おばけの手帳

三上一二三

第1話

 外界との境が曖昧な日本家屋は、夏の暑さも吹き抜けていく。容赦ない日差しは縁側のすだれを通ることで、居心地の良い影に生まれ変わった。今はほとんど使われなくなった客間に男の子が寝そべり、絵を描いていた。座敷から見える庭は、枝豆、茄子、胡瓜きゅうりが収穫されるのを今か今かと待ち構えていた。畳を踏む音が男の子に近づいてくる。女の人が何を描いているのかとのぞき込んだ。男の子はチラシの裏に広がる自分の世界に夢中で気が付かない。 

「きみ、絵が上手ね」

 男の子が驚いて振り返ると、父親とその恋人が見下ろしていた。男の子は聞き取れないくらい小さな声で挨拶すると、照れくさいのか、すぐにそっぽを向いて自分の世界へ戻るのだった。父親は息子の無礼な態度が気に食わなかったが、恋人の手前、些細なことで子供を叱りたくないので、苛立ちを鎮めるために庭を眺めた。戦前は小さな池があり、黒松が映る水面を鯉が優雅に波立てていた。戦火が激しくなると、池を埋めて庭の殆どを畑にした。父親は家庭菜園ではなく、失われたおもむきを眺めていた。

 恋人に息子を紹介するのは時期尚早じきしょうそうだったかもしれない。近所の子供たちと公園を駆け回るような息子なら喜んで彼女に紹介しただろう。昼間から家に閉じこもり、どれほど教え込んでもまともな挨拶一つできない陰気な息子が悪い印象を与えなければ良いが、と不安になった。母親は男の子が赤ん坊のころに亡くなっていた。代わりに父親の両親が面倒を見てくれているので、父親は何の苦労もなく親子を続けることができた。

「猫が死んでから、あの部屋に入り浸って絵ばかり描いてるんだよ」

 両親から話を聞いた時は、何を心配しているのか分からなかった。おとなしく絵を描いているだけならそれで良いではないか。生前母親が可愛がっていた猫が死んでから、男の子は人を遠ざけるようになった。飼い始めた頃は雪のように白くて気品さえ感じさせる猫だったが、晩年は毛が抜け、茶色くなり、便所のような臭いを放っていたので、父親は目障りな猫が死んでくれて喜んでいた。男の子がふさぎ込んでいることに気付いた祖父母は、あれこれと気晴らしになることを男の子に勧めていくうち、紙と鉛筆に辿り着いた。男の子は水を得た魚のように絵を描き始めた。もともと外で遊ぶような子供ではなかったけれど、絵を描くことの楽しさを知ってからは、ますます家に閉じこもるようになった。これはさすがに心身に悪いと祖父母が近所の公園へ引っ張り出したが、そこでも相変わらず一人で絵を描き続けた。祖父母は坊やが自分から声をかけることが恥ずかしくてできないのだろうと思い、年長の子供たちにお菓子を配り、孫を遊びに誘ってくれるように頼みこんだ。賄賂が功を奏し、近所の子供たちが新聞紙の刀を用意して、男の子をチャンバラに誘いだした。しかし、男の子は刀を差しだされても鉛筆を放さない。放すどころか、サムライの格好をした子供たちを一列に並ばせて、良い題材を得たとばかり、チラシの裏に鉛筆を走らせるのだった。男の子は家の中でも外でも、手のかからない変わった子供だった。

「見て、そっくり」

 恋人に渡されたチラシの裏に、父親と恋人の似顔絵が描かれていた。あの子の描く絵は普通じゃないよ、と祖父母が大騒ぎしていた時にくらべると、格段に上達していた。その頃の絵は線が震えていて、しっかりと鉛筆が持てない子供らしさがあったけれど、手渡された似顔絵はまるで大人が描いたような出来栄えだった。恋人の似顔絵は、弓なりに曲がった切れ長の目が人懐っこい性格をよく捉えていた。父親はといえば、睨むような目つきや、への字に曲がった口元など、常にふてくされている雰囲気がそっくりだ。これが俺かと憎らしく思いながらも、息子の才能を認めるしかなかった。自分が庭を眺めていたわずかの間に似顔絵を描いて女のご機嫌をとるとは、我が子ながらいやらしい奴だ。

