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 シュピルマンの葬儀はダックスフォード市内の教会で執り行われた。遺体が収められた棺の前に献花台が置かれ、イギリス各地の飛行中隊にいる同郷のポーランド人の他にフランス人やベルギー人、アメリカ人パイロットたちも花を添えた。

 グレツキは教会を出てタバコに火を付けた。子どもの頃から教会は嫌いだった。聖堂の冷たい雰囲気を毛嫌いし、葬式は尚更だった。これからシュピルマンはドイツに占領された故郷から遠く離れ、異国の墓地に埋められる。

 ふとシュピルマンがある歌曲を口ずさんでいたことを思い出した。

 ハイネの詩にシューマンが作曲した歌曲だった。グレツキはこんな時期にドイツ語の歌曲なんてと快く思っていなかったが、シュピルマンは「俺たちが憎むべきはちょび髭の伍長殿であって、言葉に罪はないぞ」と言い返した。「歌詞が良い。歌に皇帝が出てくるが、昔は俺たちの国にも皇帝はいたんだ。俺の一族には貴族シュラフタがいた。皇帝を守る騎馬隊を率いてたんだ」

 空は重く雲が垂れ込んでいる。自分の眼と同じ灰色。夏とは思えない乾いた風が黒髪をなびかせる。

 通りにビュイックが停まる。車から出て来たのは、喪服に身を包んだ女性だった。

 女性がうつむいていた視線を上げた時、教会の入り口に佇むグレツキの姿を認めたようだった。グレツキはゆっくりと石段を上がる女性の様子を観察した。赤らめた頬。美しいブロンドの髪。ヒスイのような深緑色の瞳。体格は少し細い。女性が口を開いた。

「すいません、ここがシュピルマン中尉の葬儀会場でしょうか?」

「ええ、そうですよ」

 2人は連れ立って教会に入った。女性は献花し、最期の様子を誰かに尋ねていた。表情はよく見えなかったが、ショックを受けているような雰囲気だった。その様子をグレツキは遠目で眺める。

「あの女の人、シュピルマン中尉と付き合ってたんです。看護婦ですよ」

 シモン・アシュケナージが隣の席から声をかけてきた。アシュケナージも元はポーランド空軍に所属していたが、今はRAFで少尉である。グレツキは低い声で答える。

「へえ、中尉は俺たちの英語の先生と仲が良かったけどな」

 イギリスにたどり着いたグレツキたちはすぐにRAFに編入されたわけではなかった。外国人パイロットたち―特にポーランド人やチェコ人、フランス人たちは戦闘機部隊に配属される前に数か月間、英語の教育を受けた。英語の先生は女性だった。

「彼女は死にましたよ」アシュケナージは言った。「敵の空襲でね。ひどいもんです」

「ああ」

 グレツキは生返事を返した。女の様子を遠目に眺めている内に、グレツキが思い出していたのはドイツに占領された故郷に残してきた幼馴染のことだった。

 1938年夏。アンナが複座の複葉機のコクピットに座ってみたいとせがんだ。グレツキは訓練生が座る前部座席にアンナを座らせ、後部の教官用座席に腰を下ろした。普段は前部座席に座っているので少し慣れないが、グレツキにはちょっとした魂胆があった。

「ねえ、教官殿。アタシにも操縦を教えてちょうだいな」

「いいとも。まずは操縦桿の動かし方だ。こうして前後に動かすと、ほら昇降舵が動いただろう。今度は自分で動かしてみて・・・ほら、翼を」

「あっ、本当に動いたわ」

 昇降舵とワイヤで直接連結されている操縦桿を動かすのは女性にかなり骨だが、複葉の練習機なら後部座席の教官が操縦桿を動かせば、前部座席の操縦桿も連動するように設計されている。つまり、前部座席の操縦桿はグレツキの意のままに動かせるのだ。

「さあ、今度は上昇の訓練だ」

 グレツキが操縦桿をゆっくりと手前に引く。前部座席の操縦桿もゆっくりとアンナの股間を目指して進んでいく。

「ちょっ、ちょっと何よコレ」

「上昇さ」

 グレツキはさらに操縦桿を手前に引いた。前部座席の操縦桿はアンナが着ていた水色のスカートを押し上げ始める。

「イタズラっ子ね」

 グレツキは操縦桿を一気に引き上げた。

「教官殿、上昇しすぎです!」

「いいんだ。天国ヴァルハラまで一直線さ!」

 女性がパイロットたちに頭を下げて回り、教会を出て行った。その後姿を見ていたグレツキは教会の入口を一瞥する。男が一人、扉を開けて教会に入ってきた。

 制服の階級章は大佐。いま葬式に参列しているどの空軍兵よりも上官だろう。何人かは姿勢を正して敬礼した。だが、一段とグレツキの眼をひいたのは男の姿だった。右眼に眼帯を着け、制服の右袖が歩くたびにふらふらと揺れている。腕が無いのだ。

 男は周囲の視線を意に介さず、背筋を伸ばした姿勢で花を手向ける。そして、棺桶に眠るシュピルマンの遺体に敬礼した。その光景がグレツキの胸中に焼きついた。

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