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9月15日。この日はその後ずっと「本土決戦の日」として記念される。最初に勝利を感じたのはRAF戦闘機軍団のパイロットたち自身だった。自分たちが行った邀撃がもたらした戦果を目の当たりにした。彼らが空から見下ろしたサセックス州の森が多いウィールド地方も、ケント州のポップ畑や果樹園も、墜落した敵機の燃える火で賑やかだった。どのハリケーンやスピットファイアのパイロットも、しばらく前に爆撃機と戦闘機から成る大規模な攻撃隊が整然と隊伍を組んでロンドンを目指して北進する姿を見つめたが、今度は自分たちが与えた反撃の成果を噛みしめる立場に変わっていた。
地上にいた連中―司令部で働く女性補助隊員や、掩蔽壕で受け持ちの飛行機の帰りを待つ整備員には、ニュースが届くのが遅かった。交戦セクターが置かれた基地や飛行群の各司令部、戦闘機軍団司令部が置かれたベントリー修道院ではかなり戦況を懸念する雰囲気が強かったが、やがてこの日の邀撃戦が成功したことを確信した。
チャーチルは朝から第11飛行群司令部を訪れていた。チャーチルは第11飛行群司令官パーク少将の横に立ち、空戦の戦況を詳しく観察していた。飛行中隊の出動準備が完了すると、表示灯の色が変わる。いよいよ緊急出動してからしばらく経つと、今度は「交戦中」を示す赤いランプに変わる。敵兵力の表示を睨んでいると、「20機強」や「60機強」と書かれた敵の駒が大きい地図の上を動いていく。第66飛行中隊のあるパイロットは「第11飛行群はどの中隊も敵と遭遇していた」と記している。チャーチルも回想録にこう記している。
「司令官の心配そうな気配が私にも伝わってきた。彼は部下が座った椅子の後ろに立ちつくしている。ここまで私は無言で見つめていた。ついに私は質問する。
『他に予備はどのくらいかね?』
『何も有りません』とパーク空軍少将は答えた。この時の状況について彼(パーク)が後に書いた本に、私(チャーチル)の顔を見たら『沈痛な面持ちであった』とある。その通りだろう」
チャーチルが首相官邸に引き揚げる頃になっても、この日の戦闘結果は明らかにならなかった。夜になってかなり時間が経過して初めて、首席秘書官からチャーチルにニュースが伝えられた。
「我が方は敵機183機を撃墜しました。味方の損失は40機足らずです」
実際、ドイツ側の損失はパイロットたちが申告する機数の3分の1だったことが後に判明する。だが、それは重要な点ではない。通常、ドイツ側は実数を4倍していた。
最も重要な点は、もはやドイツ空軍の爆撃航空団が味方戦闘機による護衛を頼りにできないということだった。その結果、爆撃機のパイロットたちに戦闘継続の意欲が崩壊した。爆撃機や戦闘機のパイロットたちはほとんど毎日、外国の上空で戦い、その終わりに海峡を渡って帰投するという航空作戦を2か月以上に渡って続けており、その上にまだ300機以上の敵戦闘機による反撃に直面しなければならない。
RAF戦闘機軍団に備わっていた強みに、ドイツ空軍が充分に認識していない点が一つ存在した。それは幅の広い兵員募集である。ほとんど全ての飛行中隊において、所属するパイロットの出身地はさまざまだった。イギリス帝国や連邦の諸地域―オーストラリア、ニュージーランド、カナダなど―のみならず、ドイツに占領されたヨーロッパ諸国―ポーランド、チェコスロヴァキア、ベルギー、フランスなど―の出身者が参加していた。彼らには生存のために戦っているだけではなく、悪を懲らしめる善の戦いに力を貸しているのだという強い信念が培われていた。
9月17日。ヒトラーはイギリスに対する上陸侵攻作戦が「無期限に延期された」とする指令を出した。イギリスに課せられた試練はこの後も厳しい状況が続き、1940年7月から開始された本土決戦における勝利は戦争全体の戦略的な流れに対しては取るに足らないものだったとも言える。しかしこの勝利によって、イギリス本島という根拠地は敵の征服を免れたのである。
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