「ほら、他の絵も見て、子供が描いたなんて信じられない」

 チラシの裏に広がる世界は、父親の想像を遥かに超えていた。祖母の年輪が刻まれた顔。西瓜を運ぶ祖父の肉が落ちた細い腕。庭を横切る野良猫は一匹一匹模様が違い、枝豆の産毛まで表現したかと思えば、畑へ飛来する昆虫たちはまるで翅を広げた標本のようだ。

 恋人は男の子の描いた絵を無邪気に称賛したが、父親はぎこちない笑顔で相槌をうつことしかできなかった。息子の才能が常識の範疇はんちゅうを飛び越えているのは明らかだ。この得体の知れない力は間違いなく、母親の血だ。

 目の前の家事を忘れて遠くを見つめていることが多かった。色彩感覚に長けていて、反物の切れ端を集めて色鮮やかなモンペを仕立て、国防婦人会に白い目で見られることもあった。とぼけたことを言って周りの者を笑わせておいて、急に核心を突いたことを言い放った。極めつけは、千里眼が如く終戦の日付を三年前に言い当てたことだ。日常とかけ離れた力は初めの内こそ神聖なものに感じたが、次第にうとましくなった。母親は男の望む妻、内助の功とは程遠い女性だった。

「今度会うときは、画帳を買ってきてあげる」

 彼女の気遣いは嬉しいが、画帳など与えて本格的に絵に取り組まれたら、母親そっくりに育つかもしれない。息子の才能の芽を摘む方法はないものか、父親は頭を必死に回転させた。

「そうだ、手帳をあげよう、書斎に沢山ある」

 父親は新聞記者という仕事柄、手帳を頂く機会が多かった。頂いた手帳の中には使い勝手の悪いものも多く、会社や書斎の机の奥に放り込まれていた。捨ててしまえば良いのだが、節約が美徳の時代、簡単にモノを捨てるのはいかがなものか、とためらいがあった。

「手帳なんて、小さくて絵が描きづらいじゃない」

「チラシから画帳だなんて贅沢だよ。才能は感じるけど、まだ子供の遊びさ」

「そうかしら、わたしには」

「悪いけど、大切な一人息子を公園の似顔絵描きにするつもりはないんだ」

 女はこれ以上よその家庭に口出しするのは不躾ぶしつけと思い、口をつぐんだ。

「とりあえず手帳を十冊、絵でいっぱいにしてごらん。そうしたらお前の才能を認めて、本格的に絵の勉強をさせてあげよう。どうだい」 

 男の子に絵の才能や勉強の意味は理解できなかった。ただ、お父さんがくれるテチョウとやらを絵でいっぱいにすれば褒めてもらえることだけは感じ取れた。男の子が顔をほころばせた。喜びを口いっぱいにため込んで頬が膨らむ。大きな声が口から飛び出さないように、口先からゆっくりと息を吹き出した。ここで大きな声を上げようものなら、客の前で親に恥をかかせるな、と後で叩かれるからだ。子供を簡単に殴れる男でも、この世界で唯一の父親である。愛して欲しい人に行くべき道を照らしだされた。そこへ行けば必ず幸せが待っている。涙で瞳が輝いた。

 父親は息子の輝く瞳を見て、画帳の購入を先延ばしにして正解だった、と安堵した。常に驚いているような丸い瞳、まっすぐに伸びるさらさらの髪。男の子は女親に似るというけれど、目の前にいるそれは生き写しだった。似ているのは容姿だけではない。現にこうして常識からかけ離れた力をひけらかし、周囲の者を困惑させているではないか。恋人と息子の初顔合わせは早めに切り上げるつもりでいた。そのあとは息子を両親に任せて彼女と外食する予定だった。だのに、ここまで息子と向き合う羽目になるとは夢にも思わなかった。

 十冊の手帳を絵で埋め尽くせなどと、とっさに思い付いたにしては上出来だった。どうせ一冊二冊描いたところで飽きるに決まっている。手帳が部屋の隅で埃をかぶっているのを見つけたら、ほら見たことか根性無しが、と一発二発ひっぱたいてやろう。お絵描きに不向きな手帳が、息子をあの女の影から、この客間から引き離すはずだ。


