第2話① 本社トレーナー 柚木璃瀬


 柚木璃瀬ゆずきりせはクイーンズサンド東京本社に就職して三年目になる。本社勤務といっても一年のうち大半が地域の店舗へ出向して高校生などのアルバイトクルーのトレーニングを施すトレーナー業務であり、かつては自分もアルバイトをしていた慣れ親しんだ現場をあちこちと渡り歩いていた。

 時には高校生に混じってカウンターレジに立つこともある。地域の店舗は、小さいところでは常勤が店長ひとりのみというところもあり、必要に応じてどのような業務にも対応するよう本社から言われていたからだった。

 ここ最近は担当が東京都西部地区になったために、母校のつつじヶ丘学園高校そばのショッピングセンター内の店舗に行くこともあった。そういう時は母校の制服を見かけるとなつかしい気分にとらわれて、つい足をのばしたくなることもあったが、かつての恩師も多くが退官してしまい、いざ訪問するとなると少し逡巡を感じてしまうところとなっていた。二年前には同期の者二名が新任教師として教鞭をとっていたと聞いたのだが、いま彼女らはどこか別の高校へと転勤して行ったという話だった。

 こうした馴染みのある店に派遣される時は、気持ちも穏やかになり、足取りも軽くなるものだが、派遣先によっては極度の緊張を強いられる現場もあった。

 つつじヶ丘ショッピングモール店から車で数十分のところ、つつじヶ丘とは別のベッドタウンがあり、各駅電車しか止まらない小さな駅のそばに明葉ビル店というのがあった。駅から徒歩三分というところにあるその店舗は、パートもアルバイトもほとんどすべて地元の人間でまかない、かなり地域に密着した店だったが、高校生アルバイトの入れ替わりが激しく、璃瀬は頻繁にクルートレーニングのために出向しなければならなかった。

 明葉ビル店には、常勤として登録しているスタッフが三名いた。いわゆる店長と呼ばれるマネージャーの江尻克巳、SWと略されるスイッチマネージャーの松原康太、宮本遥の三名である。

 最近璃瀬は、彼ら三名との間にある種の溝を感じるようになっていた。どこの店舗に行っても、自分より年上の常勤スタッフがたくさんいるものだが、璃瀬は常勤スタッフとうまくコミュニケーションをとりながら、高校生たちの教育を行っていた。店によっては璃瀬は同じ店の店員として、すなわち仲間として迎えられていたから、気持ち良くアルバイトクルーのトレーナー業務を行うことができた。そこでは自分も殻に閉じこもったり、鎧を纏ったりすることなく、自分をさらけ出して行動することができたし、現場のスタッフも年齢に関わらず璃瀬に敬意を表し、その考えを尊重してくれた。しかし、この明葉ビル店では、思うように力を抜くことができず、むしろ何か警戒感を感じて硬くなり、ことばも温かみを失っていくように感じられた。どこでボタンを掛け違ったのかわからないが、今や自分はこの店にとって邪魔者のようになっていると璃瀬は感じるようになったのだ。

 そういう状況になった要因の一つに、スタッフに対する不信感がある。

 店長の江尻克巳、三十歳。彼は高校時代からQSのアルバイトを始め、そのまま大学へ入ってからもトレーニングを受けながら徐々にスキルを増やして行き、やがて大学卒業する頃にはスイッチマネージャーになった。その後あちこちの店舗を渡り歩いた挙句、ようやくこの明葉ビル店の店長となった経歴の持ち主である。いわば現場のたたき上げだった。

 その江尻のこの店に対する思い入れは相当なものだったろう。彼は本社の意向や介入といったものをすべて快く受け入れるというタイプではなかった。この地域にあった店作りを目指すと常々口にしているが、それは「ここは俺の店」と主張しているように璃瀬には見えた。その典型的な例が、アルバイトの採用に現れていた。この店舗のアルバイトクルーが他の店舗に比べて早々とやめて行き、つぎつぎ補充を余儀なくされていることは事前の情報として璃瀬は知っていた。同じQSであっても、店によって過酷な労働条件を強いられる場合がある。都合よくすべての時間帯に必要な人数を確保できるとも限らないし、そうなれば今いるスタッフに無理な業務をさせることになり、結果としてそれが契約解除となることもある。しかしこの明葉ビル店においては、あきらかにアルバイトに向いていないタイプの高校生を多数採用してしまっているように璃瀬の目には映った。

