを、なぜだか今でもよく覚えている。あの図書館に行き、初めて本を読んだ日のことを。
人間にとって紙は必要不可欠な物だ。
学校だろうと職場だろうと紙で記録を取り情報を伝達し重要なやり取りをするので、紙無しで現行の社会生活を成り立たせるのはほぼ不可能だとも聞く。
だからそんなものをむしゃむしゃ食べてしまう神山羊は迷惑な存在だし、俺も本さえ読めれば必要以上に人間と関わらない方が良いと思っていた。思っていたのに、今じゃ本を読みに図書館に行っているのか、トールさんと会う理由として図書館に行っているのかよく分からない有り様だ。
手紙を食べてしまった時は、もう二度と会えないと覚悟したけれど、それでもトールさんは笑って許してくれた。
トールさんは穏やかだけど強い人だ。だから時折、ふと悲しそうな顔をすることが気になって目が離せない。
それは天国にいるという両親のことかもしれないし、故郷に残した弟のことかもしれないし、あるいは、結婚の約束をしていたという人のことかもしれなかった。
俺は全部知らないから、何も言葉をかけてあげられないけど、上手に泣けないと言ったトールさんが思いきり泣ける日がくればいいなと思う。
角をすり寄せたいようなこんなどうしようもない気持ちの時に、人間はどうするんだろう。
何かの本に書いてあればいいんだけど。今度図書館に行ったら探してみよう。
……なんて一人で悶々と考えていたら。
「何がそんなに可愛かったんですか?」
ふと聞こえた耳馴染みのある声に、俺はパッと顔を上げるとついつい目を輝かせてしまった。
「先生! こんにちは、奇遇ですね!」
「やあ白ヤギくん、奇遇ですね。……うんうん、奇遇なんですよ、こんな狙い澄ましたようなタイミングで正門前に突然現れたとしても。君の素直さは神がかってますね、正に神獣そのものだ」
「やだなあ、神様扱いはやめてくださいって言ってるじゃないですか先生」
俺が笑うと、先生は月のような金色の瞳を細めて、犬歯を少し覗かせながらハハハと適当に笑い返してくれた。
頭上のオオカミの耳は髪とおそろいで闇のように黒く、ああやっぱり狼男ってかっこいいなあ、山羊と交換してほしい、なんて俺はこっそり思ってしまう。
神獣の他の面々と比べても俺が圧倒的に残念なのだ。不死鳥、竜、獅子、鯨、ヤギって……。
先生は俺と親しくしてくれている狼男の獣人で、恩人でもある。
いつもパリッとしたスーツを着こなしていて、東区に旧知の人間の友達がいるらしく、日中はその人の所で過ごしている。
狼男は獣人の中でも人化に優れた種族で、大昔から人間社会に潜んで生きてきたので、先生も調停師の助力無しで本能を抑え込むことができる。人化が大の苦手な俺にとっては憧れの存在だ。満月の夜だけはどうしても血が濃くなるらしく、いつも苦しそうにどこかに身を隠してしまうけれど……。
「白ヤギくんこそ、先生はやめてくださいよ。神様にものを教えるほど僕も出来た獣人ではないのでね」
「いえ、先生は先生です! 俺が本を読むためにこの街に来たと言ったら文字を教えてくれたし、人化の練習にも付き合ってくれるし。それに先生がいなければ、俺は本を読む前に死んでいました。このご恩は一生忘れません!」
「いえいえそんな……まあ、驚きましたけどね。郊外から随分と濃い獣の血の匂いがすると思って見に行けば、神様が血だらけで倒れていたんですから」
山を下りて彷徨い続け、ようやく王都を目にした時、俺は瀕死で力尽きていた。それを拾って介抱してくれたのが先生だ。感謝してもしきれない。
「……でもあの時の傷、まだ痛むんでしょう? 早く医者に診てもらうべきだと思いますが」
先生はスッ、と長い指を自分の左胸から脇腹まで斜めに滑らせ、にこりと微笑んだ。
俺がうー……と唸りつつ、「そういう傷じゃないので……」と言葉を濁すと、「あ、知ってます」と先生は更に笑った。…………いい人だけど、ちょっと意地悪な人なのだ。
「ところで今日は神獣会議だったのでは? なぜ正門くんだりまでお散歩なんてしてたんです」
「ああ、ちょっと色々ありまして……」
俺が今日あったことをかいつまんで説明すると、先生は珍しく目を丸くして、少し困ったように首を傾げた。頭上の耳がピクピクと動く。
「へー、ほー、つまり白ヤギくんもこれからその? 王都獣人調停事務所? とやらに出向くことが増えると」
「? はい、そうなりますね。何か問題でも?」
「いえなんにも。ちなみに次の予定って何日です?」
なぜか先生は俺が事務所に行く日を控えると、「分かりました。気をつけます」と笑った。なんだろう……?
先生は不思議な人だ。
俺はこの街に来たばかりの頃、まだ警戒心が強くて、「どうして俺なんかに親切にしてくれるんですか」と失礼なことを吐き捨ててしまったことがある。
すると先生は笑って言ったのだ。
「ヤギとオオカミが仲良しなんて、面白いからです」と。
……だからあんまり意味は無いと思いつつ、俺はついつい尋ねてしまう。
「ねえ先生、どうして未だに名前を教えてくれないんですか?」
「その方が面白いからです」
ほら、やっぱりだ。
「それでは、僕はこれで……。ああ、例の調停師の女の子との恋愛相談なら、またいつでもお受けしますからね。面白いので」
「いや、恋愛なんてそんなものでは……ていうかもうしません。手紙食べたこと相談した時も、『ああ~それダメですね、トー……いくら温厚な女の子でもそりゃ激怒しますよ、もうダメです。許されるには君も熱いラブレターをしたためないと。僕が代筆してあげますから遠慮せず声に出して下さい、恥ずかしい手紙を。さあさあ』とか笑い堪えてたじゃないですか。忘れませんよ」
「ええ~……。そもそもあの時も、僕が君の代わりに彼女の手紙を音読してあげれば食べずに済んだのでは?」
「ヤですよ、俺だけのにしたかったんです。それにあなたに読ませたら暗記されて居住区中に言いふらされそうです」
「酷い言い草だなあ、当たってますけど」
くっくと笑う先生を横目で睨みつつ、俺はふと正門の向こうの人間の街を想う。
既に彼女は遠く離れているだろうけど、あの手帳の中には俺の予定が一つだけ、確かに書かれているのだ。
今はただそれだけでいいと思えて、俺も小さく笑った。
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