第138話

 雲が流れていく。





 以前、森林浴した時の様な美しい紅葉も時期を過ぎ、白銀の雪を伴って寒々とした冬の様相を見せ始めていた。


 腰に下げたリッパーが、歩みに合わせて揺れる。


 只の散歩の様なものだったが、最初オオニワトリに襲われた経験から森林浴の際には、出来るだけ武器を持っていく様にしていた。


 自然溢れる原生林まで歩いていく途中、団員らしい女性数人が俺の腰に下げたリッパーを見て、露骨に嫌な顔をしながら手を引いて離れていったのを見た時には少々気が重くなったが、嫌われ者など今に始まった話では無い。


 雪混じりの些か冷たすぎる風が、静かに吹き抜けていく。


 クルーガーと談笑しようかとも少し思ったが、こういう時は紅茶で談笑する様な方法より、誰も居ない場所で自分を見つめ直した方が良い。


 少し早いかと思ったが、いつもより厚手の防寒着を来てきたのは正解だったらしく、風は此方が思っていた以上に冷たかった。


 原生林、か。


 小型のディロジウム銃砲、所謂レバーピストルは一応腰の後ろに収めてはいたが、言うまでもなく最後の手段だと弁えていた。


 リッパーを振り回すだけならまだしも、銃砲は森中に響くと思った方が良い。


 オオニワトリ“以上”のものが血走った眼で飛び出してくる可能性は、充分にある。


 レバーピストルの再装填の問題もそうだが、もし相手がリッパーだけでは手に負えない可能性も考えると、尚更不用意には使う訳には行かない。


 長く、息を吐いた。


 自分は赦されるべきではなく、裁かれるべきだ。


 あの時、ザルファ教の彫像の前にして胸中で沸き立つ様に生まれた想い。


 自身から生まれた氷柱の様な棘が、いつまでも胸の奥に刺さっていた。


 分かっている。


 そんな事に今更思案を巡らせても何の得に もならない事は、重々分かっている。


 赦されるべきなのか。赦されて良いのか。


 この団でレイヴンとして戦い始め、幾度となく胸中に飛来しては消えていった小さな棘。


 自嘲とも自戒とも、自傷とも言えるそんな棘は今更になって抉る様に深く食い込んでいた。


 手繰り出される様に、引き摺り出される様に“あの日”の記憶が呼び起こされては、赤黒い錆びの如く思考の節々に滲んでいく。


 胸中で悪態を吐く気にもならない。吐いた言葉が、胸中でさえ木霊の如く跳ね返ってくる様な気がしていた。


 赦されるべきでは無い。


 お前は、“あの日”から逃れる事も、償う事も出来ない。


 そんな声と共に、氷柱の様な棘が更に胸へ食い込んだ。


 少しずつ、脈が速くなっていくのが分かる。滲み出た記憶が忠実に、鮮明に抉じ開けられそうになっている。


 雪化粧をした周りの原生林を眺めつつ、意識的に深く息を吸った。


 酸素と呼吸で宥められる筈だ、今までと変わらない、と自らに言い聞かせる。


 少しの間を置いて、辺りの景色を意識しつつ長く息を吐いた。


 記憶が抑え込まれ、自分が平静を取り戻していくのを実感しつつ内心、安堵する。


 逃げ出さず、そして投げ出さずに、生涯背負い続けるしかない。例え償い切れずとも。


 何度も自問し、何度も出した答えだった。


 急かされているかの様に、足が勝手に原生林の方向へと進んでいく。


 …………今日はもう少し深く踏み込んだ方が良さそうだ。


 ユーリから聞いたザルファ教の知識も、何れ学び直す必要があるだろう。時間を取ってもっと深くユーリから聞くか、東方国ペラセロトツカの言語……カラモス語辺りで執筆された文献を読み込むべきかも知れない。


