第4話 本田

 手続きは滞りなく進み、今乗っている車も買い取り業者に高値で引き取ってもらえることになった。弁護士のお陰だ。

 二年乗った愛車(というほどでもなかったが)を手放す前日、俺はマツダと二時間ドライブを敢行した。行き先は近場の海だ。本当は関東圏から出たかったが無理だった。俺は仕事で忙しく、このところ週末もまともに休めていない。それでも時間の合間を縫ってマツダと会うようにしていた。毎日Dコーヒーでランチの時間に喋り、仕事が終わったら、俺の会社のロビーで座って待っているマツダに声を掛け、自宅のマンションまで三十分ほど、一緒に歩いた。彼は部屋に入りたがる素振りを見せなかったので、俺もあえて誘う事はしなかった。

 海岸入り口付近に車を止めて、俺たちは砂浜を歩いた。歩くたびに足が沈み込んでいく。なんとなく隣を歩くマツダの手を取った。迷いなく、彼は俺の手を握り返してくれた。なぜだろう。なぜこんなに、マツダは俺に従順なのだろう。

 十一月の寒々しい灰色の空を見上げても、自分にとって都合の良い答えは帰ってこない。

 わかっている。本人に直接聞くしかないってことは。深呼吸をしてマツダを見る。と、彼もこちらを見ていて、目が合った。気まずそうな顔を一瞬させたあと、マツダは笑った。

「仕事、大変そうだね。七時間眠れていない顔」

「ああ。ここのところ、社内で色々あって――」

 俺は言葉を濁した。話したくても話せない。すべて企業秘密だ。

 会社の業績自体は良い。赤字を出している部門もない。目下の悩みは、経営方針が違う叔父の派閥とどうやって折り合いをつけていくか、だ。新薬開発の研究費削減を唱える叔父と、それに反対する俺は、犬猿の仲になっているのだ。彼の顔を思い出すのも嫌だ。うんざりする。

 気分を変えよう。俺はマツダの肩に腕を回し、彼の髪に鼻先を埋めた。フローラル系のシャンプーの匂いがした。良い匂いだ。

「お前、どこに住んでるんだ?」

 出会ってすぐの頃のマツダは、身だしなみに気を遣っていなかった。同じ服ばっかり着ていたし、風呂も毎日入っていなかったはずだ。

「ネカフェだよ」

「――俺と出会ったころは?」

「どこにも」

「どこにもって」

「路上生活ってこと。夜中はコンビニで立ち読みしたり、ファミレスでドリンクバー飲んだり」

 金が全くないわけではないようだ。だが定住するための金はない。

「ネカフェって住み心地良いのか」

 自分でも何が聞きたいのかわからない。

「まあまあかな。悪くはない」

 マツダが繋いだ手を前後にブラブラさせる。俺の手も揺れた。砂浜には俺たち以外誰もいない。海の中には数人がサーフィンをしている。風はなく、波も高くない。サクサクと歩を進める音が響く。

「あのさ」

 ぽつりとマツダが呟く。

「これから言うことはどうせ信じられないだろうから信じなくてもいいけど、聞いてほしいんだ」

 マツダが立ち止まった。ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめた。凛とした瞳で。

「俺ね、二年先からここにタイムスリップしてきたんだ」

「――は?」

「今から二年後――2022年から今にやってきたんだって」

 マツダが歯がゆそうに言う。真面目な表情を崩さずに。

「タイムスリップ?」

「そう。二年後にタイムマシンができたんだ。それに俺は乗って来た」

 俺はつい笑ってしまった。

 いくら俺がマツダに惹かれているからといって、そんな話は信じられるわけがない。あと二年でタイムマシンが開発されて時間旅行ができる? あり得ない。

「信じないなら信じないで良いってば。俺はあんたにベンツを勧めるミッションを負ってたんだ」

「なるほど」

 俺はそれだけ返して無言になった。マツダのいう事は信じられないし、俺にベンツを押し付けてどうしたいのかも分からない。

「タイムマシンを開発した人にスカウトされたんだ。そのときも俺、路上生活しててさ。親も兄弟もいないし、結婚もしてないし。失う物もなくて怖いもの知らずっていうか」

 マツダが自嘲気味に笑って俯いた。砂浜に落ちた影がやけに薄い。俺は目を擦って、彼の存在を確かめた。マツダの艶のある髪とつむじを見下ろす。

彼はため息をひとつ零してまた顔を上げる。

「ベンツ、いつ納車されんの?」

「明後日だ」

「そう」

 あさって、とマツダが確認するように囁いた。

「一か月かかったね。長いような、短いような」

 くすっとマツダが笑って、また歩き出した。俺もつられて歩く。

 波打ち際までもう少しだ。隠れていた太陽が雲の隙間から顔を出している。

「車が来たらお前も乗るだろ? お前が買えって言ったんだからな」

「もちろん乗る!」

 マツダが破顔して繋いでいた手を離した。ぴょんと大きく飛び跳ねて砂浜に着地する。が、バランスを崩して体が傾いだ。手を差し伸べようとして俺はやめた。マツダはよろけてそのまま砂浜に尻もちをついた。

「家がないならうちに来れば」

 俺は屈みこんで、マツダの頬に手をあてた。思っていたよりずっと柔らかい。陽光を浴びた肌はきめが細かく、産毛が金色に輝いている。

「あんた、警戒心なさすぎ。それで副社長?」

 マツダが呆れたように笑う。でも、目尻が少し赤い。

「お前がいると面白い」

「今まではつまらなかった?」

「そうだ。退屈だったんだ」

 どこにいても誰といても。だから一人が良かった。この海に訪れるのもいつも一人でだった。海に行こうと誘われることはあっても、連れて行きたいと思う相手はいなかった。マツダだけだ。

「俺もあんたといるのが楽しい」

 照れたように笑って、マツダが俺の肩に手を回してくる。とたん胸のあたりがざわっとして、全身があからさまに熱くなるのを感じた。やばい、三十過ぎてるっていうのに。こいつを今すぐ抱きたい、なんて思っている。

「お前はベンツ目当てだろ」

 俺が言うと、マツダがかぶりを振った。

「デート商法みたいなことしちゃったけどね、時間がなかったから」

「今は? 時間はあるのか?」

「さあ。俺にも分からない」

 投げやりに笑うマツダを抱きしめた。

 俺もわからない事だらけだ。でも不安はない。

「本当に住んで良いの? 本田さんの家」

 胸の中に収まったまま、マツダが上目遣いになって尋ねてくる。

 返事の代わりに、俺はマツダにキスをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る