第62話

 クラウドラインに乗るのも、考えてみれば随分と久し振りな気がした。







 夜空の中、吊り下げ式列車“クラウドライン”に揺られつつ、ふとそんな事を思う。


 レガリスの都市部、また主要都市の各所に敷設された空中レールから、車両を吊り下げる形で運行するクラウドラインがバラクシア全土に知れ渡って久しい。


 空中レールの敷設には確かに高い費用がかかるものの、逆に言えば空中レールさえ敷設してしまえば線路どころか地面さえ無くとも運行出来るのだから、路面状況の整備が必要無い事や立体的な運搬ルートの確保等、クラウドラインには様々な利点がある。


 結果、都市部、特に工業都市を中心にクラウドラインは人々の文化に深く溶け込んでいく事となった。


 いつかはアメジカを使った鹿車も、淘汰されてしまうのだろうか。個人的には、鹿車も愛嬌があって好きなのだが。


 今回は拠点のある崩落地区から随分離れた地区という事で、なんと目的地への移動の半分以上はクラウドラインに乗る事になったという訳だ。


 勿論レイヴンが堂々と客車など乗れる筈も無く、俺が乗り込んでいる便は通常運行の列車ではなく、空中レールに機関部と貨物コンテナが幾つも吊り下げられた貨物列車なのだが。


 今、このクラウドラインの機関部で操縦している運転士は、まさか自分のクラウドラインにレイヴンが乗り込んでいる等とは夢にも思っていない。


 前回の庭園の際の事故に関しては協力者に落ち度が無いと分かっては居るが、情報漏洩や離反を再度鑑みて今回は協力者が要になる様な侵入方法は取らず、完全に此方だけの独立作戦となった。


 故に、今回は内通者の離反や漏洩といったリスクを極力排除し、融通した空コンテナの中で待機したまま運行される様な事もなく、あくまで此方が一方的かつ隠密に貨物線のクラウドラインに乗り込む事になった結果。


 この為に用意された専用フックとベルトによって、俺は吊り下げられた貨物コンテナの真下に更にぶら下がる形で移動する事となった。


 幾ら何でも、もう少し方法があったと思うのだが。


 最近は貨物の検問も厳格化しているらしく、コンテナの開閉を伴う潜入法は却下されたらしいが………それにしたって、随分な方法だ。


 専用フックでコンテナ底部の金具と自分のベルトを連結しているとは言え、真下に空が広がっている光景は肝が冷える所の話ではない。


 理屈では分かっていても、このフック一つ、ベルト一本不具合が起きるだけで、下手すれば俺は音も無く空に落ちていき、この世界から居なくなってしまうのだと思うと、随分な扱いだ。


 靴紐でも締めるかの様にこの潜入方法を説明していたが………貨物列車の勢いに揺さぶられながら、真下に広がる夜空を眺めるのを奴等は少しぐらい想像した上で言ったのだろうか。実質的に上手く行っている内は、何とも言えないが。


 奴等に、このフックを掛ける為にコンテナの側面や底面をぶら下がる様に移動するだけでも、どれだけ肝が冷えるか是非とも教えてやりたいものだ。


 自分は今回、失敗すれば切り捨てられるだけの存在なのだと、改めて再認識せざるを得なかった。


 そんな事を考えていると汽笛が聞こえ始め、幾ばくか列車の速度が和らぎ始める。


 漸くか。何一つ自慢にならないが、臆病な奴ならここまでに二回は吐瀉物を空に振り撒く羽目になっていただろうな。


 速度が和らぎ始めたクラウドラインがどんどん速度を落としていき、穏やかに感じる程の速度まで落ちた辺りで、一際大きく揺さぶられる。


 ベルトとフックで繋がっているとは言え、反射的に傍の手掛かりを掴んだ。氷を呑んだ様に背骨を冷たい物が駆け抜けていく。


 やたら寿命の縮まる列車旅行も、どうやら目的地に到着したらしい。


 想定通り貨物駅には疲れた顔の作業員が集まっており、貨物駅に用意されたディロジウム駆動のクレーンや同じくディロジウム駆動の工業機械を使い、貨物コンテナを取り卸しているのが見えた。


 まだこのコンテナは宙に吊るされたままだが、どうやら先頭の列車を含む幾ばくかのコンテナは取り卸し作業の為にも、貨物駅の地面の上で揺れている状態らしい。


 コンテナの手掛かりに片手を掛け、足も段差に押し付けたまま、空いた手で身体とコンテナを連結しているフックを静かに外し、移動を始める。


 手を滑らせたら死ぬ様な、似た様な事はレイヴンとして日頃からやっている筈なのだが、ここで手や足を誤って滑らせたら音もなく虚空に消えて行くのだと思うと、何故か意思とは無関係に鼓動が早くなるのを感じた。


 しっかりしろ、しくじれば死ぬのは別に今に始まった事じゃないだろ。


 少しずつ、手と足を動かしながら這う様にしてコンテナの側面に移動し、静かにコンテナの上部によじ登る。


 今正にこのコンテナを吊り下げている空中レールに少し目を配りながらも、改めて作業員達の動きを見つめた。


 どうやら先頭から少しずつ貨物を卸しているらしい。先頭のコンテナを取り卸してはその次のコンテナをクレーンの前に移動させている様だ。当然ながら、次のコンテナを移動させる毎に自分の乗ったコンテナを含む貨物コンテナの列全体が、揺れと共に前に進む。


 コンテナ取り卸しの為に車体やコンテナの列全体が停止した瞬間を見計らい、コンテナからコンテナへと跳び移る。膝を柔らかく使い、着地の音を抑えながらコンテナの列を辿る様に移動していき、コンテナの列を貨物駅の地面の上まで辿った辺りで静かに地面に降り立つ。


 足の下の地面を踏み締める。やっている事はいつもと変わらない筈だが、やはり地面はあるに越した事は無いな。


 取り卸し済みのコンテナや新しく積載する予定であろう貨物コンテナ、他の工業用重機等の影から影へと渡り歩く様に移動していく。


 作業員が想定よりも多く来ていた事には少し苦労したが、想定していた貨物駅近辺の人気の無い街道及び路地に、誰の目にも止まる事なく無事に辿り着く事が出来た。


 少し息を吐く。取り敢えずは、一段落か。


 肩を回し、レイヴンブーツの履き心地を改めて確かめる。


 革のガントレットに装着されたスパンデュールとラスティを確認し、腰に下げたリッパーの柄に触れ、取り出した伸縮式スティレット“ヴァイパー”の飛び出した刀身を確かめ、またグリップの中に格納してから腰の後ろに収納する。


 最後に左手の痣を革手袋越しに蒼白く浮き上がらせ、左手を握り締めてから手近な路地の壁によじ登った。





 屋根を踏み締める。この辺りはクラウドラインが発達している事からも分かる様に、工業都市の側面が強い。


 民家一つ取っても複数階層の建築物が立ち並び、主要道路の路面には線路が蔦の様に伸びている。


 更には建ち並ぶ街並みに網を掛ける様に、スチームパイプが建物や屋根に枝葉を伸ばしており、技術水準が高い事を街並み全てが物語っていた。


 勿論、大修道院へ向かう時も街並みに線路は走っていたし、スチームパイプも建物を伝う様に伸びてはいたが…………この辺りの街並みは段違いだ。


 建物同士が高階層で連結している様な建物も多く、大型の工業機械を含めて都市全体が立体的に造形されている。ここから見えるだけでも、ディロジウム駆動らしき大型の産業機械が作業に従事しているのが幾つも見える。


 単純な仕組みに見えるが、人の手を離れても反復に留まらない動きをしている所を考えると恐らくは、あの産業機械には階差機関が組み込まれていると見て間違いないだろう。でなければ、あの様な複雑な挙動を安定して繰り返せるとは思えない。


 階差機関、か。


 都市連邦バラクシアの中でも首都とされるレガリスは、元々工業を基礎とする工業都市でもあった。


 最新鋭の工業技術と産業があったからこそ、バラクシアの中でも当時随一の技術力を手にし、見事首都として君臨する事が出来たのだ。


 バラクシア全土に蒸気機関が完全に普及し、ディロジウム駆動でさえ一般的な物になったこの現代において、都市連邦バラクシアの内部でもレガリスのみならず、ニーデクラやキロレン、リドゴニアに勿論ペラセロトツカでさえ駆動機関は其処ら中にあり、日夜唸りを上げている。


