第1話④ 店長 江尻克巳


 江尻えじりのブラックリストに載る人物が次々とやって来る。次は三十代の小太りの男だった。頻繁に姿を現す問題クレーマーだった。とにかくねちこくまとわりつく粘着質の性格で、クレームは必ず自分より弱いと位置づけたクルーに向ける。だから男性クルーや中年主婦パートの多い時間帯に彼が姿を現すことはなかった。

 彼はいつも歩いてくるので、店内に入って来ない限り、出現したと認識することはできなかった。だから彼の姿を認めたときには、すでに彼は四番の泊留美佳とまり るみかの前にいた。

 現在のカウンターの顔ぶれを見て、明らかに意識的に留美佳るみかを選んだのである。すでにはるか富貴恵ふきえを連れて奥へ行ったのでこの場にはいない。ここは自分が背後でフォローしなければなるまいと江尻は考えた。

 この男はとにかく波長を合わさないようにすることにかけて天才だった。まさに不協和音のスペシャリスト。留美佳がオーダーを打ち込んでいるその瞬間に次のオーダーを小声で口にする。聞き逃した留美佳が聞きなおすと、すぐ不快な表情を浮かべてプレッシャーをかけてきた。

「オレンジジュースは氷抜きにしてくれ、エムサイズでね。それからポテトは塩少なめで、できるだけ乾いたところを頼む。この間やけにしけていたからね……」

 これがファーストフードの注文かと首を傾げたくなる。

 留美佳が彼にあたったのは初めてだった。噂には聞いているはずだが、全く気づいていないのか、変わらぬマイペースで動いている。それでいいと江尻は思った。何かあれば自分が出て行く用意はしていた。

「ストローは挿さなくていいって言っただろう!」

 突然切れ始めた。店内で食べる時飲み物にストローを挿して渡すことが多い。もちろん客には確認をとるのだが、氷を入れていないことを確認するうちに、ストローを挿すかどうかの確認を忘れ、ついうっかり挿してしまったのだ。彼は必ず自分でストローを挿すタイプだった。しかし「ストローは挿さなくていい」と言うのはいつものことであるものの、今日はその話題すら出なかったのだから、彼が今日そう言ったというのは間違いである。

「申し訳ありません」と留美佳は平謝りするだけだ。顔に極度に緊張が走っている。このままでは第二、第三のミスをしでかしかねない。

「お取替えいたします」と江尻は彼に声をかけた。すでに新しい氷なしドリンクを手にしていた。

「店長か、相変わらず新人の教育が行き届いていないな」

「申し訳ありません、至らぬところが少なからずございますが、日々指導を行っておりますので、どうかご容赦ください。以後気をつけます」

 お決まりの文句を冷ややかな目で聞いただけで、それ以上の絡みはなかった。

「それにしても、氷がないとこんなに量が少ないのか。これではSサイズだな」

 いつもと同じ量で間違いない。それは彼も知っているはずだ。

 彼はトレイを手にして、入り口近くのカウンター席へと移った。クルーの目の届くところに必ずいる。それはクルーに無言の圧力をかけるに十分な行為だった。

 とりあえず江尻は胸をなでおろす。あとはバーガーやポテトの仕上がりに対するクレームがないかどうかだ。最悪の場合、取替えで対応できるのだ。

 とにかくこの手の客は少々コストがかかっても静かに甘い対応を返すしかない。中途半端に毅然とした態度をとろうとすると、無闇矢鱈騒ぎ出すのだ。


 ほっとしたのもつかの間、誰の目にも明らかに太った女が二人、やんちゃな盛りの幼児を三人連れて入ってきた。母、娘、孫三人の一家だが、揃って肥満体である。週に三度はここを利用している。ハンバーガーショップの店長をしていてこう思うのもおかしなものだが、もう少しバランスのよい食事をしてダイエットをした方が良いのではないか。

 しかし彼女らも江尻のブラックリストの客だったので、彼は慌てて留美佳をカウンターから外し、客席業務をするよう言いつけた。

「あら、何? 客が並んでいるのに、レジを一つ閉めちゃうの?」と最もふてぶてしい面構えの母親、幼児から見れば祖母にあたる五十代の脂肪の塊女が、嫌味たらしく言い放った。がらがらした棘のある声は嫌でも店内に響いた。

「はい、こちらへどうぞ」と江尻は自分が四番カウンターについた。この客を自分のところへ呼ぶための姑息な手段だったのだ。

 自分がアルバイトの身分だった頃は、この手の客を相手にするのは御免蒙りたかった。しかし今や店長となった身では、バイトのクルーに相手をさせて何か因縁をつけられるくらいなら、自分で対応した方が気持ちが楽である。だから最近はすすんでブラックリストの客を相手にしているのだった。

「店長自らお出ましかい」と下品な笑いを浮かべた大きな顔が目の前に来た。何度も顔をあわせているのですっかり馴染みだった。

 一番前にやって来る割には、オーダーは娘にさせている。この娘、母親にそっくりの顔、そっくりの体型をしていたが、必要以外のことをほとんど喋らない。それはまるで虎の威を借る狐のようだった。小さい頃から威圧的にしつけをされてきて、母親に反抗しない性格ができあがったのかもしれない。そのためか自分の子供に対しては全く放任主義だった。今も子供たちは店内を鬼ごっこの場と勘違いしたかのように走り回っている。娘がオーダーをしている間、母親が孫子をだみ声で叱咤していた。

「こら、走り回るんじゃない! 静かにおし!」

 小さな子供らは笑い飛ばしてはしゃぎ回っていた。そして時折り、先ほどの粘着クレーマーの男のあたりに近づいて、小さな接触をする。男は心底嫌そうな横目で、この肥満家族を蔑視していたが、彼らに何か文句をいうことは一切なかった。

 店の客に対するクレームは、後ほど店の方に向けられるのだ。「マナーの悪い客をちゃんと注意しろ」だの、「あんな見え透いた手に引っかかって、余計なサービスをするな」などと注意をするのである。

 彼が言う「見え透いた手」とは、ドリンクにコバエが入っていたとか、バーガーの挟み方が雑だとか言って、半分以上口にしてからクレームをつけ、新しいものと取り替えることを要求するのだ。ひどい例では、トイレがあまりに汚くて子供が気持ち悪くなって吐いてしまった、どうしてくれるのか、といったクレームもあった。それぞれ代替品やら次回のクーポン券やらで対応していたが、そうした扱いを粘着クレーマー氏はよく見ていて、自分への対応と常に比較するらしい。

「ああいう悪質な奴らには毅然とした態度をとれ」などと、自分のことは棚に上げて叱責する始末だった。

 江尻は常に自分たちが試されていると思うことにして、穏やかに大人の対応をすることにしている。彼らもこの店の常連客には違いないからだ。不思議なことにクレームをつける客ほど、よく店に足を運んでいた。彼らが適度に現れることは、クルーたちに緊張感をもたらし、ひいてはスキルアップにもつながるのだ。

 こうしてブラックリストの客たちとも、長い付き合いとなっていくのだった。


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