+第二の祈り

 依頼主は誰一人として顔を見せないようフードを深く被り、深刻な声を発して私にこう語った。

 

「昔。もう十年以上前の話だ。かつてその場所には小さな町が栄えていた。人もそれなりにいた。行政も発達していた。そんな場所が、何故、突如瓦礫の山へと変貌してしまったのか。何故、あの教会だけ生きているのか。あの悪魔の巣窟は、いずれ世界に影響を及ぼす可能性がある。早く排除しなければ……。頼む。あの廃屋を見つけ出し、この世から排除してほしい」

「依頼は、その廃墟となった教会の調査と悪魔退治、ということですか?」

「ああ。頼む」

 一通り会話が終わると、その人は小動物の皮袋を机に置き、夜の霧中へ溶けていった。


 それから数日後、皮袋の中に入っていた地図を元に、その場所へ辿り着いた。私が目にした光景は、明らかにヒトの力ではない能力を持つ女性が、死者の魂を看取っている現場であった。




 レレーゼ教会唯一のシスター、アトリア・エイブラハム・ミルザームは、自室に飾っている写真立てをじっと覗いている。その顔は悲しみを浮かべ時間だけが流れていた。

「私はこの男性と、幸せだったのでしょうね。貴方の事を想うと、私は寂しさと会いたい気持ちに満たされるのです。でも私は貴方の事を、一欠片も覚えていないの。ごめんなさい……。貴方の事を思い出した時、私は、どうなってしまうのでしょうね――」

 ふとドアをノックする音がした。クリムに頼んだ作業が終わったのだろうか。ドアを開けると、目の前でアトリアを待つクリムが立っていた。

「アトリー。あレ、ツくりおワった」

「ありがとうクリム、今行くわ」

 写真の男性を指先ですっとなぞり、自室を後にした。


 アトリアの人生はバラ色に輝いていた、と思われた。あの事件が起こるまでは――。それは、月明かりがレレーゼ教会のステンドグラスを突き抜け、幻想を描くような情景を映し出す、そんな綺麗な夜。教会をたった二人で守っているシスター・ミラと天聖祭テレンスが小さな一室で赤ん坊を覗き込んでいる。

「よく頑張ったね」

「ええ……これからは、三人で、私はママ、貴方はパパになるのね」

「ああ、そうだな……。名前だけど、アトリア、という名前はどうだろうか」

「アトリア――素敵な名前ね。アトリア。今日からずーっと、よろしくね」

 白い綿の布に包まって、母ミラの腕できゃっきゃっとはしゃぐ赤子。窓から夏の終わりを告げる夜風の中、アトリアはこの地に誕生した。

 

 ミラ一人では、育児をしながら通常の行事を果たす事はできない為、父となったテレンスと相談し、住み込みのヘルパーと数人のシスターに教会に尽力するよう、支援を依頼することにした。今まで二人で行ってきた事が、分担されたことによって、天使崇拝者の数も急上昇した。

 アトリアが言葉を発し、自分の足で立つことが出来るようになるまで、約一年半を有した。

「ミラ、調子はどうだい?」

「変わりないわ。それより聞いて、アトリアが歌を覚えたのよ」

「おお! 本当か! アトリア、パパにもその素敵な歌を聴かせておくれ」

 アトリアは大層嫌な顔をして、テレンスと目を合わせなかった。

「そんな悲しい顔をしないで下さいな、旦那様。一緒に過ごす時間が奥様よりも短いだけ。これから夜寝る前の子守唄を、旦那様が歌って差し上げればいいのです」

 ヘルパーは優しくテレンスに提案をし、ミラもそうすればいいじゃない、と促す。

「そうだな、なるべく一緒に居られる時間を増やしていこう」

「ええ、きっとアトリアも喜ぶわ」

 その夜からアトリアが小学舎に通うようになるまで、ずっとテレンスが子守唄を歌う日々が続いた。

 

 アトリアに自我が芽生え始め、ミラの聖薬作りを手伝うようになる。聖薬は天使崇拝者のお守りでもあり、全ての疫病を払うと言われている液体。その原材料はマリーゴールドという花から抽出出来る。ミラのオリジナルであり、作り方は誰も知らない。

 教会の敷地内で育てているマリーゴールドを、アトリアが籠から溢れるほど摘んだ。

「ママ、お花、つみおわったよ」

「ありがとう、そこの籠に入れてちょうだい」

「うん」

「もう少ししたら、おやつにしましょうね」

「わーい! ママのクッキーだいすき!」

 祭壇前では礼拝後に必ず天使讃美歌を合唱する。ここに集まる人たち全員で合唱する為、この作業部屋にも薄っすら流れてくる。その旋律に合わせて、アトリアも一緒に歌う。一人異彩を放つその歌声は、誰よりも魅了させた。

