第15話 きらきら星の夜

 思えばブラッドはいつも、大事なことは口に出して言えない人でした。


 最初はたしか、6歳の冬の朝。

 墓前に置いたグラスに葡萄酒を注ごうと重たいボトルを持ち上げた私は、しかし手が震えて上手くできずに困り果てていました。


 これからはこれぐらい簡単にできるようにならないと、と思えば思うほど安定しない手元に苛立っていると。ふいに重さが消えて、目の前のグラスにとぽとぽと赤い液体が注がれたのです。

 振り返ると、ブラッドは何も言わず瓶を脇に置き、静かに指を組んで祈ってくれていました。


 私はあいかわらず泣けませんでしたが、それでようやく彼の隣にしゃがみこみ、目を閉じることができたのです。昨日天国に行ってしまった母を思って。


 ブラッドはいつも大事なことは口に出して言えない人でした。それが心地よかった面もあった。でもそうやって何も言わないからといって何も聞かなかったから、あんな修羅場を迎える羽目になったのでしょうか?


 異性として愛していたのかと聞かれれば、「いいえ」と迷いなく答えられるのですが。

 なのに胸が痛むのはどういう理屈なのか分からず、私は古い方が分厚い記憶のアルバムをめくっては、もっとああしていればとか、意味のないことを考えてしまうのです。



 * * *



「へー、お役所って割と獣人絡みのお仕事も多いんだ。それじゃあ調停師とは話が合いそうだよね、懇親会でも開く?」

「それでまた地獄を生み出すんですか? やだなぁ……。……あの、一次会帰りなんですよね? それ何杯目ですか?」

「一次会と二次会は別カウントにしないと折る指がなくなっちゃうよ、ミーナちゃん」


 ………………。

 ベッドの上で目を開けたら、私の部屋で、ラフな格好をしたエミリア先輩とミーナちゃんが仲よさげにお酒を酌み交わしていました。だいぶ世界が進んだな。


 んー、んー……何でしたっけ?

 酒場で乾杯して、エミリア先輩が優しくて、グレイさんが意地悪で、ロキくううわあああ!?


「わ、わた、わたし、とんでもない暴言を!!??」

「あ、トールちゃんやっと起きた」

「とりあえずシャワー浴びといでよ。戻ったら飲み直そうね」


 などとあっさり酒宴を再開されていやいやと反論しかけましたが、汗で貼り付く前髪とぐっしょり濡れた衣服の不快感に、渋々大人しく頷きました。

 あー、そういえば最後の方、燃えるように全身が熱かったのは覚えてますが……。そう言えばあの麦酒どこから沸いて出てきたのでしょう……?怖……。


 首を傾げながらバスルームに移動し、ぬるめのシャワーを頭から浴びると、ようやく少し冷静になって私は目を伏せました。


 …………だいぶやってしまったな…………。


 同僚ほぼ全員の前で逆ギレからの泥酔……どんな顔して出勤すればいいんでしょう。ていうか職場の空気を乱した罪で解雇? 帰る実家は修羅場村の中だというのに……。


 呆然としながらベッドルームに戻ると、エミリア先輩とミーナちゃんはすっかり出来上がっていてけらけら笑いながら何本目かのボトルを開けていました。な、なんだか私をそっちのけで仲良しになっていてちょっと寂しいです……泥酔してる方が悪いのですが……。


「ミーナちゃんごめんなさい、飲み過ぎないでねって言ってくれたのに……」

「いや驚いたよ、知らない人が深夜に死体運んできたなーと思ったらトールちゃんだったんだもん……」

「す、すみません、とんだご迷惑を……!」

「あ、私は道案内役で運んだのはユージンだから、お礼を言うならあっちにね。それで、私もルームメイトさんにご挨拶だけして帰ろうと思ったんだけど。事情を説明してるうちになんだか意気投合しちゃって、気付けば手には空のボトルが」

「不思議ですね」

「あっどうしようこの部屋ツッコミ役が私しかいない……?」


 困惑しているとミーナちゃんは手際よくチョコレートの乗ったお皿とグラスを私に手渡して、ばしばしとラグの上を叩き着席を促しました。

 葡萄酒じゃなくて葡萄ジュース。寝ている間に色々気を遣わせてしまったようで重ねて申し訳なく思いつつ、苦笑いで乾杯に応じます。


 それからぽつぽつと、この街に来るまでの話をしました。

 楽しい話ではなかったけれど二人は真剣に聞いてくれました。

 そして「はい、あーん」のくだりに入るとワインを口の端から流して絶句されたのでした。あーラグに染みが……。


「いちゃいちゃ浮気現場とは聞いてたけどそこまでのクズとは……」

「遺体はどこの山中に埋めたの?」

「いや殺してないですよ……多分まだ……。来月結婚式を挙げるそうですし、もう関係ない人なので」

「はー? 何それ、人の人生狂わせといてお咎めなし? いや、絶対何か酷い目に遭うよその人」

「ハゲるよ」

「突然具体的」


 それからエミリア先輩とミーナちゃんは、グラスを傾けながら散々ブラッドの悪口を言いまくってくれて、ちょっと可哀想なぐらいでしたが私は大分スッキリしました。それでもまだ晴れない胸の痛みに、眉をひそめてうつむきます。


「なんでですかね、別に結婚したいと思ってたわけじゃないのに、いざ手酷く捨てられるとショックというか。今まで兄のようにしか見てなかったから、ちゃんと意識して接してみてたらとか、私がもっと魅力的に見えるよう努力してたら何か違ったのかなとか考えてしまったり……思い起こせば昔は良い思い出も結構あったなって思ったり……」


