[5]
《管制室、また現れた》
《第73飛行中隊、何機だ?》
《分からないが、少なくとも20機》
《了解、至急応援機を送る。もう少し我慢しろ》
《了解》
管制官がガラス張りのブースの中で、パイロットたちと交信している。その緊迫したやり取りがスピーカーを通じて地下の作戦室に流れてくる。部屋の中央にビリヤード台2つ分はある大きなテーブルが置かれている。その上にドーヴァー海峡を中心とした、イギリス本土とフランス北部沿岸地域の巨大な地図がある。
7月26日。グレツキはデブデン飛行場に戻った。いつでも出撃できるように飛行服を着たまま、地下の作戦室に入って行った。中二階の片隅で空いている椅子に座った。時々刻々と変化する戦況を把握するためにはこの部屋が適しているという理由で、戦闘機パイロットたちがよくこの部屋にたむろしていた。
グレツキは中二階の手すりにもたれて、1階の巨大な地図をのぞき込む。
地図の上にいくつもの兵棋が置かれている。兵棋には高度や機数が表示してあり、兵棋の状況を見れば、どの地点に敵味方双方が何機でどの高度にいるか一目で分かる。
テーブルの周りには、先端がT字になった長い棒を持った婦人隊員が数名いる。全員が大きな丸型のヘッドフォンを装着している。その耳にはレーダーが捉えた情報、戦闘機や対空監視哨からの報告が次々に送られてくる。婦人隊員たちは新しい情報が入る度に、地図上の兵棋を長い棒で手元に引き寄せては、高度や機数が書かれたチップを入れ替え、最新の情報に基づいて兵棋を置き直す。婦人隊員たちはプロッターと呼ばれていた。
作戦室の天井に大きな扇風機が2台回っていたが、室内は人いきれでひどく蒸し暑い。プロッターたちが着ている淡い青色のシャツも汗で濡れて、肌の色が透けて見える。グレツキたちがイギリスに来て間もない頃、ロンドン市内のベントリー修道院に置かれた情報中継室を訪れた時と同じだ。
「お前ら、プロッターばっかり見るんじゃないぞ」
シュピルマンがそう冷やかして周囲が笑いに包まれる。常に平静を失わずユーモアを解するシュピルマンはグレツキの憧れだった。葬儀の後、シュピルマンが眠る棺をポーランド人パイロットたちで担ぎ、ダックスフォード飛行場から数キロ離れた墓地に埋葬した。司祭が香炉を振る。棺を吊った滑車が緩み、ゆっくりと土の中に降りていった。
帰り際、アシュケナージがあることを思い出した。シュピルマンがよく口ずさんでいた歌曲のことだった。シューマンの「二人の擲弾兵」。ロシアで捕虜になった2人の擲弾兵が皇帝―ナポレオン1世が捕らえられたことを知り、嘆き悲しむところから歌は始まる。ポーランド人パイロットたちは声を合わせて歌った。
〈ロシアで捕虜になっていた2人の擲弾兵が、フランスへの帰路をたどっていた。
ドイツの宿舎にたどりついたとき、二人はがっくりと首を垂れた。
そこで彼らは悲しい噂を聞いたのだ。
フランスが敗北して、大軍は壊滅し、皇帝が、皇帝が捕らえられた、と。
擲弾兵は手を取り合って泣いた、この痛ましい報せのために。
1人は言った。「なんと悲しいことだ、古い傷が燃えるように痛む!」
もう1人が言った。「何もかも終わりだ、おれはお前と一緒に死んでしまいたい。だけど、家には妻と子どもがいる。おれがいなければ奴らもお終いだ」
「女房や子どもなど、どうだっていい。おれの望みはもっと高いんだ!奴らが飢えたら、乞食にするがいい。
皇帝が、皇帝が捕らえられたんだ!
兄弟よ、おれの願いを聞いてくれ。おれが今死んでしまったら、おれの屍をフランスへ運んで、フランスの土に埋めてくれ。赤いリボンの名誉の勲章を心臓の上に飾ってくれ。おれの手には銃を握らせ、腰には剣をつるしてくれ。
おれは墓の中に横たわりながら、歩哨のように耳をすます。
やがて大砲のとどろきを聞き、いななく馬の蹄の音を聞くまで。
その時、墓の上を馬上の皇帝が駆けぬけ、無数の剣が鳴り、火花が散るだろう。
その時、おれは武装して墓から出るんだ、皇帝を、皇帝を守るために。〉
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