「やっぱりお上手ね、アトリアは天使様に愛された子だわ」

「ねえママ、どうして、てんしさまは見えないの?」

 ちょうどアフタヌーンティーの用意が済んだヘルパーが二人を呼び出し、ダイニングへ招いた。

「天使様はね、とっても慈悲深いお方なのよ」

「じひ、ぶかい? なーにそれ」

「天使様は人の苦しみをよく分かっていらっしゃるの。その苦しみを抱えた人たちを幸せにしてくれるのよ」

「うーん……むずかしい……」

 ヘルパーは頬を緩ませアトリアに教える。

「お嬢様にはまだ難しいかもしれませんね。この教会で、貴方のお父様のお話をよく聞くと、分かるようになるかもしれませんよ?」

「パパもなに言ってるかわかんない」

「そうねー……もっと歌が上手になれば、分かるようになるかもね」

「じゃあいっぱいおうたのれんしゅうする!」

 

 アトリアが小学舎に通うようになった頃、テレンスはアトリアを夕方の礼拝に参加させたいと、ミラに自分の希望を伝えた。ミラもその意見には賛成はするが、必ず両方が在席している時だけ、という条件を付けた。

 同時期、テレンスは町の財政業を担う男と度々会うようになった。教会は金銭的には危機的状況にある。それを打開できるのは、やはり財政業と手を組むしか方法はなかった。男は自分の息子とアトリアを将来的に結婚させるという政略的存続計画に協力するなら、という条件で、教会に資金援助を提案した。

「私の娘をお前にやるものか、この悪魔め」

「私は悪魔などではありませんよ。貴方が困っているから、条件付きで援助しようとしているだけではありませんか。お互い困った時は助け合う、そうでしょう? あ、そうそう、うちの息子のロドニーはとても優秀でね、この間私立学校のスピーチ大会では見事トップを取りましたよ」

「貴様の自慢話はどうでもいい。お前の息子が教会を守ってくれる保証がどこにあるというのだ」

「それはその時次第、でしょうねー。未来の話は誰にも想像できませんから」

「この地域を司る財政業とは思えない。くっ――見込んだ私が馬鹿だった、もう二度と私と、私に関わる人間に顔を見せるな」

 テレンスは教会内にある来客室のドアを壊す勢いで外に出る。教会の長椅子に座るアトリアと財政業を担う男の息子ロドニーが、鉄砲にでも打たれたような顔をしてテレンスを見た。

「パパ、何かあったの?」

 アトリアは心配して駆け寄って、今にも泣きそうになっていた。後ろからロドニーが申し訳なさそうに、さも自分が話を聞いていたかのように、男に変わって謝罪を述べた。

「あの、父さんが何か余計な事を言ったかもしれません。でも父さんも仕事で、あんな風な言い方しかできないんだと思います。どうか……どうか、あまり責めないで下さい」

 二人の子供、ましてや片方は愛娘の泣きそうな顔を見て、テレンスはアトリアの目線に合わせてしゃがむ。

「アトリア、泣かないでおくれ。大丈夫だから。――君は、ロドニー君かな?」

「はい、そうです」

「ロドニー君は、天使様のことが好きかい?」

「はい。とても尊敬しています」

「そうか、それは光栄だ。君はとても純真な心を持つ子だ。きっと天使様も喜んでおられる。いつでも遊びにおいで」

「ありがとうございます! これでいつでもアトリーの歌が聴けるので、とっても嬉しいです!」

 少し頬を赤らめるアトリアに、テレンスは優しく頭を撫でた。

「ロドニー、帰るぞ」

 男はロドニーを呼び、教会を去っていく。アトリアはロドニーの姿が見えなくなるところまで見送ると、少し寂しい気持ちになった。

 それからロドニーは一週間に一回必ず教会へ訪れるようになった。余程アトリアの歌声が気に入ったのだろう。祭壇の一番近い長椅子に座り、目を閉じて、聴覚機能を研ぎ澄ませた。目を閉じているロドニーに気づいたアトリアは、寝てるの? と傍で囁いた。

「違うよアトリー。アトリーの歌声を聞くことだけに集中できるように、目を閉じていたんだ。……機嫌悪くしちゃった?」

「ううん。ちょっと勘違いしただけよ。本当に寝ちゃってたら、どうしようかと思った」

「驚かして起こす? それともくすぐる?」

「そんなことしないわ。きっと、隣に座って、一緒に寝ちゃうかも」

 二人しかいない祭壇に響き渡る優しい笑い声が、ステンドグラスから差し込む日差しを一層輝かせた。

「ねえ、アトリー」

「なに?」

「大人になったら、その……一緒に、どこか遠くの国で、ひっそり暮らさない?」

「うーん……それもいいかもしれないわ。でも、私はきっと、これからも、この先も、この教会がある限りは、ずっとここで天使様にお仕えすると思うの。それは私にとっての使命であり、運命だと思うから。――ごめんなさい、ロドニー。でもきっと、夢が叶うといいわね」

 どこか乾いた笑みを浮かべるアトリアを見たロドニーは、その小さな胸に決意を抱いた。必ずアトリーをこの場所か連れ出して見せる、もうこんな悲しい顔を見たくない、させたくない、させない。

 

 アトリアがシスターとして、本格的に教会に仕えるようになった十半ばの頃、町の人たちがある噂をするようになった。町では見慣れない服装の男がうろついている。探偵かストーカーか、それとも天使崇拝に抗う組織の者なのか。その実態を知る人は誰一人としていなかった。

