[8]

 その日の夜、グレツキは宿舎でベッドに横たわったまま眠れなかった。

 宿舎は2人に一棟が与えられていた。ベッドとロッカーが2つずつ、それぞれのベッドの脇に小さなテーブルがあるだけの簡素さだった。身一つで戦場を渡り歩いて亡命してきた外国人パイロットにとっては十分すぎる家具だった。

 今日、初めて戦果を挙げた。単独飛行していたハインケルを撃墜した。こんな時、シュピルマンなら何と言っただろうか。貴方に会いたい。再会してこの胸につかえる全てを吐き出せたらいいのに。眠りに落ちるまでの間、グレツキは過去の残像にうなされ続けた。

 1939年9月3日。

 グレツキとシュピルマンは夕方、クラクフの郊外に住むシュピルマンの姉マリアの家を訪れた。マリアは2人の来訪に少し驚いたようだった。マリアは2人を小さなリビングに案内して弟に「何か食べる?」と尋ねる。

「リンゴでも」

 マリアは台所からリンゴと果物ナイフを持って来る。リビングのソファに腰掛けて皮をむき始める。グレツキは開いた椅子に腰を下ろした。

 シュピルマンは戸棚に収めたラジオのスイッチを入れた。ダイヤルを調節する。電気的なノイズからピアノの音色とソプラノが響き始めた。竪琴を連想させるピアノの音色。歌手が静かな祈りの歌を歌い始める。

《アヴェ・マリア、やさしき処女・・・・》

 シュピルマンはタバコに火を付ける。聖歌に耳を傾けながら口を開いた。

「まだ頑張ってる放送局があるんだな。驚いた」

 2日前、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第2次世界大戦は幕を開けた。紫煙がリビングに舞い上がる。マリアはリンゴを小皿に乗せる。

「姉さん。リンゴを剥いたらここを出る支度をしてくれ。東に逃げる」

「伯父さんたち、心配してたわよ」

「何を?」

「あなたなら分かってるでしょ。今は飛んでも死に行くもんだって」

 マリアの仄暗い瞳に光るものがあった。

 シュピルマンは答えなかった。ガラス製の灰皿にタバコを押し潰す。ため息をつき、姉の顔を見た。マリアの眼は弟の顔に注がれており、口を真一文字に結んでいた。

 シュピルマンは唸るように言った。

「姉さん。そうした心配は一切、何の役にも立ちゃしないんだ!これは運命と言うべきかな。半年前にヒトラーがチェコを併合した時に気づくべきだったが、もう遅い。まるで、シェイクスピアの悲劇を読んでる気分だ。ほら、こうあるじゃないか」

 シュピルマンは『マクベス』の一節を諳んじた。

「やがて私も死なねばならなかった。そういう報せを受ける日がいつかはやって来るのだ。明日か、また明日か、そのまた明日かと、時は1日1日とわずかな足取りでやって来る。そして、とうとう時の記録の最後の一文字に達する・・・」

「あなたは怖くないの?」

「そりゃあ、怖いよ。でも、それはオレだけじゃない」

「オレの仲間、そこのグレツキにしろ、コッチに飛んでくるドイツの野郎どもも一緒さ。誰もが背負っている。不安や恐怖。さもなくば死を」

 マリアは耐え切れなくなったようだった。急に顔を背けて泣き始めた。静かで穏やかな泣き声がリビングに伝わった。シュピルマンは姉の身体を支え、自室に連れて行った。何度も言い聞かせる声が聞こえる。

「とにかくここを出る支度をしてくれ」

 荷物は大きなカバンが1つだけだった。シュピルマンはグレツキに言った。

「すまないが、少しの間、留守番しててくれ」

 グレツキはうなづいた。シュピルマンは姉を連れて重い足取りで家を出た。誰もいない他人の家でグレツキはじっとしていた。ラジオはいつの間にか雑音しか流さなくなった。

 夜の闇が次第に深くなった頃、シュピルマンは独りで家に帰って来た。ソファに腰を下ろして重い息を吐いた。独り言のように呟いた。

「東に向かう陸軍の輜重部隊に同乗させてもらった・・・グレツキ、家族は無事か?」

「自分の両親はすでに亡くなったんです。家族と呼べる者はもう・・・」

 ふとアンナの顔が脳裏に浮かんだ。

「・・・悪いことを聞いたな。酒でも飲もう。お前の成人祝いだ」

 グレツキは先月に20歳になったばかりだった。シュピルマンが台所から持ってきたのは舶来品のマッカランだった。シュピルマンが2人分のグラスに注いで、乾杯した。水のように高価な洋酒を喉に何度も流し込んだ。

「甘いな、これは」シュピルマンは呟いた。「これは誘惑の話をする時に飲むものなんだな、きっと」

 2人でそっと肩を揺すって笑いあった。あの時に飲んだマッカランの甘さは今でも忘れられない。

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