第5話 マツダ

 ことん、と何かを置いた音がして、俺の瞼は勝手に開く。路上生活の賜物だろうか。些細な音にも体が先に反応するのだ。

 周りは薄暗い。隣に本田の姿はない。体を起こそうとしたが、力が入らない。シーツが背中に直に触れている。俺は裸だった。

 左側は壁しかない。右側に首を緩く動かすと、本田はいた。こちらに背を向けて、デスクでノートパソコンを開いている。キータッチの音が微かに聞こえる。

 俺はゆっくりと体を起こした。ベッドから静かに出て本田の元に向かう。注意深く歩いた。気を抜いたら脚から力が抜けて転びそうだったからだ。

 ゴールの逞しい背中に抱きついた。本田は上半身裸で、ジーンズだけ穿いていた。そんな恰好も決まっている。

「おい、びっくりさせるな」

 全然慌てた様子もなく、本田が振り返った。

「大丈夫か」

「え?」

 声をだしたとたん咳込んだ。

「だいぶ男としてなかっただろ」

 言い当てられ、気恥ずかしくなった俺は本田の頬を軽く叩いた。

 男としたのは本当に久しぶりだった。高校を出て以来だから、六年のブランクだ。

 自然と俺たちは顔を近づけあって、唇を重ねた。五回目のキスのあと、「もう終わり」と本田が言った。照れたように短髪の頭を掻いた。

「まだ仕事があるんだ」

 本田がまたパソコンと向き合った。デスクをちらっと見る。ことん、の音の正体がわかった。コーヒーが入ったマグカップ。

俺は彼の肩を揉みながら、先ほどベッドで話したことを反芻する。

 お互い二回達したあと、息を乱したまま本田は囁いてきた。俺の体を名残惜しげに撫でながら。

「仕事してないんなら、俺の秘書でもやるか」

 それって公私混同じゃねえの、と苦笑しながらも、俺は「いいね」と答えていた。

「でも、今の秘書はどうするの」

「今はいない。最近辞めたばかりだ」

「そうなんだ。どうして辞めたの」

「俺の事が好きだって告白してきたんだ。男が好きだからって断ったら辞めますってさ」

 その声が寂しく耳に響いて、俺は体を反転させ本田と向き合った。

「辞めてほしくなかったんだね、本田さんは」

「そう、だな。長い付き合いだったし」

 俺が話を促すと、本田は素直に語りだした。

 前の秘書は女性で、本田がまだ部長の時から部下として仕事を支えてくれた人だった。その有能ぶりを買って、副社長になったときに彼女を秘書に抜擢したのだ。

 仕事のパートナーとして最も信頼していた人物なのだろう。恋愛感情が絡んだせいで、その関係が終わってしまったのだ。

 肩揉みを終わらせ、本田の背中にもたれる。

「本当にあんたの秘書にしてくれるの?」

 俺は大学を出ていないし、大した職歴もない。正社員で働いていたのは二年ちょっとだ。営業職だったが辛くて辞めた。その後はバイトを転々としながら食いつないでいた。それだけじゃない。家賃が払えなくて部屋を追い出されたこともあった。そのときは、街でナンパした女の部屋に転がり込んでヒモ状態(最低だよな)。不安定すぎる生き方だ。

「ああ、ちゃんと給料も払う」

「ラッキー」

 本田の耳元で囁き、耳たぶを軽く噛む。と、彼がびくりと体を揺らした。刺激が強かったか。

「お前、服着ろよ。もしくはベッドで布団被ってろ」

「良いじゃん。別にこのままで。着るのかったるい」

「俺が落ち着かない」

 本田が怒ったように声を荒げた。こちらを見ようともしない。だけど彼の耳はほんのりと赤い。

 急遽リモート勤務を行っていた本田は、夜の八時に強引に仕事を終わらせ、また俺をベッドに連れ込んだ。

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