 その男は背後からの光に輝く黄色の、風に靡かない髪を持ち、目立つとも目立たずとも言い難い服装を常に纏っている。たまに町に住む子供が話しかけているのを見かけるが、何も言わずお菓子だけ渡して何かを見張っているようだった。その眼に映る先は、レレーゼ教会の入り口と、アトリアだった。その事について一番に察知したのは、シスターであり母であるミラだった。

「アトリア、話があるの」

 日課のアフタヌーンティーを用意しながら、アトリアを椅子に座るよう指示した。この部屋に蔓延る緊張感は、忠告を促すような、出来れば早く立ち去りたい雰囲気を醸し出している。

「何、お母さん」

 目の前に置かれたカップを両手で包むように持ち、アトリアはなるべく警戒心を気付かれないように、平然を装った。

「最近ね、礼拝者たちが、余所者がアトリアの後をつけていると、何度か報告を受けているの。アトリア、何か知らない?」

「私は何も悪い事なんてしてないわ。そんな罰当たりな事をしたら、きっと天使様に見放されちゃうもの。そんなことより、聞いてお母さん。この間お友達にお花の冠を作ったり、学舎の調理実習でケーキが上手に焼けて、みんなに配ったりしたの。みんなとっても喜んでくれたわ! 小学舎は新しい年になると、私は卒業してしまうから、もっとみんなの笑顔が見たくて、考えが止まらないの」

 少々現を抜かすアトリアに、ミラは容赦無くアトリアに置かれている危機的状況を突き付ける。

「アトリア、小学舎でみんなを笑顔にすることはとっても良い事だわ。でもね、貴方はもう少し、自分に対しての危機感を持ちなさい。最近貴方をつけている男は、きっと天使様に害を及ぼす集団の一人に違いないわ。その集団はワイシャツの右側の襟に、必ず魚の刺繍が入っているそうよ。気を付けなさい。本当に危険な目に遭いそうになった時は、この十字架に祈りなさい。必ず天使様が守って下さるはずよ」

 ミラは服の内側に提げている逆十字架を取り出し、アトリアの手を取ってその中に収めた。アトリアは母の手から伝わる猜疑心を鵜呑みにはできなかった。強く握りしめるその手は少しばかり震えている。いつ起こるか解からない災厄を、この時から知っているかのようだった。

 アトリアはその日から、母から貰った逆十字架を服の内側に身に着けるように心掛けた。逆十字架は本来、悪魔を信仰する人の象徴と云われている。それは本の知識でしかない。しかしアトリアは分からなかった。何故逆十字架を持つ必要があるのか、何故それを母が持っていたのか。誰よりも信仰が厚い母が、天使様を裏切るかもしれないという邪念さえ自然と湧き上がってしまうほど、母の存在が恐ろしく思える。

「アトリア、どうしたんだい? 浮かない顔をしているね」

「あ、お父さん……」

 教会敷地内のマリーゴールドに水をやっているアトリアの様子を見に来たテレンスは、最近の町の異変について、アトリアに尋ねるところだった。

「昨日ミラから言われたんだね。襟に魚の刺繍が入った男の事」

 横目で自分の娘を見張る男がいそうな木陰に目をやりながら、気に掛ける。

「アトリア。そんなに怯えなくてもいいんだよ。悪いものは全部、天使様がお守り下さるからね」

「ねえお父さん、なぜ私が余所者から監視されなきゃいけないの? 私、何も悪い事なんてしていないのに……」

「アトリアは他の誰より歌が上手なんだ。それはこの町のみんなが証明してくれる。もしかしたら、そんな話を聞きつけて、世界を旅する歌劇団がスカウトをしに来たのかもしれないよ」

 テレンスは精一杯の嘘を吐いた。

「私はそんなもの、ちっとも興味無い。私はお父さんとお母さんと、ずっとこの教会で暮らしている事が、何より幸せだもの」

「じゃあお父さんとの約束、町の人以外、声を掛けられても逃げること。もし助けてくれそうな人がいたら、その人の後ろに隠れること。約束できる?」

「私はもう十五よ? そこまで子供扱いしなくても……あ、ロドニーは今まで通り、仲良くしもいい?」

「もちろん」

 反抗的になるアトリアだが、ロドニーの事が本当に大好きなのか、その血色のいい肌色に似合う笑顔が戻った。テレンスは、これなら安心して町の人を頼ってくれるだろうと、胸の内にある苦しさが解けた。


 ロドニーは教育熱心な両親のせいで、最近はアトリアに会いに行く時間を削らざるを得ない状況になっていた。もうここ数か月は会っていない。自室から出られる二階のテラスから見上げる空は、曇りのない透明な夜空だった。ロドニーはアトリアに会えない時間が増えていくのが、少しずつ耐えられなくなっていた。