 だが、階差機関となるとそうは行かない。


 帝国軍に居た頃、一度だけ階差機関の構造図面を見た事があったが、俺に言わせて貰うなら“どれだけ暇でもこんな難しい事は考えない”というのが本音だった。


 人類は探求と計算の末、蒸気と歯車の噛み合い、そして数列によって“計算する機械”や“判断する機械”を産み出した。


 レガリスひいてはバラクシアの技術の結晶、人類の叡智。それが複合型演算機関、“階差機関”と呼ばれる次世代の機械。


 数十年前、数学者カルロス・ブリジットが開発した計算機構は、緻密な計算の末に産み出された網目の様な歯車によって構成され、当時は“演算機関”と呼ばれていた。


 計算し、判断して答えを算出する機械に当時の人々は目を剥いたそうだがきっとその連中はその十数年後、目玉を取り落としただろう。


 奇才とも天才とも呼ばれ、執念とまで呼ばれた晩年のカルロス・ブリジットの研究によって、同じくブリジット氏から開発された“両極性回転軸”と“穿孔式制御板”が演算機関と組み合わされ、現代に至るまで人類の叡智と呼ばれる複合型演算機関、“階差機関”を完成させたのだから。


 話によればこれで更に様々な事を機械に判断・演算させる事が可能になるらしく、演算機関よりも更に技術は進歩したそうだ。


 レガリスの帝国軍においても、浄化戦争が激化の一途を辿っていた時期、帝国の学者どもが集まって階差機関を組み上げ、“完全自律戦闘兵器”を作る計画が立ち上がった事があった。


 階差機関に様々な判断をさせた末に、神経ごと直に繋いだ鳥類を中に組み込み、“線路もケーブルも無い場所であろうとも、自分で判断して戦う駆動機械”を発明しようとした、らしい。


 ……実際には、鳥が命令を聞かない、鳥の神経と機関を繋ぐ機構とやらが上手くいかない、階差機関も計算外が多発する、と見事に頓挫して終わった訳だが。


 結果、帝国軍は莫大な予算をかけて、哀れな鳥類を数えきれない程切り開いて解剖し、生きたまま機械に繋いで、蒸気を噴出させながら手足をばたつかせる“転ぶ機械”を作っただけに終わった。


 こういう言い方は余りしないが、“人類には尚早だった”って事だろう。


 気送管が張り巡らされようとも、電話が発明されようとも、階差機関で機械が唸りを上げようとも結局は、戦って剣を振るうのは人間だと言う事だな。


 しかし階差機関は置いておくにしても、工業が発達したお陰で都市が立体的なのはレイヴンには有り難い話だ。スチームパイプは手掛かりや足掛かりに、敷き詰めた様な屋根や屋上は文字通り道となってくれる。


 問題があるとすれば、普段から立体都市に慣れ親しんでいる民衆達は“上下を意識しやすい”という事だ。


 普段、人間の意識というものは何か無ければ上下を向く事は少ない。物や道を探す時にもまず左右を見渡す事からも、それは明確だ。


 左右を見渡して何も見つからず、仕方無しに上も見てみるというのが、普段の人間の動きと意識だ。


 だが、日頃から上下に道が走っている立体都市に住んでいる人間は、左右と同じ様に上下にも目を振る様になっている。


 結果、普段なら頭上を駆け抜ければ済む様な状況でも、幾ばくか相手が上を向いて此方を見つける可能性も少なくない、という事だ。


 屋上と屋根を辿り、自らを投げ込む様にしてスチームパイプの間を抜け、重力を騙す様な動きで壁を駆け上がり、重力が此方に気付いた辺りで壁を蹴って手掛かりに跳び移る。


 そして斜面になっている屋根を静かに滑り降りていると、遂にライフルを手にした歩哨を見掛けた。


 この立体的な都市部では監視用の足場を増設する必要がそれ程無いのか、屋上から屋上を時折繋ぐ程度の通路が増設されているだけらしい。


 帝国軍が増設したとは思うが………実質、あの歩哨はギャング“ブージャム”のメンバーと思う方が自然だろうな。


 佇まいと言うものはあるものだ。帝国の剣を下げていても、憲兵の服を着込んでいても、顔つきや視線の配り方が憲兵のそれとは僅かに違っている。


 やはり、ブージャムの構成員だ。


 憲兵だから殺すのを躊躇う理由は無いが、過激派で知られるブージャムの構成員となれば、尚更殺すのを躊躇う理由は無い。


 歩哨の背中方面に回り込む為、歩哨を軸にした円を描く様に屋上と屋根を静かに渡り歩いていく。


 多少遠回りにはなるが、今ここで見つかるリスクを考えればどちらを取るかは言うまでもない。


 まだ、時間は十分にある。


 少し時間はかかったものの、何とか歩哨の死角側に回り込む事が出来た。今の所、あの歩哨が振り向いたり、急に動き出す様な気配は無い。


 何も起きない日常において、警備兵が高い意識を保つのは骨が折れる仕事だ。だからと言って、見逃す理由には何一つならないが。


 ヴァイパーの刀身を突出させ、刀身がロックされるのを確かめてから、回り込んだ背中に静かに忍び寄っていく。


 気が変わったり、気取られたりして振り向いた可能性も踏まえて、右手でヴァイパーを握り締めたまま左手ではスパンデュールを構え、静かに歩哨に歩み寄っていく。


 遂に切っ先が届く距離になったが、振り向く気配は微塵も無い。右手から、左手にヴァイパーを持ち替える。


 万が一悲鳴を出す事に備えて右手で相手の口を抑えると同時に、左手のヴァイパーで背中から心臓を突き刺した。


 肋骨と肉を掻き分ける感触と、臓器を貫いた感触が刀身から手に伝わってくる。


 歩哨は少しばかり暴れようとしたのかも知れないが、結果的に手を幾らかばたつかせて持っていたクランクライフルを取り落としただけだった。


 歩哨から生命が消え、指先一つ動かなくなったのを確認してからヴァイパーを背中から引き抜き、身体を静かに横たえる。


 未だ吹き出ている血を避ける様にしながら、歩哨の服で刀身を拭った。


 歩哨から抜き取ったヴァイパーの刀身をグリップの中に格納し、腰の後ろに収納する。


 少し息を吐いてから、増設された通路を静かに渡っていく。レイヴンから防衛する為に作られた通路を、レイヴンが渡るのも皮肉な話だ。


 結果、万全とは行かずとも移動術を使うレイヴンからすれば、通常の屋上と屋根が更に歩きやすくなっただけに過ぎない。


 階段を上がる様な容易い道を幾ばくか進み、通路が無ければ勿論端から端へと跳ぶ。建物と建物をケーブルで繋いでいくかの様に跳び移りながら移動していると、遂に今回の目的地、イステルの研究所が見えてきた。


 資料で見た通りの、城塞の様な研究所がそこにはあった。


 高台から見下ろしているだけでも厳重さが伝わってくる警備と人数。警備しているのは見た目からしてもブージャムのメンバーだろう、クランクライフルとまでは行かずとも恐らくはディロジウム拳銃……レバーピストルぐらいは皆に行き渡っていると見て良いだろう。勿論、クランクライフルを持っているメンバーも居るには居るだろうが。


 レバーピストルはクランクライフルと同じく、変形したディロジウム薬包を排出する機構を備えた拳銃だが、クランクの様な物はついていない。


 机の角や、自分のベルトに引っ掛けたり押し付けたりして、レバーを強引に引く事によって金属薬包が排出される。この方法は言うまでもなく、強い力が必要になる。


 クランクライフルがクランクを回していけば直ぐに排出出来るのに比べ、レバーピストルはまだまだ体格差や個人差によって、薬包の排出に無視できない時間がかかる。


 クランクライフル程、レバーピストルは連発が利かない筈だ。最も、一発目を撃たれる速度には何一つライフルと代わりは無いが。


 憲兵の相手にする時と同じく、気は抜けないな。当たり前と言えばそれまでだが。


 イステルの研究所自体は大型なだけでなく、複数階層から成っており研究所の傍には薬物原料の畑も併設されている。資料によれば地下室も備えられている筈だ。


 広い屋上の一部には、ガラス張りの庭園の様な施設も見える。恐らくはあれも栽培場だろう。


 そしてそれらを大きく囲んでいる、鉄格子の様な鉄柵。


 古風だし、時代遅れと呼ぶ者も居るだろう。だが、レイヴンに対しては非常に厄介な代物だ。


 ナッキービルの庭園、ガルバンのパーティの時の背の高い垣根と同じ。乗り越えるには時間がかかるし目立つ、その上寄りにもよって鉄柵の上端には槍の穂先みたいな鋭い突起が幾つも光っている。


