第2話
明け方、煉瓦葺きの屋根をブーツの音が駆けていく。
革の防護服に革のフード、鳥類を模したマスク。世間ではレイヴンと呼ばれているその男は、危機を感じていた。
そのレイヴンは今まで、様々な危機に立ち向かって来た。戦争中にも敵の小隊長を暗殺し、ペラセロトツカの軍を手助けした事もある。そして、自分はレイヴン達の中でも頭一つ抜けた、実力者だと思っていた。
しかし、今回の作戦において、その自信は大きく揺らぎ、砕けそうになっている。手こずる事は分かっては居たが、それでも自分ならやり遂げられる。そう思い、この幹部暗殺を指揮したのだった。
しかし、その男含めたレイヴンは今、襲撃を受けている。襲撃をかける筈のレイヴンが、だ。
監視として屋根の上にいた筈の部下のレイヴンが、いきなり撃ち抜かれた様に、倒れ込んだのだ。敵の姿は見えない。音も無い。ディロジウム銃砲の様な、銃声さえ聞こえなかった。
倒れたレイヴンは、少し悶えた後に動かなくなり、それきりだ。
襲撃者を排除すべきか。最初はそう思い、外敵の探知、及び排除を他の部下に命令した。
少しして、余りにも報告が遅い事に気付いた。もう一人送ろうか、と思った辺りで部下の一人が屋根の上を駆けてくるのが見え、安堵する。
しかし、レイヴンはマスクの下、レンズの奥で眉を潜めた。
遠目に見ても、駆けてくるレイヴンに余裕が無い。報告を急ぐにしても、妙だ。
火急の案件が発生したのかも知れない。もしそうならば、撤退を指示しなければ。
そう思い、腰の剣を握ったまま、自分の方からも駆け寄ろうとした瞬間、駆けている部下の隣に男が現れた。
いきなり、物陰から現れたのでもなく、上から降ってきた訳でもなく、物陰すら無い屋根の上で、まるでその場から生えた様に黒い男が現れたのだ。
何も無い空間から、風景の描かれたキャンバスを突き破る様に超常的に現れた男は、剣を握っていた。
言葉を放つ事を決めるのに2秒。言葉の為の空気を吸う事に1秒。つまり、3秒。
その3秒で、黒い男は目の前で部下のレイヴンを、剣で胸を貫いて殺した。
そして、部下のレイヴンを横合いに投げ捨てた男が自分の方に顔を上げたのを見た瞬間、直ぐ様踵を返して走り出す。
まずい事が起きている。仔細は分からないが、とてもまずい事が。この出来事は確実に我々の手に余る。
急いで合流しなければ。そして、部下のレイヴン達に撤退を指示しなければならない。
撤退を考えつつ、そのレイヴンは屋根から屋根へと躊躇なく跳躍した。
足を踏み外して落下でもすれば煉瓦造りの道路に叩き付けられ、確実に墜落死する高度だったが、階段でも上がる様にレイヴンは屋根から屋根へ跳び、 屋根の段やスチームパイプを乗り越えていく。
全速力で屋根を駆けているレイヴンは、都市部である事を考えれば、徒歩とは思えない速度で移動していた。何せ、建物を丸々横切っている様なものだからだ。
それに加え、常人なら跳ばない様な屋根から屋根の間を躊躇無く跳ぶ事が、益々移動速度に拍車をかけていた。
重力を騙す様な動きで壁を蹴って足掛かりにし、飛び付いた手掛かりから更に上の手掛かりに跳び、直ぐ様身体を引き上げてよじ登り、レイヴンが駆ける。
直に、屋根の上に部下のレイヴン達が集まっているのが見えてきた。彼等もどうやら、異常事態は察しているらしい。
呼び掛けようとしたが、直ぐ様一人のレイヴンが、風切り音と共に胸を抑えながら倒れる。金属の矢の様な物が背中から生えており、胸を抑えている手の指の間から、鏃と思われる金属が突き出していた。
クロスボウのボルトか、とレイヴンは歯噛みする。
ディロジウム銃砲がこれだけ普及した今、まさか自分達以外がクロスボウを前線で使うとはレイヴンは思っていなかったのだ。
注意を呼び掛けようとした瞬間、倒れたレイヴンの傍にまたもや黒い男が現れた。風景のキャンバスを突き破る様にして。
