第16話 神獣からの電話

 二日酔いもなくシャキッと目を覚ますと、私はラグの上で折り重なる死体のように熟睡していたエミリア先輩とミーナちゃんを起こさないよう、そっと家を出ました。


 早朝の東区の通りはひんやりとした空気と静けさが心地よく、まだ薄い色の空を見上げて私は少し足を弾ませます。

 ロキ君には本当に申し訳ないですが、派手に暴れてちょっとだけスッキリしました。思えば泣くのもそうですが、怒るのも久しぶりだった。村にいた頃から積み重なっていた胸のつかえが少し下りたように思えます。


 昨夜のエミリア先輩の助言を受けて、髪型と服をほんの少し変えてみましたが、なるほど不思議と気持ちも切り替わるような気がします。


 いつもは髪は簡単にアップにまとめ、シンプルなシャツにロングスカートという完全仕事用の装いなのですが。

 今日は髪を久しぶりに下ろしてサイドをゆるく編み、ミーナちゃんと買い物に行ったとき見繕ってもらった(ものの、見事にクローゼットの肥やしになっていた)ワンピースに日の目を見てもらいました。


 よくよく考えると10代はとにかく必死に生きてましたし、人生で初めて見た目というものに気を遣えたかもしれません……。

 エリーゼ嬢の丁寧に施された淑女らしいお化粧や、細部までこだわった品の良い装飾品などを思い起こし一瞬遠い目になりましたが、私は科学者ではありませんのでもう過去の話はできません。ミーナ大先生の教えを守り静かに黙殺します。



 鍵を回し事務所に入ると、まあ当然ですがそこには誰もいませんでした。

 別に悪いことをしてるわけではないのですが何となくこそこそと足早にソファに駆け寄り、そこに放置されていた愛用の手帳を無事に回収します。


「紛失したんじゃなくて良かった……気をつけないといけませんね」


 手帳を覆う赤い革のカバーは、母の形見なのです。

 本当は、母のことを覚えていないアルフレッドにせめて、と思ったのですが、男性が使うには色味が少々……ということで私が譲り受けたのでした。それからずっと中身を入れ替えながら大切に使っているものなのです。母が遺したものは多くはありませんでした、これからはもっと注意しなくては。


 ほっと胸を撫で下ろし、さあ一度帰ってあの二人に白湯でも入れてさしあげなくては、と思った直後。

 けたたましく鳴り響いたベルの音に、私は大きく肩を跳ね上げて振り返りました。


「…………電話?」


 所長のデスクの上、朝の静けさを破壊するように響くのは電話のベルの音でした。

 あれが鳴る理由は大抵、獣人さんからの調停依頼が主です。

 ですが本日は定休日。知らずにかけてしまったのでしょうか……いずれにせよ今日は調停には応じられないし、本来ここに私はいないはずなのですから、無闇に取らない方がいいでしょう、申し訳ないですが。


 しかし思いに反し、ベルはいつまでも鳴り続け、私はうーと眉をひそめました。

 こんなに諦めずにかけ続けるなんて……急用なのでしょうか? 気の毒になってきました。調停はできなくとも、今日が定休日であることを知らせてあげるぐらいしても良いのでは……?


 私は焦燥に駆られ、耐えきれずについに受話器を取っていました。所長に後で怒られたら謝ればいいのです、ってエミリア先輩も言ってました!


「はい、王都獣人調停事務所、ホープスキンが応対しております。どうされましたか? 申し訳ないのですが本日は定休日でして、調停依頼は受け付けておりま……」

『………………助けて』


 今にも消え入りそうな、すがるような女の子の声。

 ハッ、と息を飲み、私は目を見開きました。やっぱり電話に出て良かった!


「大丈夫ですか!? 一体何が……」

『……居住区の、正門前で待ってる……お願い、早く……』

「え、あ、もしもし? …………分かりました、すぐに! どうかそれまで待っていて下さい!」


 私は大急ぎで受話器を置くと、事務所の鍵を閉めて階段を一気に駆け下りました。



 * * *



 ぜえぜえと息を吐き、乱れた髪とワンピースの裾を正しながら私は鉄の扉を睨みました。


 定休日でしたので正門の衛兵さんを誤魔化すのに苦労しましたが、「ああ、神獣さんの……」となぜだかにこやかに微笑まれ、どうにか通して頂けました。よく分かりませんがシオンさんの顔パス力に感謝です。

 電話の向こうの声、とても苦しげでした。調停師に助力を求めるということは、本能が暴走して制御できなくなった可能性もあります。この扉の先にいるというのなら、今すぐ────



「……あの男、新しい職員を雇ったなどと全然言うておらんかったではないか。謀りおって。まあ狼男の友人などやっておる辺り食えない人間ではあったがのう、勘に従って電話をかけてみて正解じゃったわ、フッフ……」