 日を追うごとに暑さが増していく。熱気を吹き飛ばしてくれる風もなく、地表近くの光がゆらゆらと揺れていた。取材先の工場はゆらぐ地平のはるか先で、涼をとれる店も無ければ日陰をつくる建物すら無い田舎道をひたすら進まなければならない。こんなところで暮らす人間もいるのか。東京近郊ののどかな風景は、父親の目には戦後の復興から取り残された焼け跡と同じに映った。米軍のトラックが通行人のことなどお構いなしに走り抜けていった。汗をぬぐった手拭いが土埃の色に汚れた。どうして俺がこんなくだらない取材を、と天を仰いだ。父親は朝鮮戦争特需の取材に駆り出されていた。

「今までの日本製品はお世辞にも品質が良いとは言えませんよ。たかが毛布ですけどね、これだって兵隊の命を預かる大切な軍事物資です。だからこうやって、一枚一枚、端がほつれてないか点検しとるんです」

 元軍曹の工場長が左手のケロイドをさすりながら取材に答えた。数年前まで殺し合いをしていたヤンキー共のために、金のためとはいえよくやるものだ。隣国で起きている殺し合いが産んだ好景気を考えなしに喜んでいる連中など、微塵みじんも信用できない。しかし、かく言う俺もそれで飯を食べている。権力者の言いなりになってデタラメな情報を垂れ流していた俺が、軍曹の日和見主義を軽蔑するのか。考えるな。手の届く範囲の欲望を満たすだけだ。それが生きるということだ。父親は工場長が勧めるなまぬるい麦茶を喉に流し込んだ。

 毛布工場からまっすぐ会社に戻る予定だったが、恋人の勤めているカフェに寄ることにした。照りつける太陽と不毛な取材のおかげで身体中の血液が沸騰していた。彼女の顔でも見れば幾らかおさまるだろうと淡い期待を抱いて店まで来たが、男の勝手な妄想など瞬く間に水蒸気の泡となって消えた。この一ヶ月、会う度に息子のことばかり聞かれていた。今日も久しぶりに顔を見せに来たというのに、口を開けば息子は元気にしているのか、手帳にどのような絵を描いているのか、お父さんがそばにいなくて寂しがっているのではないか、と遊び半分とは言え母親気取りもはなはだしい。父親は話を切り返して男と女の話に持ち込もうとしたが、恋人はそのような話はいい加減うんざりと言わんばかりに父親の話を断ち切り、店の奥へ引っ込んでしまった。こうなることは想定の範囲内だが、もう少し艶っぽく相手をしてくれても良いんじゃないか、と捨て犬のような顔でアイスコーヒーの氷をカラカラ鳴らしていると、嬉しそうな顔をした恋人が大きな紙袋を抱えて戻ってきた。

「そろそろ手帳を絵でいっぱいにしたんじゃない」

 袋の中にはA3サイズの画帳が三冊、二十四色の色鉛筆、そして水彩画のための一式が入っていた。

「ありがとう、でも手帳はほとんど真っ白だよ。子供のことだ、飽きてしまったのさ」

「あらそうなの、真っ白でもかまわないわ、この袋の中を見ればまた絵を描きたくなるわよ」

「きみはどうしてもあの子に絵を描かせたいんだね」

「もちろん、次はもっと美人に描いてもらいたいもの」

 父親は初顔合わせの日以来、男の子の絵など一つも見ていなかった。手帳が何冊絵で満たされたかなど知らないし、興味もない。恋人に我が子を紹介しなければならないという義務から解放されて、息子のことなどどうでもよくなっていた。会う度に息子のことを聞かれるので、せめて手帳に何を描いているのか見なければと客間まで行くのだが、いざとなると話しかけることが気恥ずかしくて億劫おっくうになり、手帳を横からのぞき込むことさえしなかった。男の子は常に肌身離さず手帳を持ち歩いていた。入浴中や寝ているときは、手帳をまるで宝物のように隠してしまうので、父親が盗み見る好機はまずなかった。

 記者の仕事が多忙を極めて子供にかまっていられなかった、と言えば聞こえは良いが、それ以前に子供の世話を両親に任せっきりにして、此の方まともに言葉を交わしたことすらなく、気に入らなければ簡単に暴力をふるう男が、今さら息子と良好な関係を築くことなど不可能だった。世間体や祖父母のことを考えて里子さとごには出さなかったが、これ以上自分の人生の足かせになるならその選択肢もあり得る話だ。しかし、目の前の恋人は、まるで可愛い子犬でも拾ったかのように、息子のことをいたく気に入っている。我が子に興味を抱けない薄情な父親だと気づかれてはならない。彼女を失えば、この先自分のような男が若くて器量好きりょうよしの女を連れて歩ける機会など無いことは、痛いほど承知していた。