 意匠はインテリアのつもりでデザインしたのかも知れないが、レイヴンには“実質的に”厄介この上無い。


 柵と壁と近ければ屋根の上から柵の内側へ飛び込む作戦もあったのだろうが、一番近い屋根から全力で跳んでも辛うじて上端に手がかかるかどうかと言った所だろう。着地の衝撃は何とか逃がせるだろうが、そもそも内側に届かないのでは話にならない。


 大体、上端の時点で掴むのを躊躇う程に鋭い突起が並んでいるのだ。そんな所に落下する勢いで跳び移ればどうなるかなど、言うまでも無い。レイヴンの串刺しとして観光名所にされるのは御免だ。


 やはり乗り越えるよりは正門か裏門を潜るしか無いだろうが、正門は勿論の事、裏門も含めて資料が想定していた以上の警備だ。たまには想定“以下”も起こってくれても良いと思うのだが。


 さて、どうしたものか。


 元々は裏門の警備を数人排除すれば、隠密性を保ったまま中に入り込めるという算段だったが………よりによって、倍近い人数が彷徨いている。しかもその一人一人が離れた距離で歩き回っていると来た、これは流石に厄介だぞ。


 偶然集まっているだけなら少し待つのは吝かでも無いが、どうやらそういった様子も無い。


 革のフードに覆われた頭を掻く。


 正門に目を向けるも、元々正門の警備を隠密に抜けるのは難しいとして裏門を通るルートを想定していたのだから、警備が増員されている中、尚更通れる訳が無い。


 警備メンバーを何人も切り捨てて突撃すれば、研究所には入れるだろうが……きっと研究所からも、溢れ返る程の増員が湧いてくるだろう。


 幾ら青タバコ製造を指揮しているとは言えイステル本人はまだマトモな筈だろうし、マトモならそんな騒ぎが起きればまず警戒する。それこそ、心当たりなど幾らでもあるだろうしな。


 そして、警戒されたらイステルに辿り着く事もイステルに吐かせる事も難しくなる。


 皮肉な事に、アキムからも“派手にやれ”とは言われている。俺がここでブージャムのメンバーを次々に切り捨てながら、血塗れになりながら研究所に突撃する様な羽目になれば、それこそアキムの命令にはとても忠実に従った事になるだろうな。


 個人的には好みでは無いが今回は一応乱戦用に、バネ式ディロジウム手榴弾も幾つか用意している。


 これで纏めて排除しつつ撹乱し、そのまま突撃していく方法も取れなくは無いが………当然ながら、隠密からは欠け離れた作戦となる。


 イステルを吐かせる事も考えれば、研究所内部に潜入してイステルに出会うまでは穏便に行きたかったのだが、そうも言ってられないか。


 腰のポーチからディロジウム手榴弾を取り出して安全ピンを抜き、巻いた位置に応じて炸裂までの秒数が刻印されている時限ゼンマイバネを巻こうとした辺りでふと手を見つめた。


 ゼンマイバネを全く巻いていないまま、ディロジウム手榴弾に安全ピンを差し戻す。


 手榴弾を腰のポーチに戻し、左手を見つめる。


 この力を使って、あの突起付きの鉄柵を飛び越えられないだろうか。


 あの打ち出される様な力を使えば、40フィート以上の距離を殆ど直線的に移動する事が出来る筈だ。


 放物線にすらならずに移動したあの力の事を考えれば、ほぼ間違いなくあの柵の内側に入り込む事が出来るだろう。


 今のままではどうあっても門から入る時点で大騒ぎする様な作戦しか取る事が出来ないが、この奇妙な力を使えば少なくともディロジウム手榴弾を使うよりは、隠密性を保ったまま研究所に接近する事が出来る。


 あの時は大して意識しなかったが、今考えればクルーガーの言っていた「塗り潰した様に消える」「キャンバスを突き破る様に現れる」という言葉からも、あの鉄格子の様な塀を抜けるとなれば尚更都合の良い話だ。


 幸いにも、鉄柵のど真ん中を抜けようとする奴が居るとは思われていないらしく、裏門からも正門からも遠い鉄柵の付近は、警備が疎らだった。


 決まりだな。


 鉄柵から一番近い屋根を目標に定めながら手近な屋上へ跳び、途中のスチームパイプを踏む様にして弾みを付けて更に高い手掛かりに飛び付く。


 直ぐ様屋根の上に身体を引き上げては屋根と屋根を繋げていく様に跳び、時折増設された通路を渡り、連なる屋根の上を駆けていく。


 レイヴンマスクのレンズ越しに見える世界は、どこまでも路面を歩く時とは違っていた。屋根は道になり、壁は足掛かりになり、パイプは段差になり、通路が増設されていない屋上でさえ閃く様に道筋が繋がっていく。


 少しばかり時間はかかったが、辿り着いた時にも相変わらず、ブージャムのメンバー達は鉄柵のど真ん中を警戒している様子は無い。


 まぁ、あんな開けた場所で鉄柵を何とかしようとすれば、何かしら目には付くだろうしな。


 理屈で考えればそれほど奴らを責める気にはならない。今後、奴らのボスからは散々責められるのだろうが。


 今立っている場所から少し先の、俺が跳ぶ予定の屋根の端を見据えながら左手を握り締めた。指の骨を微かに鳴らす。


 左手の微かな熱からして、恐らく俺の左手の革手袋にはあの痣が蒼白く浮かび上がっているのだろう。


 レイヴンブーツで足元を確かめる様に、屋根を改めて踏み締める。


 力量と意識で距離の強弱が変化する感覚からも、飛距離は問題ない筈だ。後は、この作戦に自らの全てを掛ける覚悟が必要だった。


 レイヴンとしての初任務でマクシムを仕留める際、鐘楼から城壁の真上に向かって背筋が凍る様な距離を跳んだ事を思い出す。


 あの時、比喩でなく一歩間違えば俺は死にかねなかった。だが恐れ過ぎる事もなく、熱意で誤魔化す様な事もなく、どこまでも俺は冷静になっていた。


 あの感覚だ。あの研ぎ澄ました刃に顔を映している様な、あの澄み切った感覚。今こそあの感覚が必要だ。


 少しではなく、深く、深く息を吸った。時間をかけて空気を吸い、同じ時間をかけて吐いていく。


 屋根の端から全力で跳躍し、空中でこの痣の力を使う。空中で“手繰り寄せ”して、鉄柵の上を直線運動で超え、恐らくは薬物畑であろう広大な花畑の中に着地する。そこからは素早く研究所側に移動すれば、そこまで目に触れる事も無いだろう。


 好都合な事にあの辺りは警戒が薄いらしく、鉄柵を乗り越えた先には物陰や視線を遮る障害物も十分にある。それこそ、先程飽きる程見たコンテナもある。先程と違い、今になってはコンテナも物陰と同じく頼もしい味方だ。


 今、やる事だけに深く集中しろ。目の前が鮮明に澄みきっていく。瞑想にも似ているな、と頭の片隅でふと思った。


 再び足を踏み締め、手を握り締める。さぁ、行くか。


 前傾に近い姿勢で駆け出し、少しずつ身体が加速していく。視界の端の景色が少しずつ収束し始める。前傾のまま、足で地面を蹴り出す様に加速し続ける。


 屋根の端までの歩数と足を計算しながら、跳躍の瞬間に身体中で備える。


 屋根の端に足が掛かった瞬間、運動能力と経験から来る体重移動の技術を総動員し、跳んだ。


 想像よりも勢いの付いた跳躍によって数秒にも満たない時間、宙を舞う。


 重力に引っ張り始められる前に、左手を前に突き出して“何か”を指に絡め取り、全力でそれを自らの方へ手繰り寄せる。


 再び痣を焼き直されたかの様な左手の熱と共に、叩き出される様な速度で景色が後ろに流れていき、研究所の壁を見据える様な位置で徐々に落下が始まった。


 直ぐに下方を見据えて未だ前進しつつある身体の勢いから着地点に目星を付け、地面に叩きつけられると同時に転がって衝撃を吸収する。


 音は少し想定以上だったが、他は殆ど想定内に収める事が出来た。転がった勢いのまま直ぐに動きだし、物陰に入り込んだ。


 耳を澄ませて辺りを探る。


 歩哨達が突然に静かになったり、声を掛け合う様な兆候も見られない。辺りに漂う空気も、跳ぶ以前とまるで変わらない。


 万が一騒ぎになるなら、と腰のリッパーを抜くつもりだったがどうやら隠密性を保ったまま本当にここまで入り込めたらしい。


 握っていたリッパーの柄から手を滑らせる様に離し、一息ついた。


 上手く行っている。ここまでは、だが。


 頭の中に資料で見た図面を描きつつ、物陰を伝う様に研究所に近付いていく。


 騒ぎになっていない事を考えれば、今はまだ研究所内も通常業務が行われている筈だ。


 資料によればイステルは普段、上層階で勤務・生活している。今自分が居るのが地上とほぼ同一の第一階層だから、ここから数階に渡り登る必要がある。


 最初は建物の外壁を登って内部に侵入する案も想定していたが、周囲に配置されている人員が想定以上に多い。


 影になっている事を考慮しても、この状況ではマクシムの時の様には行かないだろう。あの時は多少のリスクを覚悟で外側から登る方法を取ったが、今回は周囲の人数とこの一角の壁面がそこまで死角になっていない事を含めても、内部に侵入して中から登った方が良さそうだ。


