[13]

 北海を包んでいた闇夜は次第に白んできていた。東の方角から淡い光が放たれ、時おりコクピットの中の計器が陽光に反射して輝いて見えた。

 北海に太陽が昇る。スピットファイアのコクピットが柔らかな朝日に包まれた。

《こんな朝日が二度、見られるだろうか?》

 ふとグレツキはそんなことを思った。視線を眼下に落とす。

 ドーヴァー海峡が見える。この海峡を一度でも空から見たことがある人なら、あの独特の風景を忘れることは出来ないだろう。牧草に覆われたなだらかな丘陵地帯が突然、ナイフで切り落とされたように海に落ち込んでいる。青い空。緑色の丘。カーキ色の断崖。季節にも関わらず鈍色をした海。四色の巨大な吹き流しのような風景の中を時速500キロで飛ぶ気持ちは爽快を通り越して、もはや壮絶だった。天と地、海の合間を飛んでいる自分がちっぽけな存在に思えてくる。

 その時、アシュケナージが朝日に輝く敵機の姿を目撃していた。無線で報告する。

《管制室、こちらウォームウェル。10時方向にメッサーシュミットが見える》

《ウォームウェル、何機いるか分かるか?》

《分からない》

 グレツキの右舷前方の上空から、2機のメッサーシュミットMe109が機首を下げて急降下してくるのが見えた。即座に高度を上げるために機首を上げる。後方を飛んでいるアシュケナージが母国語で叫んだ。

《見えた!ケツにぴったり張りついてやがる!》

 2機のメッサーシュミットがアシュケナージをしつこく追尾し始めた。敵ながら見事な飛行だ。アシュケナージが照準器を横切る瞬間を狙っている。グレツキは敵機の上空を宙返りして態勢を立て直す。そして照準器に飛び込んできた敵機のエンジンを狙い、機関銃のトリガーを引いた。

 その直後、敵機の機関銃が火を噴いた。アシュケナージが乗るスピットファイアのキャノピーが飛び散る。攻撃した敵機はグレツキの機銃を浴びて高度を下げる。敵のもう1機がアシュケナージ機に急接近すると、止めを刺すように一気に機銃を浴びせる。スピットファイアは燃料タンクから霧状にガソリンを吹き出しながら、降下を始める。敵機は右旋回して遠ざかっていく。

《グレツキ、本当に撃たれた!》

「アシュケナージ、パラシュートを使え。落ち着け。まず、安全ベルトを外すんだ。聞こえるか。まず、安全ベルトを外せ。それからキャノピーを開けろ。聞こえるか?」

 教官時代のシュピルマンの口調を思い出しながら言った。

 グレツキがアシュケナージの後を追って降下する。アシュケナージがコクピットから脱出しようと必死でもがいているのが見えた。飛行服の左半分が血で染まっている。おそらく左半身のどこかに被弾して身体の自由が利かないのだ。

「アシュケナージ、パラシュートを開く時はどうするんだ?機体を傾けるんだ。さもないと自機の垂直尾翼にやられるぞ。機体を傾けろ。それから身体を外に放り出せ」

 グレツキは必死で呼びかける。スピットファイアのプロペラが停止して機首が真下を向いて錐揉みが始まり、視界から消えてしまった。グレツキがコクピットから乗り出すようにして左右を捜す。

 眼下の牧草地帯が一瞬パッと小さく光った。次いで赤い炎とマッシュルームのような黒煙が上がる。アシュケナージのスピットファイアが墜落したのだ。周辺の空を見上げる。パラシュートは上がっていなかった。グレツキはゴーグルを外して、無線をつないだ。

「管制室、こちらウォームウェル。メッサーシュミットを1機撃墜。もう1機は逃しました」

《了解、よくやった。5番機に注意しておけ。交信では英語だけを使うように》

「5番機は・・・帰還しません」

《残念だ》

 グレツキはアシュケナージの墜落に応じた管制官が誰か知らない。だが「残念だ」という相手の言葉に真実味が感じられた。今ごろ管制室のプロッターは長い棒で兵棋を引き寄せ、2機と書かれた機数のチップを1機に変えただろう。

 朝焼けの空を独りで飛びながら、深い虚無感が胸奥に広がっていくのを感じた。同郷の若いパイロットが眼の前で異国の空に散った。グレツキはその事実を受け入れることが出来なかった。

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