プロローグ:1940年9月15日
戦争
花たちが庭の上から消えるころ
わたしは空の上で戦う
芝や花の地面が硬くなり
ひ弱なトリが飢えと死に襲われるころ
戦死者の名簿は厚くなる
人の眼が涙に濡れて赤くなり
わたしの殺した敵の数が増えるころ
いまは亡き友への思いは募る
A・N・C・ウィアー英空軍中尉(1940年11月に撃墜され死亡)
《油の匂いか・・・いや、違うな》
ヴォイチェフ・グレツキはスーパーマリン・スピットファイアに揺られながら、鼻をうごめかした。ポーランド人で元は空軍パイロットだったグレツキは去年にドイツに占領された母国から脱出し、イギリス空軍―RAF(ロイヤル・エア・フォース)に数多く所属する外人パイロットの一員となった。
グレツキが駆っているスピットファイアはRAFの主力戦闘機である。胴体や翼、キャノピー(風防ガラス)までもが円やかな曲線で設計されていた。厳めしい外観をしているドイツ空軍のメッサーシュミットとは対照的だが、「
キャノピーに何かが明滅していた。雷か。今は北海をイギリスに向けて飛行しているはずだった。眼前に広がる風景は灰色一色。敵のドイツ空軍機―メッサーシュミットMe109に背後を衝かれて低気圧に逃げ込んだ。
スピットファイアがどんと突き上げられる。グレツキは反射的に操縦桿を押さえつけた。キャノピーの表面を次から次へと水滴が後方に流れていく。雨か。あるいは風に巻き上げられた波しぶきか。時おり雨に混じり、黒い液体が付着して後方に流れていく。燃料が漏れている。マーリン・エンジンが被弾していることに、グレツキはようやく気付いた。機体が失速しないように注意しながら、ゆっくりとスロットルを絞る。
不意に、厚い雲の中から不気味なエンジン音が響いた。スピットファイアが装備するエンジンの落ち着いた振動とは全く違うものだった。時おりキャノピーの割れたガラスから侵入する雨水に染みて右腕に激痛が走る。右腕の上腕部に眼をやる。飛行服に赤黒い染みが広がっていた。グレツキはヘルメットから無線のコードを引きちぎった。それを右の上腕部に巻き付け、きつく結んで止血する。思わず激痛に呻いた。
飛行服に赤黒い染みがじんわりと広がっていく。雨水に濡れたところから身体が冷え始めていた。茫洋とした意識の中、グレツキはいっぱいに眼を見開いた。急激に色の付き始めた走馬灯が網膜を走った。
《そうか、分かったぞ。これは夏草の匂いだ》
はっきりとした声が唇から漏れた。
「これは草いきれなんだよ、クラクフの」
赤や白、黄色などのさまざまな色が次々に瞬いた後、雨雲の灰色を微かに灰緑色が侵食し始めた。緑はみるみるうちに辺り一面に広がっていった。眼の前に夏草が生い茂る広大な滑走路が出現した。
《ああ、自分はクラクフに帰ったのか》
クラクフ郊外の軍用飛行場。滑走路に巨大な鳥が一羽―複葉の練習機が1機、羽を休めるように丈の高い夏草の中にうずくまっていた。翼の両端にポーランドの国旗が丸く染め抜かれている。白は実直さや善、赤は勇敢を象徴する。白と赤の二色旗は帆布製のダーク・グリーンの翼に彩りを添えて、夏の陽光に照り輝いていた。
夏草の匂い。滑走路の上を渡って来た熱く乾いた風。1938年夏。グレツキはたしかにその感触を思い出していた。色白い顔が胸の中に詰まっていた。
《そう、アンナの長いブロンドが風に流れていた・・・アンナは髪留めを草の中に落としてしまったんだ。草が深くて見つけようもなかった・・・》
不意に、機首が下がる。巨大な手に機体を掴まれ、海に引きずりこまれるそうだ。
「くっ」
呻き声が漏れる。敵機がいつ再び襲ってくるか分からない。グレツキは夢想から眼を覚ました。機体の振動を抑えるように操縦桿を握り締めながら、約2か月前に戦死した同郷のパイロットのことを思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます