[15]
しのつく雨がスピットファイアの機体を濡らす。マーリン・エンジンの鼓動は次第に弱くなっていた。
耳はダイムラー・ベンツのエンジン音を捉えていた。グレツキは左右を見渡した。敵機のエンジン音は四方八方から響いてくる。まるで包囲されているように思えた。脳裏にピアーズの言葉が響いた。
「彼は魔物に喰われたのだ。戦いの場における一秒という悪魔に・・・」
イギリスにたどり着いて間もない頃、外国人パイロットたちはRAFの訓練施設で英語教育を受けた。慣れない英語。いつ出撃できるかも分からない。グレツキは苛立ちや焦燥から悶々とした日々を送っていた頃、空を見上げていたシュピルマンが声を上げた。
「スピットファイアだ!」
上空に一機のスピットファイアが現れた。そのシルエットに見とれていると、その斜め上空からメッサーシュミットMe109が急降下する。機銃音が短く轟いた。スピットファイアがエンジンから黒煙を吹き出しながら、大きな円弧を描いて墜落する。Me109が追尾する。
「パラシュートを使え!」
訓練施設にいる英空軍の教官が叫んだ。
ついにパラシュートは開かなかった。至近距離で爆発音が起こる。爆風を身体で感じ、鈍い地響きが伝わる。墜落を見届けたMe109が大きく旋回して引き揚げて行った。一連の飛行だけで敵機のパイロットがベテランらしいことは分かる。シュピルマンがグレツキに声をかける。
「お前、戦闘に入ったら怖いと思うか?」
「今でも震えあがってます」
「それでいいんだ。だから忘れるんじゃない。お前が近づいているドイツ野郎もお前と同じぐらい震え上がってる。だからお前が先に叩け。こっぴどく叩け。そうすりゃ、お前に勝ち目がある。だから、突っ込むんだ!」
グレツキは耳を澄ませた。シュピルマンを喰った悪魔に戦いを挑んだ。
雨の囁きと雷鳴。マーリンの落ち着いた響き。耳に引っ掛かる敵機のエンジン音。
グレツキはスロットルを上げた。操縦桿を握り締め、果てしない灰色の雲を疾走する。エンジンから時々、爆音がし始めた。エンジンは限界が近づいていた。右腕の疼痛で気を失いそうだった。時々、傷口に入り込む雨水が身体の内部を焼き焦がした。
グレツキは「2人の擲弾兵」を口ずさみ始めた。
「兄弟よ、おれの願いを聞き入れてくれ。おれが今死んでしまったら、おれの屍をフランスへ運んで、フランスの土に埋めてくれ・・・」
敵機の爆音は次第に大きくなっていた。グレツキは声を張り上げて歌った。
「赤いリボンの名誉の勲章を、心臓の上に飾ってくれ。おれの手には銃を握らせ、腰には剣をつるしてくれ・・・」
稲妻が雲の間に光り輝いた。至近で雷が鳴る。敵機のエンジン音をかき消される。グレツキの歌声は勇ましい行進曲に変わった。
「おれは墓の中に横たわりながら、歩哨のように耳を澄ます。やがて、大砲の轟きを聞き、いななく馬の蹄の音を聞くまで・・・」
雷鳴が轟いた。雨が強く機体に吹き付ける。エンジンは悲鳴を上げた。その時、雲の切れ間から黒い機体がグレツキの眼の前を通り過ぎようとしていた。
「その時、墓の上を馬上の皇帝が駆け抜け、無数の剣が鳴り、火花が散るだろう」
グレツキは敵機の胴体に照準を合わせる。敵機のパイロットが高速で近づいてくるスピットファイアに慄き、顔を引きつらせたのが見えた。トリガーを絞る。
「その時、おれは武装して墓から出るんだ!皇帝を、皇帝を守るために!」
両翼のブローニング機関銃が火を噴いた。銃弾はパイロットとエンジンに命中し、敵機はコントロールを失って灰色の雲に消えた。数分後、突如赤や黄色といった光が現われる。轟音が響いた。
グレツキはスロットルを下げた。マーリン・エンジンはもう限界に達したようだった。絶えず爆音を響かせる。視界は明るくなり始めた。もうすぐ雲を抜ける。
機体は徐々に高度が下がり始めた。高度が1000メートルを切る。
グレツキは左手でキャノピーを開けた。右腕は血で赤黒く染まっていた。800メートルを切る。グレツキは機体から脱出した。
風にあおられながら、陸地に向かって降下を始めた。風雨は以前より収まっている。パラシュートが開いて身体が持ち上がる。グレツキはゆっくりと降下していた。雲は徐々になくなり、切れ間から青い空が覗き始めた。
グレツキは意識を失い始めていた。出血がひどい。朦朧とした意識の中で、青空に何かが明滅している物が見える。それが今やっと眼の前に現れようとしていた。青色をかすかに緑色が浸食し始め、それはみるみるうちに眼の前に広がっていった。夏草が生い茂る広大な滑走路。グレツキが眼を見開いた。
《ああ、自分はポーランドに帰ってきたんだ・・・!》
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