 父親は当たり障りのない息子の様子を話しつつ、映画の話題へ舵を切った。来週の映画は「羅生門」にしようじゃないか。恋人は、なんだか難しそうで趣味じゃないわ、と女給の顔で微笑んだ。


 太陽が傾き暑さも幾らか和らいできた。恋人に愛想を尽かされたくない。その一心で父親は会社には戻らず、大急ぎで帰宅した。玄関を開けて「ただいま」と声をかけても奥から返事が無い。普段なら仕事でいない時間に帰宅してみると、まるで他人の家のようだ。居間や勝手を見ても息子と両親の姿が見当たらない。ちゃぶ台の上におやつと書置きがあった。祖父母は買い物に出かけたらしい。客間から猫の鳴き声がした。 

 ……まさか、そんなはずはない。急に一人でいることが恐ろしくなった。誰でも良い、生きた人間はいないのか。そうか、客間だ、客間に行けば息子がいる。普段なら見たくもない顔が見たくて急ぎ客間へ向かうと、男の子はいつも通り畳に寝そべって絵を描いていた。

 平静を取り戻し、周囲を見渡しても猫などいなかった。馬鹿馬鹿しい、通りで野良猫が鳴いていただけだ。取り乱した自分が恥ずかしくなった。わざとらしく咳払いをして父親の威厳を取り繕うと、恋人から預かった紙袋を、さも自分で用意したかのような笑顔で息子に渡した。息子に画材一式など渡したくなかったが、必ず渡して頂戴ちょうだい、と恋人に念を押されていた。

「ぼく、手帳がいっぱい欲しい」

 男の子は紙袋の中を見ても笑顔ひとつ見せず、父親に返した。父親は息子が嬉しさのあまり抱き着いてくるかもしれないと身構えていたので、拍子抜けしてしまった。男の子が自分の意志をはっきり伝えることなど滅多にない。普段の父親なら、自分が与えたものを拒否するようなことは一切許さず、一発頬をひっぱたいているところだが、それすらできないほど面食らっていた。

「線や数字が邪魔だろう」

「そんなことないよ、いっぱい絵を描いていたら、手帳が大好きになった」

 そう言うと、男の子は手帳を差し出した。父親の手に辞書のような重みがかかった。一ヶ月前に渡した十冊のうち、九冊を父親の華奢な手にのせてきた。息子を絵の世界から引き離すつもりで厚めの手帳を十冊も渡したのだが、その小賢しい企てをくつがえされて頭が混乱した。男の子が不思議そうな顔で父親を見ていた。きょとんとした顔。母親も同じような顔で父親を見ていた。手帳を破り捨てたい衝動に駆られたが、どうにか抑え込んだ。大切なのは手帳の中身を恋人に話せるようになることだ。

 一冊目の最初のページからびっしりと絵で埋め尽くされていた。畑の野菜、花卉かきや昆虫など目に留まるもの全てを手帳の世界へ閉じ込めていた。芸術に関する知識が乏しくても、この一冊一冊がとてつもない力を秘めていることは感じ取れた。手帳には近所の風景や、街を行き交う人々も描かれていた。祖父母が家の中に引きこもらないよう再三注意しても言うことをきかなかったくせに、自分の好きな事のためなら外出できるのか。父親はほっとする反面、苦々しく思った。

 五冊目から描かれているものの雰囲気が変わった。息子は身近なものをありのままに描いているだけではなかった。日常風景の中に、不思議な生き物たちが姿を現すのだ。近所の畑で狐が行進し、寺の屋根に天馬が舞い降りる。一つ目小僧が書店をのぞき込み、靴屋の陳列棚で小人たちが踊っている。さらにページをめくれば、入道雲の合間を竜が悠然と泳いでいた。童話や神話の世界でしか見ることができない光景なのに、絵本を真似て描いたとは思えないほど生々しく描かれていた。

 ページをめくる手が止まらなくなっていた。ぱらぱらと読み飛ばすように見ているのに、絵の細部にいたるまで、瞳の中に飛び込んでくる。見たくもないものが頭に焼き付き、一冊見終わるごとに疲弊していった。父親の腹の底から得体の知れない感情が湧き上がってきた。息子を抱きしめて褒めたたえたいのではない。神が息子に与えてくれた特別な才能を感謝したいのとも違う。湧き上がってくるのは、恐怖だ。今すぐこの薄気味悪い手帳から逃げ出したいのに、気が付けば、九冊目の手帳を手にしていた。