現れるとほぼ同時に、黒い男が鈍い音と共に倒れているレイヴンの頭を踏み潰す。
その男にレイヴンは、素早く腰の剣を抜いて斬りかかった。
硬い音がして、剣が弾かれる。
不意討ちを阻止された黒い男が剣を構えたが、レイヴンはすぐには追撃しなかった。その男に慌てた様子が、微塵も感じられなかった為だ。
黒い男はレイヴン達と同じく、黒い革の様な防護服を着ていたが、革にしては質感がおかしい。おそらくは、レイヴンの知らない素材だろう。
レイヴンと同じ様にフードも被っていたが、鳥類を模したマスクは被っていなかった。ただ、妙な防風ゴーグルの様なものをかけていて、顔が分からない。
ゴーグルの下に繋がっている顔には、無精髭が見て取れた。ともかく、男性なのは間違いない。逆に言えば、分かるのはそれぐらいだった。
背中に何かを大きな武器を背負っている。恐らくは先程、部下に放ったクロスボウだろう。
部下の一人が斬りかかるも、男は平然と斬り返し、剣を弾き上げたかと思えば胸を一突きにしていた。
また一人、目の前で部下を失ったレイヴンは、直ぐ様斬りかかる。
感情的な行動ではなかった。仲間を貫いたばかりの剣では反応が遅れる事を見越しての行動だった。
レイヴンが剣を振り抜く。だが、振り抜いた事に一瞬違和感を覚える。防がれるか、それとも肉に刃が食い込むか、その二択しかないと考えていたからだ。
黒い男が、剣を手放して身を翻して剣をかわす、とは思いもしなかった。
剣を振り抜いたレイヴンが体制を崩す中、剣を抜く様に滑らかな動きで黒い男が背中のクロスボウを構える。
大型のクロスボウだったが、レイヴンが見た事も無い機構が組み込まれていた。
そして、先程放った筈の矢が直ぐ様装填されている事に、気が付く。
しかし、レイヴンはクロスボウに向かい、むしろ猛然と突撃した。
射程を離せば、レイヴンの方が不利だと分かっているからだ。だからこそ、レイヴンはクロスボウを構えている相手にむしろ自分から突撃したのだ。
風切り音がする。レイヴンの肩に矢が刺さり、握っていた剣が音を立てて屋根の上を滑るが、突撃の勢いは微塵も落ちなかった。
クロスボウから矢を放った黒い男が呻く。矢が刺さったのは、レイヴンだけではない。レイヴンの革の籠手に取り付けられていた、小型のクロスボウが放った小型の矢が、黒い男の二の腕に突き刺さっていた。
顔をしかめた黒い男に、レイヴンが猛然と胴を抱える様に突撃する。
二人は組み付いた勢いのまま縺れて転がり、組み合ったまま屋根の上でお互いを押し退けあう。
レイヴンの肩に刺さった矢は、突き刺さった後も燃え盛る様に痛みを増す一方だった。刺さったまま動いたせいか、と最初レイヴンは思ったが、過去の経験からしても痛みが余りにも激しい。
そんな中、部下のもう一人のレイヴンが剣を抜いて駆け寄りつつ、振りかぶるのが見えた。
よし。レイヴンが胸中で拳を握る。このまま、この黒い男に剣を振り下ろせば仕留められる。
羽ばたく音と共に、剣を振りかぶった部下のレイヴンに、黒いものがまとわりつくのを視界の隅で捉えた。
目の前の男を押さえ込んだまま、レイヴンは何が起こっているのか分からなかった。
まとわりついている黒いものが、十羽近いカラスだという事に気付いても、それでもまだ分からなかった。
部下のレイヴンは、戸惑った声を上げながら剣を振り回すも、カラスは剣を巧みにかわしながらそれでも攻撃を止めない。
そのカラスが、急に離れる。部下のレイヴンが漸く振り払ったのかの様にも見えたが、それは間違いだった。
部下のレイヴンが膝を着いた。気だるそうな声がマスクの下から聞こえる。その胸からは、金属の鏃が飛び出していた。
レイヴンの象徴とも言える、鳥類を模したマスクと、革のフードの切れ端が宙を舞う。
赤い鮮血が、尾を引くように轍を伸ばしていく。
首から上が無くなったレイヴンの身体が、気を失った様に膝を着いた体制から倒れこみ、首の無いまま何故か愚図る様に少し手足をばたつかせた後、俯せのまま、少し身を捩った後に動かなくなった。
