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 イギリス空軍は応戦に終始していたわけではなかった。爆撃機軍団は5月中旬からフランス、オランダ、ベルギーなどにあるドイツ陸軍の通信補給施設やドイツ空軍に占領された飛行場に対して、数次に渡る空襲を夜間に行った。

 8月25日の夜。爆撃機軍団は通常の侵攻範囲を大きく超えて、ベルリン上空に姿を現した。この空襲は主に郊外地域にある工業施設を狙ったものだったが、爆弾は全て目標から外れた。被害は皆無に等しかったが、精神的な効果は大きかった。ヒトラーは英首都ロンドンに対する攻撃について、ゲーリングに強い意欲を表明した。

 9月5日。国防軍総司令部から次のような指令がドイツ空軍に発せられた。

「昼夜を問わずイギリスの各大都市の住民および防空施設に対して心理的圧迫を目的とする攻撃を行うこと」

 9月7日。ドイツ空軍の爆撃機300機とそれを護衛する戦闘機600機がロンドン上空に飛来してロンドン港のドックを中心に爆撃した。この猛攻に対して、イギリス空軍は飛行可能な全ての戦闘機に出撃命令を下して応戦した。ロンドンにはこの日だけで、337トンの爆弾が投下された。

 9月8日。第610飛行中隊はビギン・ヒル飛行場からウォームウェル飛行場に移動した。ウォームウェルは草地の滑走路に数棟の蒲鉾型プレハブ小屋、わずか4棟の格納庫というお粗末な飛行場だった。ピアーズがプレハブ小屋の会議室で、爆撃機軍団がフランスの占領地にあるドイツ軍の港湾施設に対して行う爆撃作戦を飛行中隊に説明していた。

 ピアーズは白い指揮棒で地図の一点を強く叩いた。

「ブルターニュのブレスト港だ。ここにドイツ軍のドックがある。それを爆撃機が徹底的に叩く。君たちの任務は爆撃機の帰還を護衛することだ。いいか、爆撃機には指一本ふれさせるんじゃないぞ」

 飛行中隊長のトムソン大佐が続けて言った。

「爆撃機が爆撃を完了するのが午前4時10分の予定。4時15分、この地点で爆撃機部隊と合流する。分かったか?分かったら腕に時間を書き込んでおきたまえ」

 グレツキは飛行服の腕をまくって二の腕に数字を書き込んだ。右隣でアシュケナージは優雅な手つきで爪に一文字ずつ数字を書き込んでいる。まるでマニキュアを塗るような風情だった。会議が終わる。

 グレツキとアシュケナージは出撃前、駐機場エプロン横のトイレに入った。無論、戦闘機の中にトイレはない。出撃前に用を足しておくのは、戦闘機乗りの常識だった。グレツキとアシュケナージが小用を足す。血相を変えてトイレに飛び込んできたのは、フランス人パイロットのフルネだった。個室に入り、仕切り板の上に救命胴衣を放り上げた。その上に飛行服を放り上げた。フルネが絞り出すような呻き声を上げる。

「チクショウ、なんだって飛ぶ前に腹を下すんだ」

「飛んでる最中に漏らすよりはマシさ」

 アシュケナージがまぜ返した。フルネは返事をしなかった。苦しそうな呻き声に続いて、すすり泣くような声が個室から聞こえてくる。その時はグレツキとアシュケナージはトイレを出て行った。

 6機のスピットファイアが爆撃機の護衛任務を帯びて出撃した。飛行場を離陸して間もなく、フルネが無線で1番機―編隊長リーダー機のトムソンを呼んだ。まだ編隊が上昇を続けている段階だった。

《リーダー、こちら4番機。エンジンにトラブルが発生した。帰還許可を願う》

《4番機、どんなトラブルだ?》

《不点火です。パワーがどんどん落ちていく》

《了解した。管制室、こちらウォームウェル。緊急事態が発生。4番機が帰還する》

《ウォームウェル、こちら管制室。4番機の帰還を了解した》

 フルネのスピットファイアがまるで風に煽られたように大きく旋回して編隊を離れていった。同じタイミングで、管制室ではプロッターが長い棒で兵棋の1つを引き寄せると、機数を変えた兵棋を再び長い棒でドーヴァー海峡の上に押し戻した。

 目的地に近づく頃、管制室から無線に入った。

《ウォームウェル、こちら管制室。進路を250に固定せよ。2分後に合流できる》

《了解。各機、進路を250に取れ》

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