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1940年7月。第2次世界大戦の火蓋が切って落とされて約1年が経過した頃、イギリスは
イギリス側は本土決戦の開始時期を公式に7月10日と定めた。この日、英仏海峡を航行する船団の上空で熾烈な航空戦が発生した。この時期、ヒトラーはまだ欧州西部における無血勝利の可能性を頭の片隅で期待していた。しかし、和平の実現に特に熱心であったわけではない。英本土への上陸侵攻という代替策を推進することも怠らなかった。
英本土上陸作戦が最初に検討されたのは1939年秋、ドイツ海軍総司令部(OKM)によって行われた。もし当時にヒトラーの戦略がその方面に向いた時、海軍としても準備が出来ていなくては困ると考えたためである。その後、海軍と陸軍で中途半端な研究が続けられたが、ノルウェーやフランスに対する攻撃計画が優先されるにつれてイギリス上陸作戦の研究は中止になった。
ヒトラーは海軍総司令官レーダー元帥と会談した際、レーダーの意見に接した。すなわち上陸侵攻は「最後の手段」にすべきであり、完全な制空権の確保という条件下でのみ行うべきである。さらにレーダーは当面の戦略として、Uボートと航空機によるイギリスの封鎖を採用すべきだと付け加えた。
だが、対仏戦の勝利にわく陸軍は海軍に比してはるかに明るい見通しを示した。陸軍総司令官ブラウヒッチュ上級大将はこう確約した。もし海軍が陸上兵力の輸送を行い、空軍が上陸地点の橋頭堡を掘保護してくれるならば、陸軍はイギリス地上軍による抵抗など簡単に制圧してみせる。
7月16日。ヒトラーは総統指令第16号を発令する。冒頭に命令の趣旨が示された。
「イギリスが自己の置かれた絶望的な状況にも拘わらず、妥協の道を採ることに意欲を示していない現状に鑑み、ここに本官は決断を下して、イギリス侵攻に向けて準備作業を開始し、もし必要な時はこれを実行することとした」
イギリス侵攻作戦計画は国防軍総司令部(OKW)によって「アシカ」という暗号名を与えられた。
7月19日。ヒトラーは帝国議会の臨時会議の席で、対仏戦の勝利による階級特進を発表した後に「理性と良識に対する最後のアピール」と称する言葉を述べた。このアピールには脅迫が付けられていた。ヒトラーはドイツ西部に対するイギリス爆撃機軍団の空襲に言及して、これに返礼することを約束した。この返礼はイギリス国民に対して「限りない苦痛と難儀」をもたらすことになるだろうと言った。
7月22日。英外務大臣ハリファックス卿はラジオ放送を通じて、ヒトラーの「和平提案」は「屈伏せよとの単なる命令」に過ぎないとして無視する態度を明らかにした。チャーチル自身は返答することを拒絶した。その理由に「ヒットラー氏」とは「口をきく間柄ではないので」と言った。
ドイツ空軍は「アシカ」作戦に合意が見られるまでの期間、イギリスの船舶に攻撃を集中した。その狙いはイギリスの通商活動を圧迫するとともに、RAFの戦闘機軍団を疲弊させることだった。イギリス戦闘機は本土上空を離れた洋上で、困難な状況下で戦うことを余儀なくされる。
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