 割れた破片こそ鋭い様に、中途半端は自らを傷付ける。


 赦されるにしろ裁かれるにしろ、その判断も葛藤も深く知ってから考えるべきだ。


 原生林に漂う、冷えた森林の匂いを嗅ぎながら前へと進む。


 嗚呼、煙草があれば。また一つ、暗い記憶が込み上げるも胸の奥へと抑え込んだ。


 足元の雪を踏み締める様に歩きながら、首を伸ばして幾らか空を見上げる。


 森林浴の効果が、漸く心身に現れ始めていた。


 先程まで頭に溢れていた、今悩んでも仕方無い問題が少しずつ遠ざかり、思考が明瞭になっていく。


 俺の過去、“あの日”は背負い続けるしかない。ザルファ教の事はまた調べるとしよう、無宗教の身だが幾分でも自分の助けになるなら、事のついでに祈ってみるぐらいは良いだろう。


 隠密部隊で戦っていたという時点で、俺は元からテネジア教徒としては見下されても仕方無い程には、信仰を手放している。


 どうせテネジアに背を向けて久しいならこの際、“改宗”というのも吝かではない。最も、元帝国軍でテネジア教をまるで信仰していない俺を受け入れてくれる程に、向こうの懐が深ければの話だが。


 文化と宗教を踏みにじり、血の湖が出来る程に散々ラグラス人を殺してきた俺が今更、よりにもよって異教に“改宗”するなど、それこそユーリが信仰していた雷を司るという軍神から、雷か鎚を振り下ろされるかも知れないな。