 この地点から内部に侵入する方法も、跳ぶ前に想定してあった。壁の上部に取り付けられた、換気用と思われる横長の跳ね上げ窓だ。


 其処らの奴なら文字通り手が届かない程に高い位置に取り付けられているが、勿論言うまでもなくレイヴンには容易に手が届く位置に過ぎない。


 壁の僅かな段差と、以前はパイプが取り付けられていたであろう壁の金具を手掛かりに身体を高い位置に押し上げ、跳ね上げ式の窓から内部を伺う。


 跳ね上げた窓のくすんだ反射に、微かに人影が映っている。


 眼の焦点をくすんだ反射の先に合わせていくと、徐々にぼやけていた像が鮮明になっていく。


 三人。二人はこの跳ね上げ式窓の近くに居て、一人は離れた所で紫煙を吹かしているらしい。いや、もしかすれば件の“青タバコ”かも知れない。生産品を早速味見、という可能性もある。


 何にせよ、隠密性を保ってここまで来れた恩恵か、反射の様子からしても三人とも随分と気が抜けている。窓の反射から位置関係を考えても、どうやら三人とも今はこの跳ね上げ式の窓に背中を向けている状態らしい。


 頭の中で、相手の動きを想像した。先程の歩哨を片付けた時の事を考えても、こいつらの力量はある程度は分かっている。反射から見える挙動からしても、ある程度は当たっているだろう。


 跳ね上げ式の窓から直接覗き込む。内部に入り込む事は問題ない。少し高いが、それよりも着地点が殆ど二人組の真後ろな事が問題だ。


 いや、むしろ好都合か。


 壁に張り付いたまま、ヴァイパーを取り出して刀身を突出させ、逆手に握り締める。


 物音を最小限にするべく、ヴァイパーを握っていない左手で窓枠の上部を掴み、腕一本で自分の身体を吊り上げる様にして静かに身体を部屋の中に差し入れていく。


 音も立てずに身体を滑り込ませ、少しすると部屋の内側に殆ど片手でぶら下がる様な体制になった。


 真下の二人組を見据えながら、右手のヴァイパーを握り締める。頼むから、急に動いたりするなよ。


 狙いを定めた後、手を離して重力に手繰られる様に静かに落下する。逆手に持ったヴァイパーの切っ先を、真下に向けながら。


 二人組の右手の男の鎖骨の辺りから、ほぼ垂直にヴァイパーの刀身の殆どを突き刺しながら着地する。


 左手の男が隣の男に起きた事を理解する前に左手のグローブに仕込まれたワイヤー操作で、全自動連発クロスボウ“スパンデュール”を作動させ、左手を男に向けると同時に顔面のほぼ中心に金属製のボルトを放つ。


 ボルトが眼窩の辺りから直線的に後部頭蓋骨を突き破ったのを確認しつつ、肺か心臓辺りを深く抉ったであろう右手のヴァイパーを、両膝をついた相手から真上に素早く引き抜く。


 左手の男が糸を切られた様に倒れ込む様子を尻目に、素早く三人目に駆け寄る。


 此方にゆっくり振り返りつつあった三人目に素早く近付き、ヴァイパーを大腿部に突き刺す。


 刺さったヴァイパーから手を離し、反射的に振るわれた腕を掴んで肘を捻り、同時に体重をかけながら無理な方向へ関節を押して腕の骨をへし折る。


 敵が出しかけた悲鳴を喉を掴んで圧し殺し、ヴァイパーが刺さったままの膝を蹴って片膝を付かせる。


 そして喉から手を離して肩を上から押さえつつ、左手のワイヤー操作でスパンデュールではなく革のガントレットに同じく装備されている、フルタングダガーの“ラスティ”の柄が跳ね上がる様な動作で飛び出してくるのを逆手で掴み取った。


 苦悶の顔をしている敵の喉に、逆手に持ったラスティの刃が押し当てられる。


 「質問をする」


 俺のそんな言葉に、敵が歯を剥いて小さく「ふざけんな」と唸る。


 敵の耳の辺りから口元まで、ラスティの刃先で削る様に素早く線を引いた。


 呻く様な悲鳴を聴きながら、刃先の鮮血を振り払って再び喉にラスティの刃を押し当てる。


 「質問をする」


 鮮血を頬から滴らせながらも、呻く声が何とか小さくなった。答えるかどうか考えているらしい。


 「イステルは何処に居る?」


 少し迷う素振りを見せたが、ラスティでもう一度線を引いてやろうとすると「待て」と小さく呟いた。


 僅かな間の後、男は素早く息を吸った。


 直ぐ様、喉をラスティで引き切る様にして切り裂くと、声になる筈だった息が泡の混じった鮮血と共に溢れ出す。


 大声を出す筈だった口は大きく開いただけで、何一つ大した声も出せなかった。


 自らが殺されようとも咄嗟に大声を出して仲間を呼び寄せようとしたのだろう、油断ならない奴だ。


 少なくとも、其処らの小銭稼ぎに夢中な帝国兵よりは、余程忠誠心があるのは間違いない。どんな理由の忠誠心かは知らないが。


 喉から濁った音を出しながら項垂れる男の頭を両手で脇に抱える様にして、勢い良く頭蓋骨を回転させる。


 鈍い音と共に弾ける様な感触が手から伝わってきて、男の頚椎が砕けたのが感じ取れた。


 期待しては居なかったが、喋るつもりが無いのなら仕方無い。上層階を探って行くとしよう。


 頚椎を砕いた三人目を抱え、周囲の気配を探りながらも先程の二人と同じく手近な便所に押し込める。完璧な隠蔽とは言えないが、少なくとも一ヶ所に集めておいた方が良いだろう。


 今はまだ騒ぎになっていないが、遂に研究所内の人間を殺した。それも三人も。長いにしろ短いにしろ、何かしらのカウントダウンは始まったと考えておいた方が良いだろう。考えたくは無いが外の人員が中の様子を探りに来て、この三人組を見つける可能性も少なからずある。


 今のところ誰かが呼び掛ける様な、所在を訪ねる様な声も聞こえない。変に静かになった様な、耳を澄まされている様な気配も無い。


 ラスティをワイヤー操作でガントレットに戻し、スパンデュールにボルトを装填し、それでもヴァイパーだけは握り締めたまま予め資料で記憶しておいた階段の方面に向かっていく。


 改装した影響か、それとも元々が洒落た構造だったのか、理由はともかくこの研究所は各階層を吹き抜けで縦に繋ぐ様な建築になっており、そこに軸を通す様に昇降機が伸びている。更に付け加えるなら、俺が今目指している階段もその昇降機に巻き付く様に伸びている。


 昇降機をまともに使うのは論外だ。かなりの音を立てる事になるし、逃げ場があまりにも無さすぎる。陽動には使えるかも知れないが、逆に言えばその程度だ。


 階段なら、立ち止まる事も駆け抜ける事も出来る。必要なら、即座に吹き抜けの方に飛び出す事だって可能だ。レイヴンからすれば、吹き抜けなどそれこそ段の高い階段程度に過ぎない。


 先程の男からイステルの現在の所在を聞き出せれば良かったのだが、こうなっては仕方無い。叫ばれでもしたら一気に此方が不利になる、単独行動している立場からしてもリスクを取るのは必要な時に留めたい。


 先程の男の様な忠誠心をブージャムのメンバー全員が持っていると仮定すると、次に発見したメンバーを吐かせようとするのは余り得策ではないな。変に叫ばれるリスクもあるし、口を割らせるにしても随分とかかるかも知れない。