「僕の人生は、どうして思い通りにいかないんだろう――」

 首に提げているロケットペンダントを開くと、そこに描かれていたのは、過去、双子の弟がいた時のスケッチが入っていた。

「お前も、何処で何をしているのか……もう十年以上も姿を見ていないけど、きっと何処かで元気にしてるよな……」

 風がロドニーを慰めるように、すっと吹き抜けていく。

「よし、明日は学校をサボってしまおう。一日くらい息抜きをしたって、黙っていれば分からない。僕は将来の立場よりも、アトリーと一緒に過ごすことが、僕の人生でこれ以上ない幸せなんだ」

 次の日、ロドニーはサボタージュを決意したものの、それでも学校へは足を運んだ。学校へ行ったという証拠だけは残す為だ。

「午前中の小テストを受けたら、アトリーに会いに行こう」

 昼休みで気が緩んだのか、心に思っていた言葉が声となって出てしまったらしく、ロドニーの小言を聞いたゼミナール仲間のルツが話しかけてきた。

「ロドニー、どっか具合でも悪いの?」

「あ……ああ、ちょっと勉強、張り切りすぎたのかな、頭痛くって」

「でも本当は恋人に会えなくて、ストレス溜まってるんじゃないの?」

「ぐ……聞こえて、た?」

「丸聞こえ」

 ルツは目を細くし、まるで、聞こえてないとでも、と言うようにロドニーを睨んだ。

「ま、いいけど。恋人って何処にいるの? 僕もどうせ午後の授業は出ないから、何だったら理由付け手伝ってあげるけど、どうする?」

 ルツの目線から逸らすように少し下を向いた。その眼に映ったワイシャツの襟元には、魚の刺繍が入っていた。

「ルツ、それ……」

 ロドニーはそれを指差すと、ルツは自慢げに襟を引っ張ってロドニーに見せた。

「前から加入はしていたんだけどね、正式加入したのはちょっと前なんだ。よかったら、ロドニーも入らない? 神教啓示団体(アンチ・アンジェ・アポカリプス)」

「僕は……そういうの、興味無いから……」

 神教啓示団体。それは神を絶対の信仰とし、天使は神の遣いである。裏を返せば悪魔にも成りかねない存在は、同一視され、人間に悪をもたらすと啓示する。本来信仰されるべきは神であるとして発足した反天使崇拝主義者が集まる団体。そんなものに入ってしまえば、ロドニーはアトリアと絶縁しなければならない。それはロドニーの幸福を死に至らしめると同等の行為となる。

 ロドニーの素肌に光が差さなくなり、ルツはとりあえずサボタージュの答えを出すように急かす。

「あっそ。まあいいや。それで、どうするの、迎えの馬車がもうそろそろ来るから、送ってあげなくもないけど」

「じゃあ、お言葉に甘えるよ」

「了解。場所は?」

「レレーゼ教会のある町」

「なんだ、行き先一緒じゃん」

 ロドニーの手を引いて、裏門にぴったり止めている馬車の荷台に、かばんと一緒に押し込んだ。

「着いたら知らせるから、じっとしててね」

 ルツは先導の横に座り、よろしく、と軽くお辞儀をして、目的地まで馬車を走らせるよう指示する。

「ルツ様、いくらアイゼア様の頼みとはいえ、あまりにも横暴すぎます。明日はちゃんと授業を受けて頂きたい」

「そんな堅っ苦しいことはいいじゃないですか、先導さん。それに、これはアイズの頼まれ事なんだから、断れる訳ないじゃないですか」

 ルツは元捨て子だった。まだ真面な言葉を話せない頃、この世の全ての絶望を背負った顔をしていた。偶然にも調査の為、ルツがいた地域を調査している最中、アイゼアが保護したのだ。だからアイゼアには恩がある。アイゼアの頼みであれば絶対引き受ける。それがルツの生き甲斐になっていた。

 荷台の中で揺られて二十分程。人の足では一時間以上かかる道が、ルツの鼻歌を聴いているとあっという間にレレーゼ教会のある町に着いた。

「先導さん、ありがとう。帰りはアイズも連れて帰るから、その時はよろしくお願いします」

「お気を付けて」

 ルツは荷台に置いたかばんとロドニーを引っ張り出した。

「僕を荷物扱いにするのはどうかと思うんだけど」

「仕方ないじゃん、あの先導さん、余計な事するとうるさいから」

「でもまあ、ありがとう。帰りは歩くから、今日はここでお別れだね」

「そっか、じゃあね」

 ロドニーはアトリアに会いに教会へ向かった。いい天気とはいえ、今まで賑やかだった町は活気が無かった。目の前に転がってきた赤い大きな実を拾い、それを探しているお婆さんに渡した。

「おや、教会の娘さんと仲良くしてる坊やじゃないか。元気にしておったか?」

 そのお婆さんは教会によく足を運ぶ人だった。挨拶くらいは交わしていた為、面識はあった。

「はい、ご無沙汰しております」

「町の様子、ちーっとばかし変わってしまったろう。数か月前、それこそお前さんが来なくなった辺りかのう。変な男がうろついて、みんな警戒しとるんだ。お前さんも気を付けるんだよ」