死体になったレイヴンの背中を、別の男が踏みつける。
黒い男が、もう一人居た。片手に剣を握った、黒い男が。
男が剣に絡み付いた血を刀身を回転させる様にして振り払い、握り直す。
レイヴンの判断は早かった。
燃え盛る肩の痛みを堪えつつ押さえ込んでいた黒い男の顔に、革手袋に包まれた拳の底を振り下ろす様にして叩き込み、呻いた相手を羽交い締めにする様にして、今部下の首を斬り飛ばした男に対して盾にする様に無理に立たせつつ、自らも立ち上がる。
明らかに同じ勢力の相手、ならば相手もクロスボウを持っている可能性は非常に高い。
男は、そんなレイヴンを見ても微塵もゴーグルをかけたままの表情を変える事は無かった。
ゴーグルをかけている事から、鼻より下しか顔は見えないが、先程の男より歳を取っているのは間違いない。
燃え盛る痛みを纏っていた肩が、少しずつ力が入らなくなっていくのをレイヴンは感じていた。
肩に刺さったボルトは、只のボルトでは無い。何かが仕込まれている。そんな本能的な分析が、脳裏を掠める。
そう思うには、些か遅すぎたが。
男が、剣を握っていない左手を背中から振ったと思えば、クロスボウが握られていた。
レイヴンが最後の力を振り絞り、羽交い締めにした男を盾にしようとした途端、黒い男の足の間を抜けて矢がレイヴンの足を貫く。
男を盾にされていても、一切躊躇する事無く射抜かれた足にレイヴンは思わず呻き声を上げたが、それでもレイヴンは羽交い締めにした男を何とか締め上げながら、前を睨み直した。
目の前には、誰も居なかった。
マスクの下でレイヴンの顔が驚愕の色に染まった瞬間、真横から肋骨を歪める程の勢いで、防護服の脇腹に硬質なブーツの底が食い込んだ。
受け止める間も、受け身を取る間も無く、蹴り飛ばされたレイヴンが屋根の上を重い音と共に転がる。
投げ出された様な体勢のレイヴンが、マスクの下から低い呻き声を上げた。
全く受け身を取れなかった事も、こんなにも身体が重い事も、前回が思い出せないぐらい久し振りだった。最も、前回の様な結末は望めそうにないが。
肋骨が歪んだ様な、炙られている様な、そんな痛みを堪えながらレイヴンが何とか顔を上げる。
そのマスクを金属の鏃が貫き、レイヴンの頭蓋にマスクが縫い止められた。
マスクから角の様に金属の矢を生やしたレイヴンの死体を、黒い男がゴーグル越しに淡白な眼で眺めていた。
フードの男達の防護服は黒く統一されてはいたが、黒い布地はレイヴン達の防護服の様に黒く染色したというよりは、強化された素材の色合いが元々黒かった事が理由の大半を占めていた。
強化素材の合間を繋ぐ他の部分が黒い理由も、単に細部も黒く合わせないと不恰好に見えるという理由でしかない。
厳密にはレイヴンの革の防護服とはまた違う、最新の強化素材から紡がれた防護服だった。
「こいつが最後です」
先程羽交い締めにされていた、部下と思われる黒い男が、同じ服装の男の背中に報告する。
少しの間があった。
「腕は平気か?」
「はい」
淡々と、振り返りもしないまま男が訪ね、部下が答える。
「一応だが処理班に、奴等の武器に“アザミ”が無いか確かめさせろ。塗られていないとも限らん。俺達には効かないが、他の兵士には通用するからな」
「はい」
結局一度も男が顔も向けないまま会話を終え、手の仕草で指示を出すと、部下の男が絵画を塗り潰す様に消えた。
屋根の上に立っていた男に日が差し、男が振り返る。防護服から懐中時計を取り出し、 明け方な事を確かめると懐中時計を仕舞い、 胸の前で拳を握り締める所作の後、先程の男と同じく塗り潰す様にその場から消えた。
倒れたレイヴンだけが、屋根の上で朝日に暖かく照らされていた。
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