第6話 マツダ

 翌朝の八時半。

 俺はあまりの怠さに唸りながらもベッドから出た。室内に本田はいない。とっくに会社に出勤している。

 俺は裸のまま、書斎を兼ねている寝室を出て、二十㎡あるかないかのリビングダイニングに足を踏み入れた。黒いシンプルなテーブルがあって、そこには本田が用意してくれた朝食がある。数種のサンドイッチと、生野菜のサラダだ。マグと個装のドリップコーヒー、ステンレスポットまで置いてある。本当に準備が良い。

 だが今は食事をするよりも優先することがあった。

 俺はクローゼットを開けて、本田のカラーシャツを一枚拝借した。案の定ブカブカだったけど気にしない。ボトムは昨日穿いていた自分のジーンズ。

 玄関のドアを開け外に出る。今日は朝から日が差していて明るい。

 昨晩もらった合鍵を使って戸締りをして、俺はいつもの場所に行く。

 

 本田のマンションからニ十分ほど歩くと、地下鉄O線の新しくできたばかりの駅がある。洗練された場所だ。高架下にはテナントが十四店舗並んでいて、どこもセンスの良い店構えだ。高架下前の空きスペースではマルシェ(朝市)が開催されていて、結構な賑わいを見せている。俺も色鮮やかな紅いリンゴに食欲を刺激され、つい一個買ってしまう。

 リンゴを齧りながら、車道沿いの歩道を歩き、高架下出てすぐの電信柱の前で止まる。

 それには黒いサインペンで数字が書かれている。俺の目線から下に向かって、1、2、3、4、5。見慣れている。毎日見ているんだから当たり前だ。

 俺は毎度のことだが、ホッとした。まだ俺が書いた5で止まっている。6はない。

 電信柱の次に、右の車道を眺める。白と青の配色の運送会社のトラック、黒のSUV、白いミニバン、グレーのセダンが続々と俺の横を通り過ぎていく。

 ここだ。ここで事故は起こるはずだ。

俺の依頼人がそう言っていたし、新聞も見せてもらって確認した。

「終わったらどうするかなあ」

 自分の声が残念そうな色に染まっているのが悔しい。

 明日、ベンツが納車されれば、俺の任務は終わりだ。きっと無事に成し遂げられる。それは分かっている。問題はその後だ。

 俺は車の流れを眺め続ける。

 ここで本田は事故に遭って死ぬことになっている。二年先の未来で、俺はその事実を知ったのだ。

 俺が知っていることは少ない。

 俺は二〇二二年の十一月三日から、二〇二〇年の九月十五日にやって来た。俺の前任者は九月十四日に、その前の奴は十三日に着地している。つまり、新たに雇った人間を投入するとき、前任者より一日後にタイムスリップするよう、依頼人は移動先の年月日を設定しているのだ。

 今日は二〇二〇年、十一月一日。俺が失敗したのなら、六人目はとっくにここに来ているはずだ。これまでの決め事の通りなら。でも楽観はできない。他の可能性だってある。例えば、依頼人が未来を変えることを諦めたとか。タイムマシンが壊れたとか。もしくは、六人目が数字の記入を忘れたとか。

 まだ油断はできないんだ。十一月三日が無事に終わるまでは。

 俺は今一度、祈るような思いで、電信柱を見る。5で終わっている落書き。このまま6が足されなければ良い。

 リンゴの、最後の一口をゆっくりと味わう。甘酸っぱく、すっきりした後味。

本田にも一個、買って行こう。

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