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ドイツ空軍は8月18日以降、攻撃の対象を拡大していった。空軍総司令部(OKL)は1か月以上に渡って戦闘を続けているにも関わらず、RAFがなお数百機の戦闘機を出撃させることが出来る現実に直面して方針を転換せざるを得なくなった。ゲーリングは麾下の空軍司令官たちに対して、次のように発言した。
「我が方としては、敵空軍における軍需補給を重大な程度に阻害しなければならない。そのための手段は、飛行機用エンジン工場およびアルミニウム工場の破壊である」
8月23日の夜。200機以上の夜間爆撃機が来襲した。フェントンの飛行機工場が猛烈な空襲を受ける。バーミンガムに近いダンロップ・フォートのゴム工場に対しても夜間に精密爆撃が行われた。
8月24日。この日から南部イングランドの飛行場群が集中的に爆撃を受けた。連日、爆弾の雨がマンストンやケンリー、ビギン・ヒル、その他の飛行場に降り注いだ。
グレツキはデブデン飛行場からビギン・ヒル飛行場に異動した。同地に駐留する第610飛行中隊に配属された後、スピットファイアへの機種転換訓練を受ける。それまでは散発的だった出撃命令がこの頃では、連日のように下されるようになった。戦闘を終えて帰還して給油を受けた後、すぐにまた出撃することも多くなった。
8月30日の夜。ビギン・ヒル飛行場に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。将校クラブの電灯が切られる。窓から青白い月明かりが差し込んだ。その月明かりを背に浴びながら、グレツキは食事の手を止めてテーブルから立ち上がった。他のパイロットたちもわれ先に格納庫に走り出す。格納庫から飛行機を移動して分散させるためだった。
グレツキは将校クラブの外に躍り出る。同じ飛行中隊に配属されたアシュケナージが格納庫の中で右往左往している整備兵たちに叫んだ。
「俺が乗る!どけ、俺が乗るんだ!」
不意に花火が弾けたような音がする。小さなパラシュートをつけた照明弾がふらふら揺れながら降りてくる。司令部の建物からピアーズが飛び出してくる。
「もうじき敵がやって来るぞ。分散作業を急げ!」
ピアーズの声は右に左に行きかう兵士が上げる叫び声でかき消されてしまう。やがて地鳴りのような音が彼方から響いてきた。おそらく何十機というドイツ空軍爆撃機のエンジン音に違いなかった。高射砲が火を噴いた。夜空の一角が明るくなる。巨大なコウモリのようなシルエットが一瞬浮かび上がった。双発のドルニエDo111の大編隊らしい。
最初の爆弾が滑走路の脇に落下する。建物が炎上する。移動中の戦闘機が何機も被弾して燃え上がる。消防車が走り回り、衛生兵がけが人を救出して回った。爆弾が雨のように落ちる中、グレツキやアシュケナージはスピットファイアをそろそろと移動させていく。グレツキが再び格納庫に戻ろうとした時、ピアーズの眼の前でスピットファイアが炎上した。
コクピットでパイロットが身悶えしていた。ピアーズはグレツキを引き留める。2人で救出に向かった。2人にコクピットから草地に引きずり出されたパイロットは腹部を手で押さえて脂汗を流していた。爆弾の破片で切り裂かれたのか内臓が露出している。ピアーズは傷口に一瞥し、優しい声をかけた。
「よくやった。機体はなんとかする」
男は唸るばかりだった。駆けつけた衛生兵がモルヒネを注射する。男はすぐに唸るのを止めた。ピアーズの背後で、男が乗っていたスピットファイアが爆発を起こした。噴き上がった炎が照らし出したのは、黒髪を汗でべたりと額にはりつけたイギリス人の横顔だった。モルヒネでぐったりしたパイロットを衛生兵が担架で運ぶ。ピアーズは燃え上がるスピットファイアを背景に、決然とした表情で立ち上がった。まるで新たな獲物を探す猛獣のように見えた。
夜間の爆撃は第一波から第五波まで、1時間近くも続いた。ビギン・ヒル飛行場は多くの死傷者を出した。飛行機の損害は比較的少なかった。ピアーズの活躍はその後も長く、部下たちの語り草になった。もし平和な時代に生きていたら、一体どんな職業を選択していただろうか。ピアーズの横顔を見ながら、グレツキはいつもそのことを考える。
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