 やはり、本人を直接見つけるしか無いか。


 イステルが自室のある上層階から下の階層に降りてくる可能性はどれぐらいあるだろうか。足音を押し殺しながら、そんな事を考える。


 わざわざイステル自身が下の階層に降りずともイステルの地位と権力があれば、ブージャムのメンバーに命じればわざわざ買い出し等に出る様な必要も無い。


 ルームサービスの真似事をさせられるだけの権力もある筈だ、組織にもたらす利益だけを見ても、イステルにはそれだけの価値がある。


 しかし資料を見た所、イステルは部屋に一日中籠る様なタイプには見えない。何もかもに怯えて部屋に籠って来客を許さない、そんなタイプでもない。


 恨みを買う覚えや命を狙われる覚えがある奴が禁止薬物を使い始めると、風で窓が揺れただけで心底怯えるパラノイアが出来上がる事がある。


 しかしイステルはどうやらそういったパラノイアとは無縁らしく、表の立場でも社交的な人物として知られている。


 そうなれば、部屋から出てくる可能性も十分にあるし、何なら外出する可能性だって充分にある訳だ。正に今、研究所内を歩き回っている可能性もある。それこそ、研究施設で仕事をしている可能性だってあるのだから。


 まぁ“ブージャム”として先日大きな“青タバコ”の取引をしている事からも、暫くは間違いなく外出しない筈だと調査班の資料にも書いてはあったが、万が一を考えるに越した事は無い。ここ最近の自分としては、特に。


 そんな事を考えていると、不意に耳が話し声を拾った。


 どうやら二人組が話している声らしい、ヴァイパーを握り締めながら、微かに聞こえてくる声の方角を探る。


 自分の前方の曲がり角から聞こえてくる声らしいが、問題は近付いてくるのか遠ざかっているのか。


 近付いてくるなら物陰に隠れるべきか、それとも遠ざかっているなら背後に忍び寄っていくべきなのか。


 そんな思案を廻らせながらヴァイパーを握り締めていたが、少し顔を上げた。


 声は、近付いてきている。









 会話の内容は愚痴が殆どだった。


 やれ退屈だの、青タバコを吸いながら娼婦を買いたいだの、今週末にでも飲みに行かないかだの、取るに足らない愚痴が会話の大半を占めていたが、一つだけ聞くに足る情報があった。


 「今からでもあの女の自室に戻って、“図に乗るなよ”とあの自慢げな顔を張り倒してやりたい」という言葉だ。


 図面の情報に寄ればイステルは四階に自室を持っている筈だ。そして、今からでも“戻って”という事はまず間違いなく、つい先程までその部下とイステルは自室に居た事になる。


 二階と三階を探る必要がこれで無くなった訳だ。随分とこれでリスクを減らせる計算になる。


 後は四階に侵入して、イステルを捕まえて認可証と“青タバコ”精製の帳簿の場所を吐かせれば良い。


 まぁ四階に他のギャングメンバーが居ないとは到底思えないが、順次対応していくとしよう。


 今自分が居る場所は、廊下の一角。曲がり角はあるが、他に大した障害物は無い。


 二人組はもうこの曲がり角まで視界に入っている筈だ、今飛び出していくのは絶対にまずい。かといって引き返せば、最悪この二人を見失う可能性がある。


 大きく迂回する事も出来なくもないが、もし何かの理由でこいつらが心変わりして立ち止まったり、やはり階段の方へ忘れ物を取りに行ったりしていたら非常に厄介な事になる。


 曲がり角から一気にスパンデュールを連発しても良いが、ボルトも無制限では無い。それに、曲がり角の先を覗き込む様な動きをしていないので断定は出来ないが、ボルトの射線から隠れられる障害物でもあれば、非常に厄介な事になる。


 そこに隠れたまま応援を呼ばれでもしたら、此方はその瞬間に限り、阻止する方法が無い。


 それに向こうがディロジウム銃砲の拳銃、通称“レバーピストル”を持っている可能性だってある。


 ヴァイパーの刀身を格納し、腰の後ろに仕舞う。


 曲がり角の先の気配に気を配りながら、近くの壁面に足を掛けてブーツの底の摩擦を確かめてから少し距離を取り、両腕を振って勢いを付けつつ、少しの助走の後に壁を駆け上がる様な形で出来る限り上方に高く跳んだ。


 高い天井の近くに取り付けられた頑丈な配管に、辛うじて片手の指が掛かる。軋む音を立てながらも片腕から両腕に配管を掴み直し、全身を天井に這わせる様に持ち上げていく。


 そのままの姿勢で、軋む音を立てない様に動きを抑えながら、静かに待った。


 やがて話し声と気配が曲がり角まで近付いてきて、角を曲がった二人組が冗談を言いながら平然と下を通り抜けていく。


 曲がり角でなければ、天井に張り付いた所ですぐに見つかってしまっていただろう。


 この二人は排除しておくべきだろうか。このまま通り過ぎた後に後ろから忍び寄り、ヴァイパーで串刺しにするのも策の一つではあるが、排除するなら当然ながらリスクを取る事にもなる。


 配管に張り付いている自分に背中を見せながら歩いていた二人組の一人が、興が乗ったのか身振り手振りを交えながら片方の男より歩を進め、もう一人と向き合う様に此方を振り返った。天井に張り付いた俺が、はっきりと男の眼に映る。


 あぁ、クソ。予想通りに事が進むかと思った途端これだ。


 直ぐ様配管から手を離して下に降り、素早く腰からリッパーを抜いた。


 時間にして数秒の出来事。


 いつも通りの日常。いつも通り職場の研究所を同僚と歩いていて、ふと振り返ったらレイヴンが廊下の天井の配管に張り付いていた。


 そんな唐突な非日常を突き付けられ呆気に取られる男と向き合ったまま、此方に背中を向けている男が「どうした?」と不思議そうな声音で尋ねる。


 その真後ろで、山刀を引き延ばした様な武骨な刀剣“リッパー”を大きく振りかぶった。


 無防備な相手の首に、頚椎を意識しながら全力でリッパーを振り抜く。


 確かな手応えと共に男の頭が斬り跳ばされ、鮮血の帯をはためかせながら数秒前に喋っていた頭が宙を舞った。


 深紅の噴水となった男の身体が緩やかに力を失って倒れるより先に手で押し退け、即座にもう一人へとリッパーを握り直しながら距離を詰める。


 思考と把握が現実に追い付いた男は怒号と共に、腰から拳銃を引き抜いて構えた。反応としても対処としても、標準的かつ理想的、そして想定内だった。


 ディロジウム拳銃“レバーピストル”の、撃発機構の硬い歯車を親指で巻き起こす僅かな間。


 空気に皹が入る程に張り詰めた一瞬。


 男はレバーピストルの狙いを定める為にも、大きく後ずさる様な真似はしなかった。また、同じ理由で真っ直ぐ伸ばした腕を振る事も曲げる事もしなかった。


 だからこそ、此方に真っ直ぐ伸ばされた腕は脅威であり、格好の的でもあった。


 上から下に叩き落とす様に片手で振るわれたリッパーが男の手を引き裂き、指を千切り飛ばす。


 途切れた管の様に鮮血を溢れさせる自身の腕の惨状に、苦悶と共に叫びそうになる男の喉を直ぐ様、振り下ろしたばかりの右手のリッパーではなくガントレットから逆手に掴み取った左手のラスティでかき切った。


 無事な方の手で喉を押さえ、男は指の間から血を溢れさせながら起きた事が信じられない様な顔をしていた。


 遂に怒号という大声を上げられてしまった。やはり、いつまでも上手くは行かないか。


 咄嗟にスパンデュールで狙えたらまだ何とかなったかも知れないが、天井に張り付いていた事による体勢、そして降りた際、腕や敵の位置が余りにも悪かった。無闇に撃っても、間違いなく一人目の背中にボルトが刺さるだけだっただろう。


 血を床に滴らせながら立ち尽くしている男の脳天に、勢いの付いたリッパーを薪割りの様に深々と叩き込む。


 どの程度今の声が広まったのかは分からないが、浅いにしろ深いにしろ何かの一線は確実に超えたと見るべきだろう。


 跳ね上げ式の窓から入り込んで三人を殺した時に燃え始めた導火線が、尚更大きく燃え始めたと思った方が良さそうだ。


 導火線の長さは分からないが、急ぐに越した事は無い。


 少し迷ったが、死体は近場の部屋に押し込めておく事にした。言うまでもなく、雑な隠蔽だし床の血糊も隠し切れていないが、この任務中だけでも少し目立たない程度で構わなかった。