 江尻はやたら外見の綺麗な女の子を好んで採用した。璃瀬が五月頃初めてここを訪れた時に感じたのが、カウンターレジにずらりと並んだ美少女たちだった。ここは歌舞伎町でもなければ、秋葉原のメイド喫茶でもないのだ。ふと璃瀬の頭の中に江尻克巳に関する情報ファイルが開かれた。

 彼は十軒以上の店舗を渡り歩いたが、その中の一つで店の高校生アルバイトに手を出していた。

 若い男女がたくさん同じところに集まって仕事をしていれば、そこで男女の恋愛やいざこざが生じるのは珍しくはない。しかし当時二十代半ばだった彼が、十六、七の娘と交際したとなると、その娘の親が本社に抗議を入れたこともあって、ゆゆしき問題となってしまった。結局彼はこの件で別の店に配置換えされている。その情報は地域開拓部門の吉田営業部長から聞いた話だった。

「君も気をつけたまえよ」と吉田部長は璃瀬に忠告した。「彼には君も、若く美しい娘くらいにしか見えないかもしれないからな」

 璃瀬はそれが冗談だと思っていたが、初めて彼の店舗を訪れて、アルバイトクルーの顔ぶれを目にした瞬間、半信半疑にまで考えが変化した。そして閉店時間後にまで及んだ打ち合わせの後、少し飲みすぎた自分をホテルでの休憩に誘った江尻の態度を見て確信したのである。この男は要注意人物だと。

 確かに仕事はできるだろう。看板娘を揃えた効果も表れている。常連客が定着し、店はなかなかの業績を上げていた。しかし彼には女性に対して外見の美しさにしか価値を見い出せない本性が隠れているのだ。彼がまだ独身だという事実もそれを支持しているに違いないと璃瀬は考えた。交際相手はいるのだろうか? もしいなければさらに要注意だ。璃瀬は自らもガードを固め、店のアルバイトクルーたちにも目を光らせることにした。

 店のナンバーツーは、SWの松原康太だった。二十七歳、チーフと呼ばれている。彼もまた江尻と同様あちこちの店を渡り歩いてこの店に辿りついた男である。やがては江尻のようにどこかの店の店長になるのかもしれない。現在はキッチンの方で主力と指導者の役割を担っていた。

 松原には交際相手がいるようだったが、それでいてアルバイトの女の子には目がない。「チーフ」などと呼ばれるとつい顔がほころんでいる。それを知っていてわざと甘ったれた声をかけて反応を楽しむつわものが彼女らの中に一部いた。童顔で年齢より若く見えるため、あまり警戒感を感じないのかもしれないが、舐めているととんだ目にあうと璃瀬は忠告してやりたかった。彼については女の子に手を出したというはっきりとした情報はなかったが、本社に報告されることだけがすべてではない。江尻よりは打ち解けて話はできるが、それでも璃瀬は注意を怠らなかった。

 高校時代、璃瀬はつつじヶ丘のショッピングモール店でQSのアルバイトをしていた。そこは通学するつつじヶ丘学園があるいわば地元だったので、同級生が客として来ることもあったあし、長く続けていれば顔なじみもどんどん増えるようなところだった。アルバイト仲間同士も大変仲が良く、璃瀬の高校は女子校だったが、このバイトを通じて男子の友達もできた。その中に初めて恋焦がれた男子高校生もいたが、その彼は別の女子高生アルバイトと仲が良くなってしまい、璃瀬の初恋は、はかないうたかたとなって消えた。

 他にも結構カップルができたりして、ついには修羅場となるような事態もあったものの、この時のバイトの経験が、のちのちQSへ就職しようかと考える一つのきっかけとなったことは間違いない。

