第7話 本田

 十一月二日。午前七時過ぎ。

 俺はマツダの準備してくれた朝食もそこそこに、顔を突き合わせて座る彼のことばかり見てしまう。

 昨日、理容室で切ってもらったばかりの髪をムースで整え、俺が贈ったスーツを身に着けているマツダは見違えるほど洗練され、俺の周りにいるエグゼクティブに引けを取らない立派な風貌に成り代わっていた。ただ一つ、ネクタイを着けていないのが惜しい。

「ネクタイしろよ。渡しただろ?」

 俺は四つ切にされたリンゴを食べながら言った。リンゴはシャキシャキした歯ざわりで噛んでいて気持ちがよく、味もちょうどいい。甘すぎず、酸っぱすぎず。

「うまく着けられなくて」

 マツダがバツの悪そうな顔をした。

「したことないのか?」

「あるけど、ずいぶん前だし」

 そういえば俺は、マツダの過去をあまり知らない。興味がないわけじゃない。二人でゆっくり話し合う時間が圧倒的に足りないんだ。それに、マツダから俺のことを聞いてくることも少ない。

 俺は腕時計を見た。まだ時間がある。

「このリンゴ、どう? 昨日朝市で買ってきたんだ」

 マツダがリンゴを摘まみながら聞いてくる。

「美味いよ。わざわざあの駅まで行ったのか」

「用事のついでだよ」

「用事って?」

 なんとなく聞いてみただけなのに、マツダは困ったように眉を寄せた。口をつぐむ。回答が遅い。

「何の用事だ?」

 もう一度聞くと、マツダは「買い物」と呟いた。嘘だと思った。

「マツダ」

 つい声がきつくなった。

「買い物だって。昨日の夕飯の買い物」

 開き直ったように言いきって、マツダが立ち上がった。俺もつられて腰を上げる。

 マツダはソファの背に掛けていたネクタイを手に取り、襟に通した。が、その手つきはあやふやだ。うまくノットを作れない。

「貸せ。俺がやる」

 ネクタイを奪い取り、マツダの後ろに回り込んだ。その方がやりやすい。自分がやるときと同じ要領でネクタイを結ぶと、マツダが「すげー」と感心したように俺を振り返って来た。嬉しそうな、素直な表情だ。

「ありがとう」

 屈託なく言われ、俺はマツダから目を逸らしたくなって、でもやめた。

「リンゴ、ありがとな」

 さっきのリンゴは、俺に食べさせたくて買ってきてくれたのかもしれない。そんな予感がした。

「よかった」

 マツダが嬉しそうに笑った。胸のあたりが痒い。ふと、三澄に告白された経緯を思い出す。あの日彼女は、退勤する間際に俺に話しかけてきたんだ。

「最近、笑顔が増えましたね」

 最初は明るい表情だった。

「そうか?」

 心当たりがなかった。いつもと同じ表情しかしていないと思っていたが。

「好きな人でもできたとか?」

 不意打ちの詮索に、俺は気の利いた返事ができなかった。

「やっぱり好きな人ができたんですね。最近、会社のロビーに若い男の人が来てるけど、まさか」

 途中で言葉を切り、三澄は唇を噛んだ。彼女の顔が強張った。唇は震えている。不思議に思ったとき、彼女が俺に告白をしてきた。

 そのあとはマツダに話した通りだ。

 今までの俺は仕事人間で、俺を一喜一憂させるのも仕事に関わることだけだった。なのにこの様だ。秘書に勘づかれるほど、俺は恋をしているオーラを出していたらしい。

 そうだ、認めるよ。俺はマツダに恋をしている。

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