第2話


彼がまた行ってしまう。けれど、私に止める権利なんて無い。


彼が自宅に滞在したのは5分ほど。結局、残ったのは沈黙だけ。それは残酷な程に私を苦しめる。


涙で霞んだ目を左に逸らして机を見ると、牛筋カレーが目に入った。


彼の為に2時間かけて牛筋を煮込んで作った力作。結局、食べてもらえなかった。


彼に食べて欲しくて、喜んで欲しくて……あわよくば、また私の事を好きになって欲しくて、頑張って作ったんだけどなぁ……


「駄目、だったかぁ……はは……」


思わず、乾いた笑みが溢れた。


もしかしたら、食べてくれるんじゃないか、前みたいに褒めてくれるんじゃないか、私に笑顔を見せてくれるんじゃないか。そう思っていた自分がいた。


けれど、やっぱり無理だった。


料理一つ食べてくれない程、彼が負った心の傷は深くて、私がどれだけ愚かな事をしたのかがよく分かる。


視線を下ろすと、自らの肢体が目に入る。

彼以外の男に抱かれた、穢れた体。自分が心底嫌いだ。大嫌いだ。自分の体を見るだけで虫唾が走る。



小さい頃からずっと一緒にいた私と綺羅。2人共他の人とは交際した事がなくて、ずっとお互いだけを見続けてきた。


当然、他の男性と付き合った事はない。


沢山の男の人を知る事も人生の楽しみ方の一つだと思うけど、私はそれに欠片も惹かれなかった。


彼だけで、十分過ぎる。それほどに、綺羅は魅力的な男性だった。


そんな彼も幸運な事に、私だけを愛してくれた。幸せだった。


───でも。


それを壊したのは、私自身。


埋め合わせとは言え、合コンと知らせずに既婚者の私を呼び、あまつさえ自分達は好みの男と先に抜け出してあのクズと私を2人きりにさせた彼女達を恨んでも、酒を飲ませて私をホテルに連れ込んだあのクズを恨んでも、結局は私が悪い。


所詮は埋め合わせだからと合コンに参加する決断をしたのは私だし、自分がお酒に弱い事を知っていたのにまんまと飲まされて、のも私。



「……うぅ……ぐっ……うっ……」


 泣くな、私。全部自分が悪いのに、なに泣いてるのよ。


そう自分に言い聞かせて涙を止めようと思っても、止まらない。


ここ最近、ずっとこれだ。


一人で絶望して、一人で涙して、一人で夜を明かす。


彼を裏切った私に相応しい末路だ。


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土曜日。朝早くから家を出た俺は、やっぱり彩菜の家にいた。


「綺羅くん、ご飯できたよ」


俺がアポ無しで来ても、嫌な顔一つせずにご飯まで用意してくれる。本当にありがたいが、その分、俺の心には靄が掛かる。


「……助かる」


「ここはもう綺羅くんのお家でもあるんだから、そんなの気にしなくてもいいんだよ?」


「……悪いな、俺自身の復讐に付き合わせちゃって」


真っ直ぐな彼女の愛情を受けた俺は、思わずそんな事を口走っていた。


どこかでこの関係不倫関係に罪悪感を感じていたのかもしれない。


「俺は、妻への当てつけの為に君を利用して、ましてや君の心の傷に付け込んでいるんだ。……本当に、最低な野郎だ」


一度、蓋が開いてしまうと、堰を切ったかのように言葉が出てきた。止まらなかった。


沈黙が場を支配する。決して、言葉で表面化するべきじゃなかったと、言った後で後悔した。


「……綺羅くん、一つ聞いていい?」


沈黙を破った彩菜は、いつもの柔らかい雰囲気とは違う、どこか鋭さを持った目で俺を見てきた。


「綺羅くんは私の事、好き?」


彼女の吸い込まれるような綺麗な目。それで見つめられながら、嘘なんてつけるわけがない。


「……好きだ……けど、里美を忘れられたかと聞かれたら、NOだ」


最初は当てつけのつもりだった。けれど彼女と過ごすうちに絆されていった。


ただ、どうも里美の顔がよぎってしまう時がある。長年一緒にいたからだろうか、忘れたくても、簡単に忘れられなかった。


俺は眼前の彩菜を見つめる。妻の話題を出したんだ。もしかしたら不快な思いをしているのかもしれないと思い、少し身構えた。


が、当の彩菜は先程までの鋭い雰囲気は鳴りを潜めて、いつもの柔らかい雰囲気に戻っていた。


「私はその言葉だけで十分だよ。たとえ綺羅くんがまだ奥さんの事を思っていても、私の傷に付け込んだのだとしても、綺羅くんから思われているだけで、幸せなの」


「……彩菜」


意味もなく、彼女の名前を呼ぶ。


「それにね?私は君に付け込まれたなんて思ってないよ?前の旦那に捨てられた後、私は生きていても、死んでいたの。世界がモノクロだった。……でも、綺羅くんが私に色をくれた。もう一度愛を教えてくれた。だから、綺羅くんは最低な野郎なんかじゃない。私を救ってくれた、白馬の王子様なんだ」


気づけば、俺は彼女の唇を奪っていた。考えてみれば、俺からキスしたのは初めてだった。


最初こそ彩菜は驚いていたようだが、途中から俺の首に腕を回して舌を入れてきた。


どれくらい経っただろうか、と考えるほど、長くキスをした後、俺達は示し合わせたかのように同時に唇を離した。


唇同士の間に出来た架け橋が艶かしかった。


「……君を捨てた前の旦那の事が全く理解できない。こんなに、いい女なのに」


「……不倫をした貴方の奥さんの事が全く理解出来ないよ。こんなに、いい男なのに」


意趣返しとも言うように、俺のセリフを真似してきた彩菜。おかしくて、笑みが溢れた。


「……俺達、似た者同士だな」


「そうだね。……お互いの傷、癒していこうね?」


彼女といれば、いつかは里美の事を忘れさせてくれる、そう思えた。


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