第4話
昔の彼女の夢を見ていた。
お陰で随分と寝覚めが悪かった。別れてもう二年近くになるのに何故、今更こんな夢を見なければならないんだ。
潔く受け入れたとは言え、別れた時に未練が全く無かったと言えば、嘘になる。だがあいつに取っては給料が半分以下に減ったのは別れるに足る理由だったのだろうし、第一もうあいつは他の男を夫と呼んでいる。
溜め息を吐き、屠殺場に出勤する為に着替え始めた。
ただでさえ週明けは気が重いというのに、昔の彼女の夢を見せるなんて、神様も悪戯が過ぎるんじゃないだろうか。
そんな中、隣の家の奴まで起こすんじゃないかと思う程の大声が辺りに響き渡る。
「ブロウズ!!デイヴィッド・ブロウズ!!我々は帝国軍の者だ!!速やかに出てこい!!」
週明けの朝っぱらから何なんだ。
無遠慮なノックの音に、着替え途中でシャツのボタンを開けたまま、頭を掻きながら二階の窓から顔を出す。
帝国軍の軍服を着た、軍人らしき二人組と途端に目が合った。二人とも腰に剣を下げ、片方は階級が隣の男より上らしく、腰の後ろにディロジウム銃砲のホルスターが見える。
「ブロウズ!!速やかに出てこい!!出なければこのドアをぶち破る羽目になるぞ!!」
相変わらず、野良犬か野鳥にでも怒鳴るかの様に大声で怒鳴っている。軍人は本当に大声が好きらしい。
仕方無い、何の用だか知らないがドアの為にも対応させてもらおう。首の骨を鳴らし、取り敢えずシャツのボタンを留めて玄関に向かう。
欠伸を噛み殺しながら階段を降りている途中になって、不意に足を止めた。
寝惚けていた頭が、急速に回り始める。
何故、ここに帝国軍が来る?昔俺が軍人だったからか?そんな訳は無い。軍に居た頃は上司の命令に逆らった事は無いし、閑職に飛ばされた時も腹いせすらした事が無い。
軍に居た頃もここ最近も、脱税や給料の不正をした事は無い。第一、自分が軍から退役したのはもう二年近く前だ。
先程の軍人の二人の格好が脳裏を過る。見たのは一瞬だったが二人とも、確かに軍服のあるべき場所に部隊章が付いていなかった。
加えて、これだけ静かな朝っぱらな上、ここらは殆ど煉瓦で舗装されているというのに、軍靴の音をまるで聞いた覚えが無い。奴等の靴は従来の一般的な軍靴では無いのは間違いない。
靴が違うという事は部隊が違うという事になる。
あの軍服の場合、履く靴は在り来たりな“勇ましい”音が鳴る軍靴の筈だ。
つまり、軍服と靴が噛み合っていない事になる。所属部隊を、隠蔽しようとしている。
所属を隠蔽する必要のある部隊など、自分が知っている内では多くは無い。付け加えるならば、その殆どが日向を嫌う連中だ。
そして、上官であろうディロジウム銃砲のホルスターを腰に吊った兵士。奴の腰のホルスターのカバーの、ボタンは外されていた。
いつでも銃を掴み取り出せる状況にあるという事だ。咄嗟に銃が必要な状況など、穏便には程遠い。
心臓が早鐘の様に鳴り、寝起きの身体には痛い程心拍数が上がる。
間違いない。奴等は、帝国軍は、俺の身柄を拘束、若しくは殺害しようとしている。それも、秘密裏に。
「ブロウズ!!!」
ドアの向こうから響く怒鳴り声で、再び現実に引き戻される。
一般的な憲兵のふりをしているのだろうが、中身は段違いの筈だ。帝国軍の暗部が、直々に俺を排除しようとしている。
背筋を冷気が滑り落ちていく。
階段を降りた後、静かに台所から手頃なナイフを手に取った。
どの辺りまで戦えるかは分からない。このまま惨めに死ぬかも知れないし、こいつらにこの仕事を引き受けた事を後悔させられるかも知れない。全ては未知数だ。
