第8話 本田

 この日の十八時過ぎ、俺とマツダは渋谷のディーラーに向かい、手続きを済ませてベンツを受け取った。

 俺は運転席に、マツダは左側のリアシートに座った。

「ドライブでもするか」

 シートの高さを微調整しながら俺が問うと、マツダは「帰ろう」と一言。

 彼は座り心地を試すように、何度も角度を変えて尻を弾ませている。子供みたいだ。

「脚伸ばせる。ファーストクラスみたい」

「乗ったことあるのか」

「ないけどさ」

 口をとがらせて見せたあと、マツダが背後から、俺の首に腕を回してきた。

「帰ったらドラレコつけたい」

「ドラレコ?」

「つけて置いた方が良い。ベンツみたいな高級車は嫉妬されて煽られたりするし」

「――帰ったらって。買ってないぞ、そんなもの」

「俺が揃えてる。必要なものは全部。配線も俺がやるから」

やけに準備が良い。案外マツダは用心深い性質なのか。いや、そうじゃない。

 マツダは俺に言えない秘密を抱えているんじゃないか。そんな気がする。

 俺が口を開こうとしたとき、まだ車の脇にディーラーの店員が立っていることに気がついた。何か不具合でも? と聞いてきそうな、怪訝そうな顔をしている。

 俺はとりあえず車を出すことにした。

「マツダ、座ってシートベルトしろよ」

「わかった」

 俺は初めての左ハンドルに違和感を拭えず、慎重に運転し、自宅へと車を走らせた。

 俺のマンションの駐車場に無事、車を止めたときだった。マツダは車から出ずに、コンソールボックスを跨いで、助手席に移ってきた。

「なんだよ、ドラレコ持ってこないのか」

 ここに着いたらすぐにでも部屋に戻って取ってくるのかと思ったが。

「後でいいよ。それよりさ、話がしたいんだ」

「それなら部屋で」

「二人で部屋に戻ったら話どころじゃなくなるだろ」

 マツダが言いたいことはすぐわかった。

 俺たちは部屋の中で二人きりになると、まずキスをして、それでは足りずにセックスになだれ込んでしまうのだ。一昨日、昨日がそうだった。

 俺は黙って、マツダを見た。彼にしては真剣な目をしていた。

「あんた結構、会社で嫌われてる?」

 身も蓋もない言い方に、俺は笑いそうになった。出社初日で、マツダは職場で洗礼を受けたようだ。俺や、俺を取り巻く連中の噂話。

「そうだな。嫌われてるよ」

「専務とそりが合わなくて、そいつの派閥からも目の敵にされてるって聞いた」

「ああ、そうだ。俺は気にしてないけどな」

 入社八年で副社長に就任した俺のことが邪魔でしかたないのだ。俺の叔父は。

「あいつは社長の座を狙っているからな」

 親父は俺がMRだったころの実績を認めてくれているが、叔父はそうではない。副社長なんてあってもなくても良いお飾りのポストだとか、若造に何ができる、と言われたこともあった。だが俺は、そんな煽りに乗ったりはしない。叔父を失脚させたい理由は他にある。彼が不正を働いているからだ。

「これからも上手くやっていけない感じ?」

 マツダが控えめに聞いてくる。

「ああ、無理だな」

 俺があいつの意見を素直に聞く傀儡にならない限り。

「そのこと、誰かに相談できない? あんたの母親とかさ」

「俺の母親? 相談できるような相手じゃない」

 俺はマツダの提案を一蹴した。

「あの人とは十年以上顔を合わせてない。親父と離婚してからは一切」

「あ――離婚してたんだ。ごめん」

「謝る必要はない。離婚してくれて良かったんだ」

 俺はタイガーマザーの典型である母親のことが大嫌いだった。小学生の頃から俺に、全教科クラスでトップを取ることを強いてきた。それができないと「お前は出来損ないのバカだ」と罵られた。家ではテレビや漫画を禁止され、課外活動もさせてもらえず、友達と遊ぶことも許されなかった。俺の放課後のスケジュールは、ピアノとヴァイオリンのレッスン、英会話教室、塾で埋め尽くされていた。

 中学、高校時代は人並みに親に反抗したりもしたが、結局は落ち着くべきところに落ち着いた。俺は東大に次ぐ私立大の経営学部に入学し、首席で卒業した。

「じゃあ他に相談出来る人は」

 マツダがしつこく聞いてくる。

俺は首を横に振った。

「三澄も辞めたしな」

 つい俺が独り言ちると、マツダが顔を強張らせた。

「ミスミさんって――俺の前任者だよね」

「そうだ」

「髪の長い美人」

「まあ、美人だったな」

「社内報に載ってた。ミスミさん。性格も良かったって」

 三澄のことも職場の人間にあれこれ聞かされたのか。辟易としてくる。

 三澄はたしかに性格も良かった。本人は学歴もルックスも高レベルだったが、だからと言って周りの人間を見下すことなく誰にでも平等に接していた。グレて高校のときに家出した弟のことを、家族の中で唯一見捨てずに、今でも交流を図っている、ということを聞いたことがある。

「その通りだ。情も深かった――まだこの話は続くのか」

 マツダを軽く睨むと、彼は肩を竦めた。

「もう良いよ。これ以上聞いたら怒られそうだし」

 一つため息を吐いて、マツダは俺の背中に腕を回してきた。

「本田さんこの前、ずっと退屈だったって言ってたじゃん」

「ああ」

「俺、あんたがインタビュー受けてる経済誌、何冊か読んだことあるんだ」

「そうなのか? 意外だな」

 マツダはそんなの読みそうにないのに。

「意外そうな顔するなよ、失礼だな。まあその、それを読んだときに思ったのは」

 一度言葉を切って、マツダが俺を見上げてくる。

「退屈っていうより、寂しそうな顔してるって」

 言ったあと、マツダは目を伏せた。

 俺は返す言葉を見つけられなかった。背中に回ったマツダの腕に力が入った。温かい。

 目を閉じる。息が漏れた。遅まきながら、マツダを抱き返す。お互い無言。

ずっとこうしていたいと思った。

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