 神秘的な世界が地獄へ様変わりした。幻想世界の住人は追いやられ、亡霊たちが跋扈ばっこし始めた。腕や足を失った者、内臓を引きずる者、火だるまの者が公園、寺、商店街、そして家の前の通りを当然のように歩いている。息子が立って歩くころには血まみれの格好で街をさまよう者などいなかったはずだ。新聞の写真でも見て描いたのか。だとしても、これほど凄惨な写真が掲載されるはずがない。

 九冊目の最後のページ。地獄が終わり、手帳の中の景色が一変した。床脇とこわきの違い棚、山水画の掛け軸。描かれているのはこの客間だ。鴨居かもいに女の首つり死体がぶら下がっていなければ、ごくありふれた日常を描いた絵だった。

 母親が首を吊った時、男の子は赤ん坊だった。お母さんはどんな人だったの、と息子に聞かれても、奇麗だった、優しかった、と当たり障りのない話しかしてこなかった。祖父母とは可愛い孫に悪影響が無いように「病死」ということで口裏を合わせた。両親も母親のことを忌み嫌い、死んでくれて清々していたのだ。近所の幾人かは真相を知っているが、それを陰で子供に聞かせるような下衆ではない。もちろん父親が息子の前で母親の自殺について話したことなど一度もない。男の子が母親の自殺を吹聴して回る姿を想像しただけで、自分が首を吊りたくなった。

「ここに描かれていること、誰から聞いたんだい」

「聞いたんじゃないよ、見たんだよ。妖精は庭の畑で遊んでた。お寺から空を見上げると、竜や天狗をよく見るんだ。兵隊さんはいろんなところにいるよ。お家の前を歩いてたりする」

「首を吊っている女も見て描いたのか」

 男の子は得意げにうなずいた。

 男の子の奇妙な返答が理解できなかった。ただ、素直な物言いは、嘘をついているようには思えなかった。絵本や新聞で見たものと現実が混濁しているのだろうか。それとも脳や心の問題で幻視でも見ているのだろうか。母親も理解しがたい話をすることはあったが、幽霊を見た、といったたぐいの話はしたことがなかった。どうやって真相を知り得たのか分からないが、これから先、息子が手帳やチラシの裏に母親の首つり死体を描き続けるのかと思うと、父親は背筋が寒くなった。

「お前、これからはおばけの絵なんか描くなよ、いいな」

「どうして」

「それは、つまり……そんなものばかり描いていたら、まともな大人になれないだろ」

「どうして」

 里子に出すしかない。世間体など知ったことではない。男手一つで子育てする立派な父親など、所詮俺には無理な話だったのだ。両親は悲しむだろうが、この呪われたガキと暮らし続けたら、この先もっと面倒なことになる。そういえば空襲で子供を失くした友人がいた。明日にでも役所へ行き、手続きを始めよう。彼女がこの決断を知ったら俺から離れていくだろうが、やむを得ない。目の前の問題を解決しなければ逢瀬おうせを楽しむどころの話ではない。

「ねえ、どうして描いたらいけないの、お父さんに見てもらいたくていっぱい描いたんだよ」

 男の子が拾い集めた手帳を父親の前に差し出した。父親の手が反射的に男の子の手を払った。手帳が畳の上に散らばった。男の子の大きな瞳が濡れて輝いた。母親譲りの真っ黒な瞳は、自分の子供すら受け入れられない、想像力の欠片もない男を憐れんでいた。

 お前も俺を馬鹿にするのか。立ち上がり、手を振り上げた。その手に込められた力はおよそ子供を叱る加減ではなく、話の通じない畜生、外道を叩きのめす勢いだった。怒りに任せた拳を振り下ろそうとしたその時、冷たい手が父親の腕を掴んだ。

 沸騰していた血液が一瞬で凍り付いた。父親の背後から差し伸べられた手は祖父母のものではない。そして、この世のものでもなかった。背後のそれは、天から舞い降りてきたかのように、父親よりも高いところから手を差し伸べていた。