 雪を踏み締める音と共に、冬景色を楽しんでいたが、ふと眉根を寄せた。


 歩み続けながら、首を動かさずに目線だけを巡らせる。


 こうして踏み込んだ原生林で、先程から何かの気配を感じていた。


 ハトやツバメ程度の小型鳥類や小型空魚程度なら良いが、オオニワトリやハネワシ、それこそサメでも居たらかなり面倒な事になる。


 独りで頭を整理し、心身を落ち着ける為に自然の中に踏み込んだのにリッパーを振り回して銃砲を撃って、命からがら原生林から逃げ出す様な真似は御免だ。


 息を潜めた様な、気配。足を止めつつリッパーの柄に手を掛けながら、素早く振り返る。


 振り返った先には、何とも驚いた様子の随分若い男が立っていた。


 キセリア人、か。


 刈り込んでから少し伸びた様な髪型のブロンドに、青い眼。6フィート程の体躯と筋肉から一目で分かる、“鍛え込んだ者”の気配。


 少なくとも整備員や作業員、ましてや研究員とは思えない。


 そこまで考えた辺りでいや、と胸中で自分を戒めた。事務員でありながら、警棒を素手でへし折る程に鍛え込んでいる様な男は、確かに存在する。希少なだけで、居なくは無い。


 先入観は、命取りになる。


「誤解しないでくれ」


 男は開口一番、そう呟いた。驚いた表情のまま、僅かに緊張した声で。


「他の奴等と違って、俺はあんたが憎い訳でも恐ろしい訳でも無いんだ」


 敵意が無い事を表す為か、男が両の掌を見せる様な姿勢を取る。


 あんな姿勢から視線と意識を誘導して、相手から先手を取る方法があったな。


 そんな事を考えながら、僅かに眼を細めた。


「こんな所まで、何の用だ。悪いが前評判なら聞いてるんでな、“教えに来てくれた”のなら間に合ってるが」


 そう言い切り、少し息を吸って身構えるも若者は少し間の後に手を振った。


 少し言葉に詰まった様な表情の後に、悩んだ様な口調で呟く。


「すまない、確かに俺が信用出来ないのは分かる。だが、敵意が無い事だけは分かって欲しい」


 何とか分かってもらおうとする様な、相手を宥める様な表情。


 言葉を探す様に目線を切り、辺りに視線を彷徨わせている。


 少しの体重移動と共に、若者が身体の向きを変えた。背を向けた訳では無いが、明らかに闘争や打撃から考えると不利な姿勢だ。


 本当に敵意は無いらしい。


 何と言うか、拍子抜けな気分だった。別に闘争を期待していた訳では無いが。


 若者ががどうしたものか、と言わんばかりに此方を見る。


 穏やかな、静かな眼。決して鋭い眼ではなく、底の見えない眼でも無かった。


「分かった、分かったよ」


 片手で制する仕草と共に、相手に落ち着いた声で呼び掛ける。


 そんな俺に安堵した様な表情を見せる若者。何とも、調子が狂う様な気分だ。


 こう言いたくは無いが罵倒される事や憎まれる事に慣れすぎて、初対面の相手にこういう対応をされる事に慣れていない。


「それで、俺の鼻を折りに来たんじゃないのなら何の用だ?」


 そんな言葉に若者が調子を整える様な咳払いの後、恐る恐ると言う様子で口を開いた。


「あー、その…………」


 言葉を選ぶ様な表情で、若者が僅かに言い淀む。


 いや、違うな。恐る恐ると言うよりは、興味を隠し切れないと言った様子だ。かつて黒魔術の事を聞いてきたクルーガーも、似た様な表情をしていた。


 若者の眼が此方を真っ直ぐに見据える。


「あんた、“黒魔術”を使うから野生のカラスが肩に留まるって本当か?」


 幾らか口が開いた。


 比喩や意味を読み取ろうとして、少しして言葉通りの事しか聞いていない事に気付き、思わず相手を見つめ直す。


「そんな事を聞きに、此処まで追ってきたのか?」


 肩にカラスが留まる噂は本当なのか。それを本人に聞く為、わざわざ原生林で独り歩いている俺の背中を追い掛け、黒羽の団で悪名だらけの俺に話し掛けたというのか?


 そんな俺の言葉に、若者が口を尖らせる。


「そう言われても仕方無いだろ、あんたは有名人なんだ。言っちゃ悪いが評判も良くない、人前であんたに話し掛けるだけでも口煩い友人から何言われるか分からないからな」


 親の悪口でも溢している様な口調のまま、友人の“口煩い”様子を思い出しているのか相手が苦い顔を見せる。


 何というか、軍に入ったばかりの訓練生の頃を思い出す仕草だ。


 こういう言い方は普段しないが、若いの一言に尽きる。身体だけでなく、精神も。


 何とも言えない顔で、そんな様子の若者を眺めていたが相手が答えを待っている事に気付いた。


「どうしてそんな事が気になる、カラスが好きなのか?」


 そんな俺の言葉に、相手が不思議そうな表情を見せた後に少し頬を掻く。


「いや、確かにカラスは子供の頃から大好きだ。狡猾で、獰猛な上に賢いしこの団の象徴でもあるからな。だが…………」


 言葉を濁し、自身は隠しているつもりだろうが視線が不安げに揺れた。


 何の役職を引き受けているのかは知らないが、諜報員には余り向かないな。


 それだけは確かだ。


 若者が、口を開いた。


「狡猾と知恵の象徴でもあるカラスが、曰く付きのレイヴンの肩に留まるってさ、その………凄くクールだろ?見てみたいんだ」


「何だって?」


 思わず言葉が出た。クールだって?


 肩にカラスが留まる男がクールだから見てみたい?そんな理由で、俺に話し掛けてきたのか?