「あの、その変な男って、何か特徴ありますか?」

「うーんそうだね……私は見た事ないけど、右側の襟に魚の刺繍が入っとるらしいねー」

 魚の刺繍と聞いて、ルツの言っていた神教啓示団体かもしれない。その直感が、何故かロドニーは身の毛がよだつ、悪い予感が頭をよぎった。

「ありがとうございます」

 とにかくアトリアに、この事実を伝えなければいけない。その一心で教会へ走った。教会に辿り着くと、扉は固く閉ざされていた。いつもは開放されている時間のはずだが、やはり団体の手先がうろついているせいで、教会も少し寂れていた。

 二、三回ドアを大きくノックすると、テレンスが顔を出した。

「おや、ロドニー君。久しぶりだね。今日は学校お休みかい?」

「いえ、逃げてきました」

「そうかい、たまには息抜きをしないと、人間は案外脆い生き物だからね。さあお入り、アトリアは今、部屋にいるはずだよ。学舎は先生が出かけていて休みなんだ」

 二人して笑いながら教会の中へ入った。この中は相変わらず美しい空間だった。いつも歓迎するような、ステンドグラスから差し込む光は変わらなかった。

「アトリア、ロドニーが来たよ」

 その数秒後、アトリアはドアを開けてロドニーに飛びついた。

「ロドニー、会いたかったわ!」

「僕もだよ」

 テレンスはそっと部屋を出て、二人だけにしてあげる。

「もう来ないのかと思った」

「仕方ないんだ。僕の両親は倹約家で、無駄が大嫌いなんだ。おかげで二十になっても、毎日勉強で、くたびれるよ」

「貴方は自由なのか、束縛されているのか、分からない人ね」

「そうだね」

 ふと目に止まった棚の上の写真には、幼い頃の二人が写っていた。

「その写真、大事にしてるんだね」

「もちろん。貴方を忘れないように飾っているの」

「ありがとう」

 他愛ない話で盛り上がる二人だが、ロドニーは大切な話を危うく忘れるところだった。

「そうだ、アトリー。この町に来ている怪しい人の話、聞いた?」

「ええ、貴方が来なくなって、すぐにお母さんから聞かされたわ。でも大丈夫よ。何もしてこないもの」

「何もしてこないから怖いんだ。アトリー、やっぱり近いうちにこの町から逃げた方がいい。ここに居てもアトリーが危険な目に遭うだけだ」

「どうして、そういう事が言えるの? 貴方はあの余所者の正体を知っているの?」

 急に剣幕な顔付きになる。この場所から離れる事がとても嫌なのだろう。

「詳しくは知らない。でもあの魚の刺繍が入っている奴らは、神教啓示団体という、天使様を悪魔と捉える奴らなんだ。もしかしたらここもその内……」

「その話、本当なのですか?」

 ノックもせず入ってきたミラは、とても不安そうな表情を浮かべていた。

「噂には聞いていました。数年前、遠い町で純白のスーツの集団が突如現れ、別の天使様を信仰していた崇拝者が、皆、暗殺されたと。その時使われた鉄砲にも、魚が描かれていたそうです。その団体を、貴方は何処で知ったのですか」

「学校のゼミナール仲間が、一員なんです。僕も今日、知りましたが……」

「それは単なる偶然、かもしれませんね。ですが、ここまで活動的になられると、私たちもここを離れ去るしか、残されていないようですね……」

 妥協と悲哀を込めた言葉を吐き、アトリアの眼に映る母の悲しみを初めて目の当たりにする。それほど深刻な状況に置かれていることを、アトリアは知らない。

「お母さん、どうして離れる必要があるの? 何もして来ないなら、大丈夫なんでしょ?」

「何もして来ないからこそ、こちらから動かなければいけないのです。特に神教啓示団体は私たち天使崇拝の敵です。けれど、天使様は争いを求めていない。全ての生命が平等であり、信じる者には大いなる幸が与えられる。その根本たる考えは、彼らも変わらないはずです。ロドニー、特別な崇拝を行っていない貴方でも、これは理解できるはずです」

 ミラは一人の母として、ロドニーに問いかけた。ミラの心にロドニーが神教啓示団体の手先ではないかという邪念が生まれても可笑しくはなかった。

「ミラ、少し落ち着きなさい」

 開けっ放しのドアからテレンスが遠めからミラの様子を見ていた。

「確かにあの団体は、我々天使崇拝者の敵ではある。しかしそれ以前に人間だ。彼らは独裁という支配者に侵されている病人たちの集まりだ。あれは信仰でも何でもない。恐れることは何一つ無いよ。そうだろ?」

「え、ええ。そうね。テレンス」

「君は心配症なんだ。少し外の空気を浴びるといい。アトリア、ついていてあげて」

「はーい」

 アトリアの部屋に残されたロドニーは、テレンスをしっかり見つめていた。

「あの団体は、十年程前から発足していてね、最近は特に活発化してきているんだ。この教会を、町を、守ってほしいと、君のお父さんに頼んではいるんだけどね、どうも信用できないんだ。だからもし、この地域が枯れそうな時は、アトリアを、何処か遠い場所に逃がしてほしい。私とミラからのお願いだ」

