[3]

 デブデン飛行場から5キロ離れた繁華街。

 グレツキは傷だらけのバーカウンターに両肘をついている。

 顔色の悪いバーテンダーがカウンターの内側に独り突っ立っている。酒の注文を聞く時以外は一言も喋ろうとしない。ほとんど表情を変えずに、グラスを磨いている。

 バーボンのロックが入ったグラスを見つめる。ストールに腰かけたまま、グレツキはまもなく忍び寄って来るはずの酔いを待っていた。コシュラーは右隣のストールでグレツキと同じ物を飲んでいる。

「昨日は危ないところだった」コシュラーは言った。「敵機に後ろを衝かれたんだが、ダックスフォードから来たスピットファイアに助けられた。でも、ありゃあ不運だった」

「何があったんだ?」

「撃墜されたユンカースに激突されて一緒に海に落ちたんだ。そういえば、ダックスフォードから来た誰かがお前を知ってた。無線で呼びかけてきたんだが、英語は拙なかった。俺たちと一緒で外人パイロットなんだろう」

 コシュラーはチェコの出身だった。グレツキは無線の主を尋ねた。

「たしか、シュピルマンって言ったかな?」

「シュピルマン?セルジュ・シュピルマンのことか?」

「そんな名前だ。知り合いだったのか?」

「俺に飛行機の操縦を教えてくれた教官なんだ。ポーランドから一緒に逃げてきた」

 シュピルマンによる操縦課程の最終審査に合格した日のことは生涯、忘れられない。

 コニス駅の駅舎の窓ガラスが、ポーランド空軍の訓練用複葉機のエンジン音で割れんばかりにビリビリと鳴ったのは1938年8月のことだった。前部座席に訓練生のグレツキ、後部座席のシュピルマンを乗せたダーク・グリーンの複座の複葉機は超低空飛行で小さな田舎駅のプラットホームをすれすれに飛行してみせた。

 コニス駅上空から訓練用複葉機が向かったのは、ポーランド空軍が所有するクラクフ軍用飛行場だった。グレツキが操縦する複葉機は三点着陸を決め、軍用トラックの手前でピタリと止まってみせた。トラックにグレツキの同輩たちがたむろしていたが、グレツキの着陸を見て「ほう」と驚嘆の声を漏らず者も多かった。

 複葉機のコクピットから降り立ったシュピルマンはゴーグルを外し、黒い革製の飛行用ジャケットの内ポケットから厚みのある手帳を取り出して、何やらメモをする。

 グレツキはシュピルマンの後を追うようにして、前部座席から飛び降りた。メモの内容が気になって仕方がない。シュピルマンの手帳を背後からのぞき込むようにしながらゴーグルを外す。シュピルマンが黒いブーツで大股に歩を進めながら、グレツキに尋ねる。

「今日の自分の飛行フライトをどう思う?」

 シュピルマンは戦闘機パイロットとして最高の技量の持ち主である。そのことを知っていたグレツキにとって、シュピルマンは憧れだった。シュピルマンに一人前の戦闘機乗りとして認められることが当面の目標であり、いつかはシュピルマンのような戦闘機乗りになることが人生の目的だった。

「ちょっと乱暴でしたか」

「いや、そんなことはない」

「じゃあ、少し速度を落としすぎた?」

「それも違う」

「それ以外、自分に思い当たることは・・・」

 パンと音を立てて手帳を閉じる。シュピルマンは力強く親指を立ててみせた。

「完璧な飛行だった」

「本当に!まさか?」

 グレツキは思わずシュピルマンの手を取ってその場で踊り出した。2人の様子を見て軍用トラックにたむろしていた同輩たちが歓声を上げる。

 回想はコシュラーの感想で断ち切れる。

「麗しき思い出も今は昔か」

 グレツキは思わずコシュラーを睨んだ。コシュラーは声を低くして続けた。

「もしかしたら、落ちたスピットファイアに乗っていたのは、そいつかもしれないぜ」

 グレツキはバーボンを口に含む。舌が痺れてくる。だが酔いは一向に訪れない。

 7月22日。北海を航行中の輸送船団はフラムボロー・ヘッド岬の沖合で1人の遺体を引き上げた。遺体は海水で腐食され、ぶくぶくと腫上がっていた。遺体から軍章が見つかり、第19飛行中隊所属のセルジュ・シュピルマン中尉を判明した。

 7月23日。輸送船団はボードジーに到着した。シュピルマンの遺体はダックスフォード飛行場に搬送された。同報はデブデン飛行場にいるグレツキにも伝えられた。シュピルマンの葬儀は明日だった。

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