 裏の意味や比喩、皮肉という訳でも無さそうだ。あってくれたらまだ良かったが。


「それに別のクールな噂も聞いてる。あんたは、最高幹部達からの直属の命令で動く………レガリスが傾く程の、“怪物”だと」


 目の前の若者が、正しく子供の様な眼で此方に聞いてくる。


 こう言っては何だが、興味津々でアメジカにゆっくりと手を伸ばす、子供の様な純粋な眼だ。


 成る程。友人から“口煩く”言われる訳だ。


「……期待している所、済まないがカラスが肩に留まるのはただの噂だ。童話を読みすぎた奴等と、想像力溢れる腰抜け達の妄想さ」


 こういう時は、深入りさせないに限る。


 別に失望させたい訳じゃないが、こいつのお陰で“カラス使い”なんて異名が広まっても困るからな。


 異名など、今更か。


 そんな風に内心で皮肉を溢していると、相手は「噂?」と拍子抜けの様な顔をしていた。


 此方も、「噂だ」と丁寧に返す。


 黒魔術だの悪魔だの言われている俺に、まさかクールだの何だの抜かす奴が居るとは思わなかったが、面倒事は避けるに限る。


 正直言って道を聞いただけで訓練場で斧を振るう羽目になったり、肩のカラスのおかげで悪名が知れ渡ったり、レイヴンの女に危うく肋骨や鼻を折られそうになったりと、任務以外での面倒事はそろそろ打ち止めにしたい所が本音だ。


「生憎、俺はそんなクールな男じゃないんだ。幾つかの噂には覚えがあるし、面倒な事になってるのは否定しないがな。言っておくが、“怪物”とやらも噂好きな連中が好き勝手言ってるだけだ。これがクールなら屍肉を漁るヘビクイワシなんて、バラクシアで最もクールでスタイリッシュな生き物だろうよ」


 丁寧にそう返すと、目の前の若者は残念そうな表情を何とか隠そうとしていた。


 余り演技派では無かったが。


「俺は“クールなカラス使い”でも“クールな怪物”でもないんだ。期待に添えず、すまないな」


 俺は目の敵にしないでくれるのは有り難いが、それを抜きにしても俺は本来歓迎されて良い立場でも無いんだ。


 関わらないに越した事は無い。こんな黒魔術を使う様な、裁かれるべき男には。


 カラスの記憶が脳裏を過り、左手の痣に意識を集中させる。頼むから、今だけは来るなよ。


 言い訳してる途中にカラスが肩に留まる、なんてのは御免だ。


「いや、良いんだ。そっちは何も悪くないしな、ただ俺は噂の…………」


 目の前の若者が自身を納得させようとしつつ、言葉を紡いでいた途中でふと眼を剥いた。


 正しく眼を疑う、と言わんばかりに。


「どうした?」


 若者の視線を追う形で振り返り、そして若者と同じく眼を剥いた。


 思った以上に静かな羽音を立てながら、シマワタリガラスが樹木に留まる。


 これだけなら、取り立てて騒ぐ様な事でも無かっただろう。


 問題は俺を取り巻く周囲の樹木に、偶然では説明出来ない数のカラスが留まって居るという事だ。


 そしてその全てが、明らかに俺に注目している。


 願いが通じているのかは知らないが、カラス達は遠巻きに眺めるだけで肩にも留まらず、俺の傍に寄ろうともしないのが逆に皮肉にすら思えた。


 嗚呼、畜生。結局こうなるか。


 そんな事を考えてる間に新たなカラスが羽音と共にまた一羽、ゆっくりと樹木に留まり、既に空には新たなカラスが此方に向かってきているのが見えていた。


 溜め息を溢す様にして前に向き直るも、目の前の若者の顔は目に見えて輝き始めている。


 対して此方は自分でも分かる程に、表情が苦くなった。


 もう、弁明が出来る段は既に過ぎている。今更取り繕っても、無様なだけか。


「………分かったよ、俺の負けだ」


 そんな俺の言葉に待ちきれないと言わんばかりの若者が、口を開く。


 全てを、察したらしい。


「じゃあ、やっぱりあんたは本当に……」


 羽音が聞こえる中、長く息を吐いた。


 諦めにも似た感情の中、微かに暖かい左手を樹木に留まってるカラスに向け、誘う様に舌を幾度か小さく鳴らす。


 誰に教えられた訳でも無いが、カラス達が待機を命じられた犬の様になっている事は分かっていた。


 視線と意識を向けていたカラスの一羽が、俺の合図を聞いた途端に翼を広げて飛び立つ。


「言っておくが“クール”な話なんて期待するなよ」


 カラスの鳴き声が、辺りから聞こえ始める。







「何が聞きたい?」


 羽音と共に、呼び寄せたカラスが自身の肩に留まった。

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