 ゆっくり、深々と頭を下げるテレンスの手は、少し震えていた。ロドニーは感じた。本当の逃げ場所はどこにもない。あの団体が潰れない限り、この人たちの平和は訪れることは決して無いのだと。

「分かり、ました」

「良かった。君だけは僕たちの味方だ。そうだ、もしもの時に、ある道を教えておいてあげよう。ついてきなさい」

 

 一方ミラとアトリアは、マリーゴールド畑に佇んでいた。ミラの心を空は知りもしない。ただ雲が流れ、風が過ぎていくだけの、心地よい晴れ間だった。

「アトリア、もしも私たちが――」

「聞きたくない!」

 いきなり怒鳴るアトリアを見て、少しだけ正気を取り戻した。しかしアトリアは怒鳴るだけでなく、母を見て静かに涙を流していた。

「今のお母さんは、何も喋らないで」

 暫く。言葉は踊らなかった。ただ沈黙という舞台に、母と娘、互いに意味を持たない涙が流れていた。

「アトリア」

 聞こえているはずの言葉を遮断している。それでもミラはアトリアにお願いをした。

「何でもいいわ。歌を聴かせて」

 アトリアは悩んだ。自分の好きな歌を選べばいいのか、人を慰める歌を選べばいいのか。そんな時だった。一枚の羽がふわりとアトリアの眼の前を横切った。呼吸と姿勢を整え、第一旋律を発した。誰も聞いた事のない旋律、それはアトリア自身が作曲した歌だった。母として、シスターとして、人間として、アトリアが傍にいてくれる喜びが込み上がり、涙腺の紐が緩んだ。旋律は風に流れ、時を刻み、風景に溶け込んだ。

「本当はお母さんの誕生日にお披露目する予定だったけど、早くなっちゃった。どう? 私なりの、自由の形」

「ええ、とても素敵だわ……ありがとう」

 腕を伸ばし華奢な体を引き寄せ、優しく強く抱擁する。タイミングが悪いことに、テレンスとロドニーが呼び戻しに来てしまった。

「ミラ、どうしたんだい? 眼の周りが腫れているじゃないか」

「何でもないの。ちょっと擦り過ぎただけよ」

「早く中に入って冷やした方がいい」

「そうするわ」

 ミラはテレンスの言う通りに屋内へ入っていく。放たれたアトリアの顔は、とても満面の笑みを浮かべていた。

「アトリー、何か良い事でもあった?」

「なーいしょ。お父さん、お母さんの手当てをしてくるね」

「ああ、頼むよ」

 先程までの緊張感は何処かへ去っていった。ロドニーは帰りが遅くなる前に町を出発した。

 ロドニーは自宅に着くと、授業をサボタージュした事をゼミナール仲間に報告されてしまい、両親にこっぴどく怒りを食らった。それから五年は、アトリアとの再会を許される事はなかった。




 五年という歳月は等速に過ぎていった。とっくに小学舎を卒業したアトリアは、立派なシスターに成長し、今日は洗礼の儀を執り行う予定になっている。

「アトリア、起きてるかい」

「ええ、今日はとっても目覚めがいいの、何故かしらね。準備ができたらすぐ行くわ」

「ああ、懺悔の間で待っているよ」

 礼拝が行われていない時間帯は、崇拝者たちが懺悔の間で自らの過ちを悔い改める為に足を運ぶ。また洗礼の儀にも使われる。天使様から正式に天使の使いとして認められる儀式の際に全ての悔いを洗い、遣名(ネゴ)を賜る。テレンスはミカ、ミラはシェムという遣名がある。

 教会の中はすでに人で埋め尽くされていた。皆がアトリアの洗礼の儀を見届ける為に、朝の礼拝前から集まっていた。ミラはその様子をアトリアに伝えようと部屋に向かったが、すでに部屋には居なかった。

「あら、何処へ行ったのかしら」

 マリーゴールド畑くらいしか行き先が思い当たらない。まだ時間はあるが、アトリアの事が心配で居ても立っても居られない。

 意味もなく急いでマリーゴールド畑に顔を出す。眼の前には水やりをするアトリアの姿。着替えもせず呑気に鼻歌を歌いながら、楽しそうにしていた。

「アトリア、まだ着替えないの?」

「あ、お母さん。どうしても日課の水やりだけは済ませておきたかったの」

「いいのよ。貴方も今日から遣名を賜り、より天使様のお言葉を人々に伝播する使命を頂戴するんですもの。緊張していても可笑しくないわ」

「そう? 私は今日から本当の意味で、天使様の使いになれる事に、とても喜んでいるの」

 まるでアトリアの顔の周りに小さくて綺麗な花が咲き誇っているような、そんな笑顔だった。アトリアは手に持っているジョウロを所定の場所に戻し、スキップ混じりの小走りで屋内に戻っていった。しかしミラは気付いてしまった。敷地外からこちらを睨むような視線を感じ、振り向いた矢先、眼に映ったのは、噂に聞いた純白のスーツ。一瞬にして恐怖が蘇った。この事を早く夫に伝えなければ。片手で少しスカートを持ち上げ、急いでテレンスを探しに行く。