 足早に、階段の方へ向かう。


 先程得た情報からして、イステルは四階に居る筈だ。仮に今の声や騒ぎが原因で移動していたとしても、四階の自室から探し始めれば良い。


 頭の中の地図を辿っていくと図面通り、昇降機に大きな階段が巻き付いた様な階段に辿り着いた。


 勿論昇降機は使わず、吹き抜けの中に伸びる昇降機に巻き付く様にデザインされた、石造りの階段の方を登っていく。


 リッパーは抜いておいた方が良さそうだな。少なくとも、先程の事から考えても咄嗟に相手を斬り飛ばす様な事態を考えれば、やはりヴァイパーよりリッパーだ。


 足音を抑えながらも悠々と階段を登っていく最中、上の方から降りてくる大勢の足音を聞き付けた。早足だ。明らかに急いでいる。


 止まる気配は無い、一階まで降りるつもりらしい。そして俺は三階に登る途中の踊り場に来た所だ。言うまでもなく、このままではご対面してしまう事になる。


 階段の踊り場から豪華な彫刻が施された欄干を飛び越え、吹き抜けに身を投げ出す。階段の外側、やや埃っぽい豪華な装飾に両手で掴まり、迫ってくる足音を聞きながら待った。


 程無くして大勢の足音が自分の前を通っていったが、歩調も変わる事なく通り過ぎていく。過ぎ去った頃合いを見計らって装飾に掴まりながら身体を引き上げ、踊り場の中に再び戻る。


 やはり、この任務中の刻限は迫っていると考えた方が良さそうだ。


 程無くして先程の足音の者達が、下に隠した死体を見つけるだろう。余程の馬鹿でもない限り、少なくとも血糊に目を止めるのは間違いない。暫くは一階を探すかも知れないがその内、俺がどこに向かったか気付くのは想像に難くない。


 急ぐとしよう。


 気配や音に神経を研ぎ澄ましながらも、四階へと辿り着き、リッパーを握り直す。先程の状況から考えても、いよいよここからは強行策に出た方が良い。ここで時間をかけて、一階を捜索しているであろう連中が上に戻ってきたりすれば、俺は蒸し焼きの様な有り様になってしまう。


 姿こそ見えないまでも、辺りから何人もの人員が動き回っている気配や音、そしてその反響を感じる。


 深く息を吸い、吐いた。理想としてはもう少し隠密を保ったままイステルを発見したかったが、こうなれば仕方無い。


 即興演奏と行こうじゃないか。


 足音を抑えるレイヴンブーツの性能を上手く活かしながら、素早くイステルの部屋へと向かっていく。


 廊下や通路に点在する障害物を素早く飛び越え、屋根を駆ける時の様にどんどん加速していく。


 加速を続けながら素早く移動している途中、唐突に目の前の通路の扉が開き、大柄なブージャムのメンバーが現れる。


 そして胸元で構えているのは、よりによってクランクライフル。


 「居たぞ!!!」


 咄嗟にそんな叫び声と共に、真正面から真っ直ぐに俺の胸へとライフルが向けられた。焼き付く様な照準の熱を感じ、首から胸にかけての辺りが炙られた様に熱くなる。


 鋭く息を吸った。


 照準の熱が胸を焦がし、その熱と対になる様に背筋と脳髄が凍り付く。時間が極限まで圧縮され、空中で水滴が止まる程に刹那が引き延ばされる。


 駆け抜ける勢いのまま膝と足首を使い、素早く低い姿勢で滑り込む。耳をつんざく様な銃声と、空気を切り裂く音が頭上の辺りを突き抜けていった。


 床を滑りながら、無我夢中でスパンデュールを相手に向けて放つ。弾けそうな刹那の中、相手の腹の辺りにボルトが刺さったのが見えた。


 結果の意味を考える前に二発目を放つ。更にボルトが、胸に掲げていたクランクライフルを保持する腕に突き刺さる。


 滑り込む体勢から勢いを保持しつつ立ち上がり、ワイヤー操作で直ぐ様ラスティを逆手に握った。


 相手がそれでも決死の表情で振るったクランクライフルの突きをラスティで払い、相手の顔面をリッパーの切っ先で一直線に突き飛ばす。


 突き刺さるというよりは殴り付けた様に相手の上半身が大きく仰け反り、先程開いたばかりのドアの中へと再び押し戻される様に仰向けに倒れ込んだ。


 鋭く息を切らしながら再び走り始め、胸の中の燃える様な熱を感じながらイステルの部屋へと駆けていく。


 「武器をあるだけ持ってこい、銃砲もだ」


 「もう近くに居るぞ、気を抜くな」


 走っている最中、そんな声を前方から聞き付け、走りながらもリッパーを握り締める。声の人数は二人。気配からしても、更に二人。


 リッパーを腰の鞘に収め、ポーチからバネ式のディロジウム手榴弾を取り出す。“派手にやる”タイミングだろう。


 ピンを引き抜き、円筒型の本体とその端に組み込まれた時限ゼンマイバネに手をかける。


 イステルの部屋の両開きの扉、その両脇に立っている二人のメンバー。更に周りを警戒している三人。合計、五人。予想より一人多いか。


 部屋の中の人物を気にしているらしく、二人共が部屋の中に注意を向けている。




 中に居るのが誰かは、言うまでも無い。




 不用意に作動しない様、意図的に硬く造られた時限ゼンマイバネを力を込めて巻き、バネが動き始める僅かな作動音を確認してからイステルの部屋の前へと高く放り投げる。


 緩やかな放物線を描いて投擲物がノックの様な音を立てて扉にぶつかり、扉から離れていく様に床を跳ねて転がった。


 驚いた様に扉の脇に居た男が振り返り、何度も引っ掻く様な作動音を立てながら転がっている“それ”が何かを、直ぐに認識する。


 同じ結論が出た数人が蹴られた様に身を翻そうとする。


 男が息を吸った。


 「手榴弾!!!」


 叫んだ声をかき消すかの様に、ディロジウム爆薬を充填された手榴弾が轟音と共に爆発する。


 犠牲者の命を吸い、淡い赤色に染まった煙が立ち込める中、色合いに反した焦げる匂いを嗅ぎながらその中に飛び込んでいく。


 焼けた死体が転がる中一人、背中が血塗れの男が何とか生き延びようと床を這いずっていたが、勢いを付けた足で後頭部から思い切り踏み潰した。


 見た所、先程の五人は今の手榴弾で即死、または気だるそうな声を上げながら瀕死で這いずるのが精々。端的に言えば全滅したらしい。


 イステルの自室の両扉は片方の扉こそ大きく亀裂が入っただけで何とか持ちこたえていたが、反対側は蝶番で辛うじてぶら下がっている様な状態だった。


 権力者としての共通に漏れず、イステルの自室は広く中々の奥行きがある。そして、この騒ぎなら戦闘員でもないイステルは心理的にもほぼ間違いなく部屋の奥の方へと籠ろうとする。