奴等には剣と銃があり、此方は元軍人とは言え前線を退いてもう二年近くになる。おまけに武器は剣でも銃でも無く、雑貨店で買える安物のナイフしかない。
武器でも負け、人数でも負けている。となれば、ここから有利な状況に持っていくには奇襲しかない。
唯一の強みは、此方が気付いていないと向こうが思っている事だ。恐らく向こうは、俺が何も気付かないまま呑気に顔を出してくるものと思っている。勿論、油断してくれるかどうかなど、十全に期待出来る事ではないが。
シャツの袖の中に、手首側に柄が向く様にナイフを隠し、持っている事を気付かれない様に然り気無く握った。
何も気付いていない顔を装いながら、堂々と玄関のドアを開く。
「朝から何ですか、騒々しい……」
挨拶も無しに、厳つい顔をした兵士の一人が巻かれた書簡を書簡入れから取り出して両手で広げた。
両手を使っている上に、書簡でこちらが見えなくなってしまっている。
こいつは余り手練れでは無いのかも知れない。こいつは思ったより簡単に片付けられるかも知れない。
「デイヴィッド・ブロウズ、この者を禁止薬物の不法所持容疑で、帝国憲法に則りウェルデリー監獄へ移送、及び収監する!!!」
禁止薬物の不法所持、これもよくある手だ。暗部の人間が不都合な人間に言い掛かりを付ける時は、大体こうやって口実を作る。
おそらく、俺の自室から“見つかった事にして”禁止薬物がこいつらの手から現れるのだろう。
ここはこいつらの期待に添っておくべきだ。
「ちょっと待ってください、禁止薬物?何の事です?そんな物が一体どこに?」
そんな俺の演技に、兵士が上司らしき兵士の方に目を向けた。
上司と思われる上司が一瞬だけ、合図する様に兵士に目線を向ける。
この兵士は、目の前の兵士と違って余り油断していない。その上腰にディロジウム銃砲がある、俺が想定している程度の強さだとしても、厄介だ。
目線に兵士が小さく頷き、懐から金属製の小箱を取り出した。
想定通りの流れに内心微笑みながらも、顔に困惑の演技を貼り付ける。
このまま、この禁止薬物をつい受け取れば、そのまま俺が持っていた事にされてしまうという算段だ。相変わらずえげつないやり方は変わってないらしい。
まだ、動く訳には行かない。今はまだ警戒されている。重心移動するだけでも気取られるかも知れない。この後の一瞬が勝負だ。
「見てみろ」と言わんばかりに、金属製の小箱を兵士が俺に向かって放る。
兵士の手から離れた金属製の小箱が宙を舞うその刹那、小箱には目もくれず、棒立ちの状態から相手に倒れ込む様に体重移動し、兵士の鼻を下から押し潰す様に掌底を叩き込んだ。
そのまま袖のナイフを握り、鼻を押さえる兵士の喉を躊躇無く突き刺す。
もう一人の方から、鞘を刃が滑る音がした。
腰から剣を抜いた“上司”の首へ、すかさずナイフを投擲する。
顎から少し下の辺りにナイフが深く突き刺さり、思わず剣を取り落とした“上司”を放ったまま、目の前で喉を押さえて俯いている兵士の、髪を掴んで頭を下げさせ、首の後ろに肘を打ち下ろす様に叩き込む。力が抜けた様に兵士が倒れ込み、俯せのまま動かなくなった。
首を押さえた手の指の隙間から、ナイフの柄を生やしたままの“上司”に対し、鼻筋を上に滑らせる様に、瞼の裏に指を潜らせる様にして両目を指で突く。
反射的に俯いた顔面を、大きく振りかぶって勢いを付けたブーツの先で真上に蹴り上げた。