 テレンスは手際良く祭典の準備を進めていた。突然ミラが息を切らして部屋に入ってきた事に驚いてしまい、手に持っていた銀の杯を落としてしまった。

「どうしたんだいミラ、そんなに慌てて――」

「貴方、今日の祭典は中止しましょう。あの忌々しい純白のスーツ……人間の皮を被った悪魔が、教会を見張っていたわ」

「なんだって!? よりにもよってこんな大事な日に……もしかして狙った……」

「ねえ貴方、今日は……」

「いや、祭典はこの日じゃなきゃダメだ。これは儀式だ。今日を逃せばアトリアの遣名は一生与えられない。これはアトリアが望んでいる事なんだ。何としてでも祭典は行う」

「私、まだ、死にたくないわ」

「大丈夫、私たちはここで終わったりしない。何かあった時の為に……」

「何かあった時の為とは、今のことかな?」

 聞いた事のない声がした。その人は純白のスーツの部隊を率いていた。そして、その部隊が手にしている銃口は、テレンスとミラに向けられていた。

「初めまして、天聖祭テレンス、シスター・ミラ」

「貴様は何者だ! 土足で領域に踏み込む無礼者め!」

 テレンスは傍にあった天使像が持つ鎌を手に取り、ミラを自分の後ろへ下げた。不気味な笑みが絶えないそいつは、ようやく言葉を発した。

「そんなに構えないで下さいよ。私は神教啓示団体の総裁、カーティス・フォーガスと申します。まあ名前なんてどうでもいいでしょう。貴様等のイカれた天使崇拝など、私が排除しますから」

「何故このような愚行をするのですか! 天使様も神も、こんなくだらない争いは望んでいないはずです」

 テレンスの背中から覗くように顔を出し、カーティスに向かって吠えた。

「人間の唯一の崇拝対象は神であり、天使は人間と同じく身勝手で傲慢。そんなものを崇拝して、何の得になるんです? 私は皆様を夢物語から現実に引き戻す役目を担っているだけです。神の代わりにね」

「それは貴様の理想論にしかすぎない。本当の神は安寧と平和を望んでおられる」

「それは違いますね。安寧と平和の為に、天使崇拝という邪魔者を排除しているんですよ。という事で、そろそろ貴方方の愛する天使の元へ導いてあげましょう」

 カーティスが手を上げた瞬間、銃のトリガーを一斉に外した。テレンスが大きく振りかぶった鎌が下ろされる前に、弾はテレンスの体を貫き、ミラの体内まで貫通した。眼の前に倒れた二体の床は、赤黒い液体で満たされ、惨劇を語っているようだった。

 大きな物音に様子を見に来たアトリアは、隙間から真っ赤に染められた床の上に横たわっている両親を見て、言葉を失った。

「おやおや、娘さんがようやく来ましたか。本来のメインディッシュは貴方ですからね。最高のショーに仕立て上げますよ」

 純白のスーツの男に腕を掴まれ、無理やり場所を移動した。先程までの笑顔が一瞬にして死んだ。無抵抗なまま歩かされ、移動した先は教会内の礼拝を行う場所だった。そこにはすでに多くの崇拝者たちが集まり、皆期待の眼差しをしていた。

 アトリアは正面の大きな天使像に磔(はりつけ)にされ、右に父テレンスを、左に母ミラを、等身大の十字架に磔にした。

「お集まりの皆様、突然ですが、貴方がたはこの先導と共に、天使の元へお導き致します。拒否権はありませんので、そのままご着席下さい」

 一瞬にして、この場の空気はマイナス零度以下の寒気が漂った。青ざめた崇拝者たちは、必死で逃げ出そうと教会の扉へ向かったが、純白のスーツの部隊は容赦無く弾を放つ。次々と倒れる崇拝者たち。それを目の当たりにした、アトリアを見張っていた金髪の男アイゼアは、カーティスに反対の意を向けた。

「総裁、こんなことは神が望んだことではない!」

「そうかもしれないな、アイズ。しかしこれは彼らの為の、ノアの方舟に等しいものだ」

「くっ――貴方は、狂っている」

「狂っているのは世の中の方だ。縋るものが無ければ生きていけない愚か者ばかり」

「それは貴方も同じだ」

 アイゼアは左のお尻のポケットに隠しているピストルをカーティスに向けた。しかしそれを察知した純白のスーツの一人が、アイゼアの左肩を撃ち抜いた。

「君はいつか私を裏切る、そう思っていたよ。それが叶ってしまった事が、実に残念だ」

 アトリアは次々と傷ついていく人たちを見る事が耐えられなかった。眼を瞑り、ようやく言葉を、歌を歌いだした。教会内に響く歌声は、不穏な空気を更に増した。光が差していたステンドグラスは、外の黒い雲が太陽を遮り正気を失ったように見えた。純白のスーツたちは一斉に銃口をアトリアに合わせるが、それが不気味な者のように見えた。