 今回持ってきたディロジウム手榴弾のディロジウム充填量から考えても、今の爆発で致命傷は負っていない筈だ。


 リッパーを回転させて、握り直す。


 千切れた扉の方を潜って部屋に入ると、件のイステルは木目の整った高級な机に手を着いたまま、呆然としていた。


 未だに目の前で起きている事が信じられない、と言った顔だ。


 負傷している様子は無い。よし。


 リッパーを片手に、警戒しながら歩み寄っていく。


 「成る程ね」


 納得した様な表情でイステルが肩を竦めたが、表情に無理が見える。虚勢だ。


 「ここまで攻め込まれたなら、もう否定出来ないわね。抵抗しないわ」


 そんな事を言いながら、高級な机から手を離して部屋の中を歩き始める。歩く角度が僅かに不自然だ、腰に武器を持っている。恐らくは、拳銃。


 直ぐ様イステルに駆け寄らなかったのは、正解だな。


 「誤解しないで貰いたいのだけれど、私も奴隷制度には反対なのよ。ラグラス人だって下劣じゃない人も居るし、ちゃんと私達の様に本を読める人だって居る。それを」


 「腰の後ろの武器を捨てろ」


 俺のそんな声に、イステルが顔をひきつらせながら動きを止めた。


 此方からイステルの方に歩いていくと、イステルが後ずさる。


 此方に怯えて呼吸が早くなっている、きっと動悸も激しくなっているだろう。


 「武器って?私がそんなものをどうするの?」


 会話も先程から不自然になっている。きっと何を話しているのかも半分程しか分かっていないだろう。


 俺を怯えた様に見た後、視線を下げてイステルが口を一文字に引き結んだ。


 やる気だ。


 「そんなものを持っていたって貴方達に叶う様な」


 イステルが言葉を急に鋭く切って、腰の後ろに腕を大きく回すも腕にスパンデュールのボルトが突き刺さり、悲鳴と共にディロジウム拳銃を取り落とす。


 やはりレバーピストルだったか。


 「良いわ」


 イステルが腕を庇って呻きながらも、自らの肩越しに此方を睨み付ける。


 「良いわ!!殺すなら殺しなさい、汚い劣等種が出来る事なんてそれだけよ!!私を殺す時点で、奴隷人種は私達に勝てない事が証明されるのだから!!!」


 イステルが血走った眼で喚くのを聞きながら、高級な机の横から回り込む様に歩み寄っていく。


 時間が無い、手荒に行こう。


 「こうして勝てない相手に暴力に訴える時点で、劣等種としての下劣さを自ら証明する事に」


 イステルの膝関節に直蹴りを入れ、靭帯を千切る形で膝関節を脱臼させる。


 先程の罵声に負けない程の、苦痛の悲鳴を上げながらイステルが床に崩れ落ちた。


 膝をかきむしる様にしながら、苦痛で喘いでいるイステルの髪を掴み上げる。


 「栽培認可証はどこにある」


 「脚!!私の脚が!!」


 掴み上げたまま、空いている手でイステルの顔を殴る。喚き声が途切れ、再び聞く。


 「栽培認可証はどこにある」


 「認可証?認可証が何よ?」


 再び殴る。鼻血が吹き出し、革手袋に付いた血を振って払う。


 「栽培、認可証は、どこにある」


 「地下!!地下にある!!地下にあるわよ!!!」


 鼻血で詰まる息の中、イステルが大声で叫ぶ。握っていた拳を静かに下げる。


 「地下に、認可証を保管している金庫があるの!!そこに、そこに入ってるわ!!鍵もそこの机にある!!」


 少しの間があった。拳を振り上げる。


 「嘘じゃない!!!」


 必死に懇願するかの様にイステルが叫んだ。追い詰められている事からも、本心と見て良いだろう。


 「嘘じゃないわ、嘘じゃない」


 鼻血で呼吸を詰まらせながらも、イステルが呟く。完全に心が折れたらしい。掴んでいた髪を振り払い、傍の机を漁るとそれらしき鍵の束が見つかった。束か、まぁ良い。


 クランクライフルの発砲、ディロジウム手榴弾の炸裂、そして先程のイステルの悲鳴。


 もうじき他の階層に居たブージャムのメンバー達も駆け付けるだろう、次は青タバコの帳簿の場所を聞き出さなければ。


 「もうあの女に手出しもしないわ、狙わせないから………」


 鼻血に息を詰まらせながらも呟くそんな言葉に、レイヴンマスクの中で僅かに眉を潜めた。あの女?狙わせない?


 「あの女?」


 「あの女でしょう?お前ら……貴方達を差し向けたのは」


 唾と咳混じりにイステルが呟いた。


 イステルの資料から貰っていた情報が、頭の中を嵐の様に駆け巡る。青タバコとブージャム、そして今回の件の発端になった、あの事件。


 そして今、イステルが手出ししてまで殺したい、ブージャムの連中に指示を出してまで殺したい女性。


 頭が、弾けそうな速度で回り始める。


 「ランゲンバッハが、まだ生きているのか?」


 「もうアイルガッツの連中にも手を引かせるわ、本当よ、本当だから………」


 ギャングの巣窟となっているあのアイルガッツ刑務所で、薬剤師だったランゲンバッハ女史がまだ生きている?数年も経つと言うのに?


 頭の中で様々な情報と憶測が巡り、ランゲンバッハの情報によって幾つかの前提が崩れ、組み直される。


 ランゲンバッハが未だに生きているとなれば、ただイステルの所業を光の下に引きずり出すだけでなく、本来の正しい人間に改良型のテリアカという功績を引き継がせられるかも知れない。


 そうなれば、ただイステルの首を切り落として大罪人として晒すよりは余程、民衆の支持も得られる筈だ。どのみち、メニシコフが“殺してやった方が慈悲になる”と言う程にはイステルの悲惨な破滅は約束されている。


 悲惨な目に、あってもらうとしよう。


 「もう1つ、質問をする」


 「何でも喋るわ、何でも喋るから」


 膝を抑えながら泣きそうな声でイステルが言う。


 「“青タバコ”の利益の帳簿は?」


 「帳簿?」


 少し、間があった。イステルの眼の奥が揺れる。


 脱臼した膝関節を直ぐ様踏みつけると、此方の耳が痛くなる程の悲鳴が再び上がった。


 「帳簿は、何処にある」


 踏みつけている足を離すと、イステルが泣き叫びながら嗚咽を溢す。


 もう時間が無い、早く吐かせなければ。いつこの部屋にブージャム達が押し寄せてきても不思議じゃない。もう何処からかざわめきが聞こえてきている。


 こいつも、それを理解している。


 「帳簿の場所を言え」


 「帳簿なんて無いわ!!!」


 泣き叫びながら、それでもイステルが叫ぶ。

 思い切り膝を踏みつけ、右手で絶叫しているイステルの耳を掴み上げて、左手にラスティを掴み取る。


 根元から、耳を削ぎ落とした。


 血塗れで絶叫するイステルの髪を掴み上げ、声を張り上げる。


 「帳簿は!!何処にある!!」


 「地下よ!!!地下室の絵画の裏!!!」


 掴み上げたイステルの顔に肘を叩き込み、鼻の砕ける音と共にイステルが倒れ込んだ。


 気絶したイステルを尻目に高級な机に手をついて、跨ぐ様に素早く飛び越える。


 この四階から地下室まで直ぐに降りる必要がある、出来るだけ素早く、迅速に。


 スパンデュールのボルトを装填しながら、部屋から飛び出す。


 イステルに“質問”している最中も聞こえてきていたざわめきが、一気に近くなってきていた。


 頭の中を無理矢理に回転させる。


 考えろ、考えろ。


 俺はこの建物を駆け降りるしか無い。奴等は同じ建物を登ってくる。


 吹き抜けを飛び降りるか、いや、奴等は既にこの階層の階段の辺りまでは辿り着いている筈だ。吹き抜けを飛び降りた所でピストルの的にされる。それに階段まで辿り着けるかどうかも分からない。


 何処かに隠れるか。駄目だ、奴等の縄張りで奴等が諦めるまで隠れるのは無理がある。クローゼットに隠れる訳にも行かないし、奴等が諦めるまで隠れられるとも思えない。


 どのみち、外の正門や裏門に居た連中までこの中に駆け込んでいる筈だ、あの人数を真正面から相手に出来るとは思えない。


 そう考えた瞬間、鋭く高い音と共にレイヴンブーツが床を噛んで止まった。


 1つの考えが、頭の中で組み上げられていく。









 夜の冷気が、風に乗って容赦なく身体に吹き付ける。レイヴンとしての革の防護服が無ければ、随分と肌寒く感じていただろう。


 工業都市の夜の街並みが、こんな騒ぎとは無縁の様に煌めいている。遠くまで届く街並みの光が、少し眩しく思えた。


 正門に裏門、加えて言えばあの鉄格子の様な鉄柵の内側にさえ、ブージャム達は見当たらなかった。


 慎重に足先と視線で降りる先を探りながら、必要な時には各所で全身を使い、跳ぶ。そして跳んだ先で手掛かりを掴み身体を叩き付けられるも、出来る限り音は抑える。


 当初から研究所の外壁を登るルートは想定していたが、予定していた壁面とはまるで別方向の壁面な上、登るのではなく降りている為に、随分と苦労していた。


 あのブージャムの大群が今にも押し寄せて来ようという瞬間、咄嗟に駆ける方向性を変えて地図で予め目星を付けていた部屋に飛び込み、窓を抉じ開けて研究所の外壁に飛び出したのは正しい判断だったらしい。