 冷たい手が父親の腕を離した。見るな、振り返るな。父親は必死で身体に指示を出しているのに、身体は勝手に身をひねり続けた。そんなに俺が憎いのか。器量しか取り柄のない、行き場のないお前を引き取って、それなりに大切にしてやった。家のことを忘れてぼんやりしていても大目に見た。お前のことを阿保あほ呼ばわりする両親をたしなめたりもした。近所でいかさま占い師と呼ばれても相手にしなかった。それなのに、お前は俺を拒み続けた挙句、子供を残して勝手に死んだ。そうだ、勝手に死んだのだ。良家の嫁という立場を与えてやったのに、首をくくって俺の顔に泥を塗った。そこまでしておいて、まだ足りないのか。幽霊になって復讐しに来たのか。頼む、許してくれ、振り向いてお前が目の前にいたら、俺は死んでしまう。

 父親の意志の力など、真実を知ろうとする欲求に敵うはずもなく、身体はゆっくりと振り返った。背後には誰もいなかった。客間には父と子の二人だけだ。父親は膝から崩れ落ちた。全身から噴き出していた冷たい汗が、畳にぽたぽたと点を描いた。

 男の子が拾い集めた手帳を、再び父親の前に差し出した。

 父親はたまらず手帳を奪い取り、画材を入れていた紙袋に放り込んだ。

「バケモノ」

 残された全ての力を振り絞って憎まれ口を叩いた。虚勢を張りながら客間から逃げる父親の後ろ姿は、死にかけの犬に似ていた。


 座敷から見える空は地平にわずかな茜色を残し、群青色に染まっていた。男の子は客間に一人座り込み、現実と幻想の境界が曖昧になった庭をぼんやりと眺めていた。お父さんはなぜあれほど怒ったのだろう。手帳を絵で満たせば喜んでもらえると思った。自分のことをもう少し好きになってくれると信じた。目に映る全てのものを精緻せいちに描きこむことで、自分を取り巻く不思議な世界を誰かに理解して欲しかった。人と話すことが苦手な男の子にとって絵を描くことは対話だった。誰かを驚かせたくて妖精や亡霊を描いたのではない、言葉で表現できないから描いて見せたのだ。父親は男の子の差し出した手帳をゴミのように紙袋に突っ込み、持ち去ってしまった。自分の大切な言葉が、庭のドラム缶で紙袋ごと焼き捨てられてしまうことは容易に想像できた。これから先、絵を描いているところを父親に見られたら、殴られるだけでは済まないかもしれない。もう二度と絵を描くことができないかもしれない。星がちらつきはじめた空を見上げると、男の子は自分が果てしなく広がる暗闇の世界へたった一人で放り出された気持ちになった。ぼくはバケモノなのだろうか。

「坊やの絵が大好きよ」

 男の子の頭上から声がした。振り向くと女の人が首にひもをひっかけてぶら下がっていた。いつもは姿を見せるだけなのに、初めてその声を聴いた。男の子は少し驚いたが、想像通りの優しい声が嬉しくて、曇っていた瞳に明るさが戻った。

 お母さん。みんなは死んだというけれど、この部屋でだけ、ぼくにだけ姿を見せてくれる不思議な人。写真よりも優しい顔をしていて、目が合うといつも微笑みを返してくれる。お父さんが怒りだすと、周りの大人たちも一緒になってぼくを叱るけど、この人だけは何も言わない。僕が一日中絵を描いていても静かに見守っていてくれる。この世界で信じられる、たった一人の大人。

 母親が男の子のすぐ傍を指さした。そこには十冊目の手帳が落ちていた。

「お父さんには内緒」

 柔らかい声が男の子の緊張をほぐしていく。手にした手帳を開いてみれば、中はまだ真っ白だ。

 男の子を急に眠気が襲ってきた。今日は本当に疲れた。お父さんとあれほど長い時間お話ししたのは初めてかもしれない。怖くて足が震えていたのに、今はなんだか強くなれた気がする。手帳を一冊、絵でいっぱいにした時と似ている、気持ちよく疲れた感じ。いけない、客間で眠ったら、またお爺さんやお婆さんを困らせてしまう。ぼくはもう大きいから、布団まで運べないんだ。

 男の子はよろめきながら立ち上がり、睡魔を追い払うように一歩踏み出した。

 宙に着物の裾が揺れていた。

 おやすみなさい、また明日。男の子は手を伸ばし、着物の感触を確かめた。


《おわり》


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