「…………?」


 扉の向こうから聞こえてきた、あまりに奇抜で妙ちくりんな喋り方の声に──

 先ほど受話器から聞こえて来た女の子の声とに、私は首を捻り困惑しました。


「……あ、あの、依頼主の方ですか……?」

「ん? ああ依頼な。そう、依頼よ。いやしかし、のこのこ乗り込んできてくれた上に、これ程までの強大なオーラを纏っておるとは……これは所長とやらも報告を誤魔化すはずよのう。そなた、名は何と申す?」

「ええと、トール……トール・ホープスキンです」

「そうか。トール。これから起こることを気に病むでないぞ、そなたは何も悪くない。ただわらわは──が見てみたかっただけなのじゃ」


 そのどこか切なげな声に、ハッとして扉に手を伸ばした瞬間。


「…………なっ……にしてんですかあんたはーー!!!!」


 耳に飛び込んできた聞き覚えのある声と、同時にドタンバタンと響く何やら騒がしい音に目を瞬き、私は静かに扉を開けました。

 そして再び、ぱちくりと目を瞬きます。


「っ…………、人を呼び出しておいて、連絡もなしに遅刻するから何やってんのかと思えば……! こっちは翼も無いのに居住区中探し回ったんですよ!ちなみに他の人たちは会議室でおしゃべりしながらお菓子食べてます!もうやだ!」

「ありゃ……こんな時だけ機敏に働きよるな、白き霊峰の神よ。本だか何だか読みふけってないでまずは空気を読んで欲しいものよのう」


 まず視界に飛び込んできたのは、燃えるように鮮やかな赤い髪の少女。

 地にまで届く程の長いそれを二つにくくり、大きな瞳を残念そうに細めています。

 青色の双眸はしかし、涼やかな水ではなく高温の炎のそれだと、なぜか私は本能的に判断していました。


 獣人さん特有の、度を超して整った綺麗なお顔をされているのですが、13、14歳程度にしか見えない容姿も相まって、美人と言うよりは愛らしい印象を受けます。

 ──そしてなんと物騒なことに、鋭利で無骨なナイフをその小さな手に握りしめていました。その切っ先をご自分の喉元に向けて。


 そんな彼女を後ろから羽交い締めにして、ナイフを握る細い手首を取り押さえ大いに慌てているのは、これまた目の冴えるように綺麗なお顔を持つ背の高い男性──真っ白な髪に空色の瞳。昨日会ったばかりなのになんだか懐かしい気がする、神山羊ゴートの獣人シオンさんなのでした。


 二人は扉から1メートル以上離れたところで押し問答されているので、私のオーラはもちろん届いていません。

 なのでとても珍しいことに、シオンさんの頭からは立派な黄金色の山羊の角と、ぴょこんと小さな白い耳が覗いていました。耳かわいい。


 ですが赤い女の子の方には、見たところ獣の片鱗もありません。見かけに依らず、人化に手慣れた大人の方なのでしょうか?

 私は口を尖らせる女の子を必死で食い止める彼に、邪魔しちゃ悪いかなと思いつつそっと声をかけます。


「シオンさん……?」


 本当に必死で周りなんか見えてなかったのでしょう、シオンさんは目を見開くと、ぎょっとしたような顔で私を見つけて大いに慌てていました。


「とっ、トールさん!? どうして居住区ここに! 今日は事務所がお休みだって聞いたから、会えないんだとてっきり……」

「どぉーのみち今日そなたは神獣会議に参加するんじゃからぁー、会えようが会えまいが人間と戯れる暇など一秒たりとも無かろうよー? 神らしくもなく浮かれに浮かれおって、白ヤギのくせに青いやつよのうー」


 そのからかうような声は目の前からではなく、頭上から響きました。

 私とシオンさんは同時に空を見上げ、そして顔をしかめます。熱い。

 気付けば少女はシオンさんの腕からあっさりと抜け出し、赤い髪をなびかせながら宙に浮いていたのです。


 その背には、身長を優に超えているだろう大きな大きな鳥の羽────否、翼の形をした炎。

 燃え盛るそれを羽ばたかせて、少女は全てを見透かすように悠然と腕を組み、目を細めていました。


「ふうん……これが白き霊峰の神がご執心の神子みこか。ああ、今の時代は調停師と呼ぶんじゃったかの? まあ可愛い後輩のつがい候補とあれば挨拶はきちんとしておかねばならぬ故、ちょうど良い機会であったな。僥倖僥倖」

「つがい?」

「わー!! 違う! そういうんじゃないって言ったじゃないですか居住区長!」


 炎に負けず顔を真っ赤にして抗議するシオンさんを、なぜだか楽しそうににっこりと微笑んで見下ろし。

 居住区長と呼ばれた彼女は、余裕たっぷりに赤い舌を覗かせながら高らかに述べました。


「名乗り遅れたなトール。妾は不死鳥フェニックスの獣人……この『居住区』最古の住民にして区長を務めておる、しがない神獣種の一人じゃよ」

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