 目にも留まらぬ速さで。

 ガッ、と両肩を掴まれて驚愕していると、ミーナちゃんが半目で私を睨んでいました。顔近い。ていうか大分酔いが回ってます。


「ミーナちゃ……」

「トールちゃん、今痛んでるそれは恋心じゃなくて自尊心だよ。どんなクズが相手でも蔑ろにされたり軽く扱われたら傷付くもんなんだよ、こういうのに好きとか嫌いとか全然関係ないんだよ。あと記憶は地層の奥深くほど美化されていくものだから過去のときめきは全く参考にならないんだよ」

「はい……」


 経験者は語る的な力強い物言いに、思わずこくりと頷いてしまいました。み、ミーナちゃん、恋愛遍歴どんなです……?

 ぽかんとしていると、肩を掴む手を緩めないまま更に詰め寄られます。


「トールちゃんはさあ、科学者なの? それとも超能力者?」

「ちょ、調停師です……」

「そうだよね、じゃあタイムマシンも造れないし時間移動もできないよね。だったら過去のことで『ああしてれば』なんて後悔しちゃ駄目。時も越えられない女には過ぎた恋愛に足止めされる資格も暇も無いの。ていうかああしてればじゃないの、あの時の自分はああするしかなかったからこうなってるの。能力的に無理なの。やり直せるとか勘違いしちゃ駄目なの」

「あ、はい、すみません……」


 淡々と糾弾されてカタカタ震えていると、にこにこ可愛らしい笑顔をしたエミリア先輩が、ミーナちゃんのグラスに鼻歌まじりにワインを注いでいました。大炎上現場に油を注がないでください。


「トールちゃん、その人はお星様になったんだよ。もうトールちゃんの地平にはいないの。だからうだうだ考えちゃダメだよ」


 なんか更にスケールの大きい話をし始めました。SFジャンル??


「過去の男はね、みんな宇宙の彼方まで何万光年もぶっ飛んでお星様になるの」

「ミーナちゃんの思考が一番ぶっ飛んでますよ!?」

「私の心には今や広大な銀河がキラキラと輝いているよ、かつて私を愛した男たちの……」

「銀河は言い過ぎでは……」


 ていうかキラキラしますかね、そんな汚い星空……。


「へー、じゃあ修羅場を越えてトールちゃんの宇宙には星が一つ生まれたってことだね、おめでたいじゃない」

「ええ……ブラッド星ですか? なんかヤだなあ……」

「だから大丈夫大丈夫、男なんて星の数ほどいるんだし、ちょっとぐらい失敗しても星座の材料か何かだと思えば」

「銀河の創生者が言うと重みがありますね……」


 二人は完全に酔っぱらいでしたが、斜め上な励まし方はかえって今の私にはちょうどよかったのか、すっかり気負いもなく笑えてることに可笑しくて更に笑えてきました。


「そうですね。地上にいないものをどうにかしようなんて考えても、時間の無駄ですね」


 意外と大したことない悩みなのかもしれません、宇宙のスケールの大きさに比べれば。


「まあトールちゃんのお星様は、これからもう増えないと思うけどね」

「え? どうしてですか」

「そうですね、その件について今夜はじっくりお話したいです。ああ、調停師さんからお相手の生の情報を得たいと思ってたところだから、今回は本当にラッキー泥酔でした……」

「なぜ人の地獄をうれしそうに??」


 わけのわからないことを言ってる二人に眉をひそめつつ、ふともう一つの大きな問題を思い出し頭を抱えました。


「ああそうだ、ロキ君は大丈夫でしょうか。私かなり酷いことを言ったような……」

「いや、あれはロキ君が悪いよ。あのイベントの選択肢は①引っぱたく②泣いて社会的評価を下げる③氷水をぶっかける、のいずれかだったんだからトールちゃんのなんて可愛いもんだよ」

「笑顔が怖いです先輩……」


 明日は事務所お休みの日なので、明後日お会いできるでしょうか……ちゃんと謝らないと。


「とりあえず、明日は色々忘れてのんびりしなよ。たまには調停じゃない普通のお散歩も悪くないんじゃない?普段できないお洒落でもしてさ」

「ああ、はい、そうですね……そうします。本当にありがとうございました、二人とも」

「いえいえ、かわいい後輩の修羅場だったからねー。それじゃあ、私はミーナちゃんのお言葉に甘えて今夜はお泊まりさせてもらうよ」

「おやすみトールちゃん。まだまだ夜は長いので飲み明かしましょうね、エミリア先輩」

「あっ、やっぱり仲良くなりすぎでは!? ずるい!」


 早く寝なさいと手を振られて渋々ベッドに潜った後、そう言えば手帳に行ってみたいお店をメモしていたんだっけ、と思い出し。

 しかし鞄の中にそれを見つけられず、私は「あ」と口元を押さえました。


「……手帳、事務所のソファに」


 着ぐるみに驚きすぎて置きっぱなしにしていたのでした。ああ……。

 幸いエミリア先輩が休み明けの開所当番でしたので、明日はまず鍵をお借りして忘れ物を回収することに決めました。


 目を閉じれば暗闇の夜空に一番星が一つ。

 それを景気良く爆破する瞑想にふけるうちに、夢も見ずに私はぐっすりと眠っていたのでした。

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