「何をしているのだ、さっさと殺れ」

「む……無理です! 総裁! わ、私には、で、できない!」

 手から銃が滑り落ちる者もいれば、全身が震えて立てなくなる者もいた。アトリアは歌い終わり、最後に大きく息を吸って叫んだ。

「levis!」

 叫びは天上に轟いた。雷が次々と教会内を貫いた。

「撤退するぞ」

 カーティスは壁の彫刻の左側面を二、三回手の甲で叩き、人差し指で示した場所を破壊させた。そこに現れたのは地下水路に続く階段。

「行くぞ」

 純白のスーツたち、カーティスの後を追うように、アイゼアは必死で立ち上がり、歩き始める。


 雷は鳴り止まず、教会を襲い続ける。教会に到着したロドニーは眼の前の惨劇を受け入れられず、足が止まってしまった。雷が襲い続ける教会はすでに激炎に包まれ、もう生存者はいないと思われた。しかし扉の隙間から僅かにアトリアの姿が見えた。決死の思いで中に飛び込み、アトリアに結ばれている縄を解いた。

「ロ……ロド、ニー……だ、め……逃げて……」

「僕は君のお父さんから約束されてるんだ。アトリー、絶対助けるから」

 アトリアを掬い上げるように抱いて扉へ向かった。しかし手遅れだった。すでに天井からの瓦礫で出口は塞がれていた。テレンスから教えてもらった隠し通路、地下水路の道も、彫刻はすでに石の塊となって道は発見できなくなっていた。そして留目を刺す如く、今までの一番大きな稲妻は、二人に直撃した。


 静けさが戻ったのは、太陽が沈みかけた頃。天使の梯子が神々しく輝き、まるで、死者の魂を、天上に導いているかのようだった。

「私は呼ばれたのだな」

 銀の髪、立派な羽を持つそれは、アトリアとロドニーの亡骸の前に現れた。

「ドうするんでスか」

 黒髪から耳を生やし、血のように染まった赤目の少年は、銀の髪に問う。

「この姿では力を保てない。暫く、この遣いの体を借りることにする」

 アトリアの亡骸を膝枕に乗せ、少しの間頭を撫でた。

「クリムはどうする」

「オれはカわラない。いまマでどおリ、ずっトあナたのそバにいル」

「そうか」

 銀の髪は二体の亡骸を今にも崩れそうな天使像の前に並べ、アトリアの前には銀の髪、ロドニーの前にはクリムが立つ。

「我が力となる依代よ、再び断罪を決すべく立ち上がらん」

 銀髪の眼の前に開かれた空間から、夜に落ちた色をしたような漆黒の鎌が現れた。そして鎌の刃先をアトリアとロドニーの心臓部分を一回ずつ触り、眼の前に立てた。銀の髪はアトリアとして息をする。クリムはクリムのまま、ロドニーの精神を自分の中に取り込んだ。

「ニいちゃン――」

 五分もしないうちに、アトリアを手に入れた銀の髪は立ち上がった。アトリアが生前持っていたペリドットのような瞳は、マリーゴールドの赤と黄の鮮やかな色をしていた。

「この地はまだ生かす。ここが最後の、我々の土地を生きる」

「わカった」

「この土地を修復すれば、私は暫く眠る。まだ私を崇拝する依代(エイブラハム)が生存している限りは、まだこの世界に留まれるだろう」

「そっカ、ナがいネむリ。おやスみ。――さマ」

 首に提げている逆十字架を手に、天使像の前に跪く。

「願いは天使に届けられた。罪なき者に光を。罪なき土地に再生を」

 町は天使の御業によって森に変化し、教会はほとんど形を取り戻した。

 意識を失ったアトリア・エイブラハム・ミルザームは、それから三年の月日を経て、この教会にて復活した。




 クリムがダイニングで作っていた手作りの塗り薬を確認し、アトリアはクリムの腕を掴んだ。

「クリム、昨日怪我したところを見せて」

「いヤ、アトリーむりやリだかラいタイ」

「じゃあ今から川の魚採ってくる?」

「アトリー、いじワる! ううー……」

 今にも泣きそうな顔になるクリム、けれど川に入るのは絶対嫌だと言わんばかりに、仕方なく右のワイシャツの袖を捲った。少し火傷を負ったような皮膚が現れ、しっかり浸した綿をそこに当てた。

「フギャー! いダイ! イダい! アトリー!」

「我慢なさい、包帯を巻いて…………はい、終わり」

「ウー……」

「何にやられたの?」

「たブん、ニんげン。アんまり、みえナかっタ」

 この森に、不用意に近づく只者ではないことは理解できた。クリムもただの人間ではないから、攻撃するのも致し方ないことだと思っている。しかしクリムの怪我は少し特殊だった。何かと争ったわけでもない。遠くから火を放ったわけでもない。アトリアはここが異端の場所だと思われていることに、恐怖を感じた。ここにはもういられない事、自分とクリムがどうなってしまうのか、何処かで覚えた恐怖が蘇るように、心は落ち着く事を忘れてしまっていた。


第三の祈りは、天使の光を浴びるだろう

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