枯れ枝の折れる様な音と共に、鼻血を噴き出しながら大きく後ろに仰け反ったかと思うと、勢い良く頭を煉瓦で舗装された地面に叩き付けたきり“上司”は動かなくなった。
動かない事は分かっていたが、念の為、もう一度頭を踏み潰した。殺し損ねる事は多々あれど、殺し過ぎる事は無い。
倒れたままの首からナイフを引き抜き、付いた血糊を軍服で適当に拭う。
久し振りに人を殺したにも関わらず、随分とこの身体は適切に動いてくれた。どうやら、二年やそこらじゃ人殺しの技術は身体から抜けないらしい。気を紛らわせる為に少なからず肉体鍛練を続けていた事が、こんな所で身を助けるとは。
ともかく、今後を考えなければならない。もう、ここには居られない事だけは確かだ。
帝国のお膝元のレガリスで大した当ても無く、無法者として生きていく事になるのだろうか。昔はそんな覚悟をした日もあったが、まさか今になってそんな覚悟が必要になるとは。
家に戻り、手早く荷物を纏める。
念の為ダガーを腰の後ろに見えない様に付け、袖にもナイフを仕込んだ。
死体は朝っぱらで周りに人も居なかったので、二体共引き摺って物置に押し込み、鍵をかけた。俺が逃げた後、この家の清掃業者は苦労するだろうが仕方無い。鍵穴から蛆虫が溢れ出る光景を見るかも知れないが、トラウマにならない事を祈るばかりだ。
剣があれば良かったが、屠殺場勤務の男が肉切り包丁ならまだしも、剣なんて自宅に持ってる訳が無い。こいつらの剣を使うにしても目立ち過ぎる。
纏めた荷物を背負い階段を駆け下り、勢い良く玄関を開いた。
足が、止まった。呼吸も止まり、視線は釘付けになった。
“それ”は目の前に二人いた。
黒革の防護服、それに取り付けられたポーチや剣といった武装、黒革のフード、そして象徴的とさえ言える、鳥を模した黒革の防護マスク。
現在、帝国軍が撲滅を最優先している反体制抵抗軍、黒羽の団に所属する工作員、“レイヴン”がそこにいた。
隠密部隊にいた頃から彼等の話は随分と聞いたし、実際に戦争でも戦ったが、実際に見たのは数年振りだった。
咄嗟に腰の後ろのナイフを意識する。奇襲無しに、レイヴンに真正面からこんなナイフで対抗出来るか?
しかし、当のレイヴンはといえば地面に付いた血糊を指で拭い、指先で擦り合わせていた。
「驚いたな、間に合ったら助けるつもりだったんだが」
レイヴンの一人が感服する様な声で、剣を握っているもう一人のレイヴンに声をかける。
「たった二人とはいえ、帝国軍の隠密部隊を片付けるとはな。腐っても、という事か」
もう一人がそう返し、こちらに防護マスクの顔を向けた。
「デイヴィッド・ブロウズ」
防護マスクのレンズが俺を見据える。
「分かってはいるだろうが、ここまで来たのだから当然ながら、我々は君の心情と事情を知っている。戦争で我々や我々の同志を殺して英雄になった事も、その後どんな経緯で今ここに居るのかも」
「御託は良い、要点を言え」
そんな言葉を返しながらも、先程の会話を思い返していた。先程、俺に対しこのレイヴンは「助ける」と言った。俺の経歴を知っているなら、俺を始末するのが真っ先に浮かぶ理由だが、それにしては空気が妙だ。次に浮かぶ理由は聞き出す事がある、等の理由だが、それにしても余りにも敵意が感じられない。
「結構。では単刀直入に言おう」
レイヴンの一人が剣を腰に収め、静かに言った。
「デイヴィッド・ブロウズ。君を我が団、黒羽の団に招待したい」
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