 ファーストフード店でのアルバイトは見かけの華やかさとは裏腹に薄給で肉体的にも過酷な労働である。そこで一緒に仕事をした仲間と、ふとしたはずみで男女の仲に発展することがあったとしても、無理もないことだと璃瀬は認識している。とかく汗して働く姿は実際以上に美しく見えるものだ。璃瀬の初恋の相手も同様で、いざ付き合ってみると優柔不断で頼りなく、しかも将来に対して何の展望もない男だったと、彼と実際に付き合った女の子は別れた後に語ったという。その時璃瀬はその意味するところが実感できなかったが、大学時代に二人の男性と付き合った経験から、今何となくわかるような気がするのだ。

 同じ年頃の男の子というものは、多数棲息しているエリアにいけばそれこそいくらでも捕獲できるものだと璃瀬は叡智大学に進学した時、必然的に知らされた。明鏡大学と並んで私学の両翼と称される叡智大学は、これまで女子校とアルバイトという世界しか知らなかった璃瀬に未知の大海を教えてくれた。そこには選り好みさえしなければ掃いて捨てるほどたくさんの男たちがいて、璃瀬は意外なくらい何の苦労もなく彼らに取り囲まれて学生生活をエンジョイすることができた。高校時代は、男性などというものには自分は縁がなく、周囲に数多くいた美しい同級生たちを羨望の目で見たものだったが、QSのアルバイトで男性とのコミュニケーションを方法を覚え、大学に進学して同期の女子大生たちと自らを着飾る術を競って会得した璃瀬は、いつしかキャンパスでも評判の美人と言われるようになった。まさか自分が美人といわれるような人間だったとは、高校時代は思いもしなかったが、周囲の環境によって人はいくらでも変われるものだと思うようになったのである。

 璃瀬はそれほど努力もせず交際相手を得た。一、二年生の教養時代に一人、三、四年生の専門時代に一人、計二人の男子学生と付き合ったが、彼ら二人はタイプこそ異なれ、いずれも学生時代に付き合うには楽しいが、将来をともに歩んでいく相手とするには全く想像もできない男たちだった。彼らの行動パターンは、どこかへ遊びに行く、何かのイベントを見に行く、しかなく、それに行き詰ると必ずセックスなのだ。極端な話、一日中部屋に閉じこもっていることもできるのだ。同じ年頃の学生に魅力を感じなくなったのはそれからだった。

 あるいは自分も未熟だったのかもしれないと今になって璃瀬自身も思うことがある。何気ない日常に幸せを見つけながら歩んでいくのが、将来にわたる付き合いだと思うようにもなった。学生時代の短い付き合いで、すぐにつまらない相手だと思うようになったのは、自分自身にも共有する時間を楽しく感じさせるスキルが足りなかったのだと思う。しかしそれをどうやれば手に入れることができるのか、まだわからない。垢抜けたつもりではいたが、相変わらず不器用な人間なのだと璃瀬は自覚した。

 璃瀬は今年二十五歳を迎える。交際相手はない。出向先で声をかけられることも多かったが、第一印象や外見だけで寄って来る男と長い付き合いができないことは思い知らされていたし、職場で出会う男たちはたいてい璃瀬より学歴が劣っていた。学歴がすべてとは思わないが、低学歴でQSにいる限り、将来の収入に望みはない。かといって、理想の男性を求めて出会いの場へ出て行くゆとりなどなかった。

 就職してからのこの二年はQSのトレーナーとして自分の技術を磨くことに一所懸命になった。自分の教え子が立派にレジ業務をこなしているのを見ると、うそ偽りなく自分も幸せな気分になる。店によってはこの子には無理ではないかと思うような子もいたが、根気よく指導を続けてようやく開花したときには、これ以上ない達成感を味わうこともできた。最近では少しできの悪い子の方が指導のやり甲斐があると感じるようになった。

 そうこうするうちに二十五を迎える年になったのだ。自宅へ帰ると両親がそれとなく交際相手の有無を聞いてくる。璃瀬には今年大学四年の三つ年下の妹がいたが、二人の娘を抱える両親としては、そろそろ上の娘の嫁ぎ先を意識する時期に来ていたのかもしれない。いかに現代が晩婚化がすすんでいて、三十を過ぎてからの結婚が多くなったとはいえ、周囲から「お嬢さんは結婚は?」などと聞かれたりすると、両親もプレッシャーを感じ始めるに違いなかった。

 あと三年位したら見合いしても構わないという逃げ口上を璃瀬は考えている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る