 最初、外壁を登る事を断念する理由となった正門や裏門の周りを彷徨いていた連中も、今では研究所の中で血眼になって俺を探している。


 想定していた侵入方法の1つが、まさか脱出方法になるとはな。


 厚い壁の向こうから、微かにざわめきが聞こえてくる。奴等が四階、そして三階辺りを暫く探してくれると助かるんだが。


 研究所が随分と大きな造りのせいで、四階から降りるだけでも随分と苦労した。民家の四階から降りるのとは訳が違う、何せそれぞれの階層が随分と大きく造られている為に天井も高く、結果的にかなりの高さを降りる事となったのだから。


 漸く降りられた地面を深い息と共に少し踏み締めた後、リッパーを回転させて握り直し、今度は真正面から研究所に入っていった。


 研究所の中、一階はまるで人気が無く高く遠い上層階から微かに騒ぎが聞こえる程度だ。


 どうやら、本当に人員の殆どが四階近辺に集中しているらしい。


 それでも油断しない様に自らに言い聞かせ、念入りに気配を探りながら昇降機付きの階段に向かい、研究所の地下へと降りていく。


 地下は少し湿っている様な匂いがしたが、それなりには手入れされてるらしく不潔な空気が漂っている様な事は無かった。どうやら地下室は研究所の一部ではあっても、研究施設としては使っていないらしい。


 幾つか小さな扉を潜り、何やら煉瓦造りの薄暗い地下道を進んでいくとディロジウム灯に照らされた書斎の様な場所に出る。


 蔵書が詰まった本棚が幾つか、書斎にお誂え向きの机、壁に埋め込む様式の大きな金庫、そして壁には大きな絵画が掛かっていた。


 金庫には古い造りの錠前が付いている、これがイステルが“教えてくれた”金庫の鍵か。鍵の束から幾つかの鍵を試そうとしたが、束の中に取り分け古い造りの鍵が1つあった。


 取り敢えずそれを差してみると、固い手応えと音を立てながら錠前が回る。


 分かりやすい鍵で助かった。上層階でブージャム達が騒いでる中幾つも試す事を考えれば、簡単に済むに越した事は無い。


 金庫の中にははち切れそうな程に金貨が詰まった箱が幾つかと純金と純銀のインゴットがそれぞれ数本、そして文書入れに入った封筒。


 中身を一応確かめるも、中身は期待を裏切らず帝国の印が押された栽培認可証が入っていた。丸めて専用の文書ケースに入れ、腰の後ろに仕舞う。言うまでも無いが、金貨とインゴットには殆ど触らなかった。


 目標の一つ目を確保。思えば、この紙切れ一枚で何れ程の人間を痛め付け、殺した事か。


 まぁこの紙切れのお陰で、ブージャムがどれほどの人間を堕落させ死に追いやったかを考えると、至極当然の因果の様な気もするが。


 さて、もう1つの目標も確保しておかなければ。


 早速絵画を外そうとするも、随分と頑丈に取り付けられている。何だこれは、何処か錆び付いてるんじゃないのか。


 そこまで考えた時に、随分な既視感を感じた。そう言えば前にも、こんな事があったな。


 少し辺りを見回す。


 蔵書の本棚のガラス戸には埃が積もっている。ここではなさそうだ。


 机を探る。特にそれらしい物は見当たらない。


 机という訳でも無いらしい。


 ふと、壁に埋め込まれている金庫に振り返った。開いている金庫の扉を更に大きく開き、中を覗き込むと目当ての物が見つかった。


 色の塗られた、大きなボタン。


 レイヴンマスクの下で少し苦い顔をしながら、そのボタンを手で押し込むと削る様な擦れる様な音を立てて絵画が上に上がっていき、絵画があった場所には埋め込み式の棚が組み込まれていた。


 そして棚には、曰く付きの帳簿。二つ目の目標もこれで確保だ。


 予想より大きな帳簿を、背中のベルトに取り付けられた携行性重視の小型背囊に仕舞う。


 思ったより大きいのは誤算だったな、もう少し大きければ背囊に収まらない所だった。


 任務の目標は全て確保した、上に居るブージャム達が戻ってくる前に脱出するとしよう。


 一応リッパーを握ったまま、静かに地下室から再び地下道を通り一階へと戻るも、相変わらずざわめきが上から聞こえるだけだ。


 階段から離れつつリッパーを鞘に収めようかと思った瞬間、ベルを鳴らす金属音が聞こえて直ぐ様振り返った。


 昇降機の入り口に取り付けられたベルが数回鳴ったかと思えば、昇降機上部の階層表示が音を立てながらゆっくりと一階へと下がっていく。


 そして階層表示を追い掛ける様に稼働音が上から迫ってくる。


 今回の任務は悠々と帰れるかも知れない、と少しばかり思った途端にこれだ。


 走りだそうとして咄嗟に立ち止まり、残り1つのディロジウム手榴弾を取り出してピンを抜く。


 そして力ずくで昇降機の扉を僅かに抉じ開け、時限ゼンマイバネを力強く巻き、ゼンマイバネ部分と手榴弾本体を扉が抑える形にして無理に挟み込んだ。


 奴等がこの階層に到着すれば、昇降機は圧力により自動でこの扉を開く筈だ。ブージャム達が詰まった箱の正面でディロジウム手榴弾の抑えが外れて、作動する事となる。


 そして、時限ゼンマイバネが一旦作動を始めたら、バネ部分の外装を手で押さえたとしても、内部機構の作動は止まらない。


 その手榴弾で全滅してくれたら助かるが、そうも行かないだろうな。だが、痛手は追わせられる筈だ。


 深く息を吸ってから、全力で駆け出した。


 燃えている様な熱を肺に感じながら障害物を飛び越え、速度を落とさずに狭い隙間を潜り、熱が肺から首や腹筋、手足に広がっていくのを感じながら走っていると、遂にディロジウム手榴弾が炸裂する音が遠く聞こえてきた。


 研究所を飛び出し、正門を堂々と駆け抜けて市街部に入り込み、立体都市の縦横無尽に伸びるスチームパイプや段差を一息毎の判断で駆け上がり、潜り抜け、飛び越える。


 増設された通路は文字通りレイヴンの道となり、足掛かりにも手掛かりにも、勿論通路としても活用しながら立体的な市街を止まる事なく駆け抜けていく。


 研究所から随分と離れた頃、息を荒げながらも後ろを振り返り、深い息を吐いた。


 懐から懐中時計を取り出す。もうじき、今夜最後の貨物列車の便が出る。まだ余裕はあるがもし間に合わなければ、恐ろしい程の距離を徒歩で移動する事になる。それだけは避けたいものだ。


 しかしこれで少なくとも、ブージャム達はイステルの力で安定生産されていた“青タバコ”の生産ラインを失う事になる。


 イステル程の権力と能力を持ち、その上禁止薬物の生産に協力的な人物はまず居ないだろう、他の供給ラインで失った生産を補う事も難しい筈だ。


 イステルはかなり痛め付けたがまだ口を聞ける状態の筈だから、目が覚めて自分を痛め付けていたレイヴンが居なくなった事に気付けば、確実に憲兵団に被害報告を出す筈だ。腐ってもあの研究所は、レガリスから資金が出ている公式の研究機関なのだから。


 そして、裏がどうあれイステルの表の顔は改良型テリアカを発明した、医学史に名を刻もうという天才だ。


 レイヴンに散々痛め付けられ、耳まで削ぎ落とされ認可証まで盗まれた、奴等こそ真の悪魔だ、と大声で触れ回るだろう。


 しかし、黒羽の団の名が一旦底まで堕ちた後にイステルの所業を暴き出せば、イステル本人が広めた惨劇と悪名が、途端に功績と名声に反転する。


 名声が悪名に堕ちた時の失望と悲哀が深い様に、悪名が名声に反転した時の功績と正義は民衆を大いに明るく沸き立たせる。


 それに加え、今回はイステルだけでなくランゲンバッハ女史が生きていると来た。上手く行けば、ただイステルを破滅させて首を切り落とすより、真の英雄を策略から救ったとして大いに民衆の信頼を勝ち得る事が出来る筈だ。


 きっと大方はアキムの筋書き通りだろうが、それでもランゲンバッハが生きている事と、俺がイステルを殺さなかった事は予定に無かっただろう。


 自らの命運を分ける任務の結末を書き換えた結果、俺はこの任務を終えた後もレイヴンとして生きていられるだろうか。


 果たして俺は命綱を掴み取ったのだろうか。それとも自ら振り払ったのだろうか。

 曇天の中、月の見えない夜空を見上げる。









 「神のみぞ知る、か」


 一人そう呟いてから、俺は貨物駅に向かうべく再び屋根から跳んだ。

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