Side 世界一 終
順調だ。
現状を客観的に分析した健太は、そのように評価した。
「ケンちゃん、領収書届いたよ」
「ありがとう。貰うよ」
いつも通り自分の席に座っていた彼は、愛から領収書を受け取った。
しかし、愛は指に力を込め領収書を離さなかった。
「……佐藤さん?」
健太は彼女の表情を見る。
何か用事があるのは明らかだが、思い当たることが多過ぎて分からない。
出張から戻った後、彼は態度を変えた。しかし目的まで変えたわけではない。自らの理想を実現するために甘えを捨てたのだ。当然、それが愛の反感を買うことは想定していた。
愛は不機嫌そうな態度で領収書から手を離し、健太に問いかける。
「次、どうするの?」
「前に話した通りだよ」
愛が小鞠まつりのスカウトに成功した後、健太は迅速に握手会の準備を進めた。
僅か二週間。それが握手会の開催までに費やした日数である。要するに、彼は愛が必ずスカウトに成功すると信じて、結果を知る前から動いていたのだ。
しかし彼は仕事以外の話を彼女に伝えなかった。
現在、愛が健太から得ている最新の情報は次の通りである。
川辺公仁が事務所に来る。
数日以内に、必ず一人でやってくる。
愛からすれば意味が分からない。しかし、この数日はギリギリのスケジュールに忙殺されて質問する暇など無かった。
今は違う。
時間に余裕が生まれたことで、彼女は疑問を口に出すと決めた。
「話して、何をするの?」
「それは交渉次第だから言えない。でも、悪い結果にはならないよ。約束する」
その返事を聞いて愛は黙考する。
幼馴染の様子が明らかに変化して、どこか壁を感じるようになった。
しかし、結果だけを見れば上手く行っている。手元にある領収書だって、使われている金額が庶民の感覚とはかけ離れている。この会社は、ビジネスという目線で見れば明らかに上り調子だ。
だから彼女は迷っていた。
このまま彼を信頼するべきか、それとも……。
「……信じていいの?」
「もちろん」
健太はノータイムで返事をした。
「笑顔が胡散臭い」
「あはは、それはひどいな」
愛がチクリと棘を刺したけれど、健太は微かに動揺する素振りすら見せない。
面白くない反応である。何か文句を言ってやろうか。愛が思った時、トゥルルと音が鳴った。
「はーい」
悪運の強い奴め。そんな内心を胸に、愛は出入口へ向かった。
彼女の背中が見えた後、健太はこっそり息を吐く。彼とて不安が無いわけではない。
「ケンちゃん」
彼は名前を呼ばれ、一瞬、唇を噛んでから顔を上げた。
「川辺さん」
愛は困惑した様子でその名前を口にして、背後に目をやった。
「分かった」
他の情報は無い。
しかし、その名前だけで健太には十分だった。
彼は心拍数が上昇するのを感じながら立ち上がる。
そして、二人の経営者が初めて顔を合わせた。
* * *
事務所の近くにあるファミレス。
その隅っこにあるテーブル席。川辺と健太は二人で座っていた。
「やー、突然すまないね」
「構わないですよ。ボクも話がしたいと思っていたので」
大げさに身振り手振りを添えて話す川辺に対して、姿勢よく座った健太は落ち着いた返事をした。それは本題に入る前のアイスブレイクにも思えるけれど、実は既に腹の探り合いが始まっている。
「いーいーねー。どんな話がしたかったの?」
「もちろん、ビジネスの話です」
「……へー?」
川辺は机に頬杖を付き、商売敵の目をジッと見た。
彼は思う。
正直、交渉には音坂が出てくると思っていた。しかし目の前の若者はノータイムで自分をファミレスに案内した。まるでこの事態を予期していたかのように、迅速に。
……速攻で本題に入るか? いや、もう少し探るべきだな。
「鈴木さん、で良いのかな?」
「もっとフランクに健太と呼んでも大丈夫ですよ。公仁さん」
川辺は生意気なガキだなと思いながら、その発言を深読みする。
相手の目的。深層心理。それらはちょっとした言葉選びに現れるものだ。
今のようにフランクな関係を望むならば、対等な立場で話をしたいと考えている可能性が高い。
……要するに、ビビパレが欲しいってことだろ?
二人の手札を考えた時、導き出される答えはひとつだった。
健太は仮想の触覚、川辺はビビパレを持っている。互いの手札を組み合わせることで強力なシナジーを生み出せることは明らかだ。
ただし川辺は健太が持つサービスを使わざるを得ない。
普通に考えれば健太の方が有利な立場だが、彼がビビパレを戦略に組み込みたいと考えていた場合、話は変わる。
……なるほど。互いの利益は一致してるわけだ。
健太は有利な条件でビビパレを使いたい。
川辺もまた有利な条件で仮想の触覚を使いたい。
ここで川辺が首を縦に振れば、二人は対等な立場で交渉を始めることができる。
……ふざけんな。俺の総取りがベストに決まってんだろ。
「そーれーは、もう少し仲良くなってからにしましょうよ。鈴木さん」
川辺は健太の提案を拒絶した。
もちろん、その意味は正しく健太に伝わった。
「残念。それでは川辺さん、本日はどのようなご用件で?」
しかし彼は全く動揺を見せなかった。
その反応を見て、川辺は何か隠し玉があることを察した。
「まーあーね? 大した用事じゃないですよ」
だからこそ、先手を打つことにした。
「ただ、ウチから盗んだモノを返してくれと言いに来ただけ」
健太の表情が微かに強張る。
川辺はその変化を見逃さない。
「山田恵、以前はウチの社員だったんですよ。知ってました?」
健太は沈黙を選んだ。
ここでイエスと返事をした場合、川辺の「盗んだ」という発言が有利になる。なぜなら川辺も触覚の研究をしているからだ。その詳細を知り得る立場だった恵から触覚技術の提供を受けたならば、故意に技術を盗んだと言われても反論できない。
一方でノーと返事をした場合、川辺に会話の主導権を握らせることになる。なぜなら、何も知らない健太に対して、川辺が「真実」を教えるという上の立場になるからだ。
「直ぐに返してくれるなら、穏便に済ませてやっても構わない」
しかし、川辺からすればどちらの返事でも構わなかった。
「断るなら、残念だけど裁判所で不毛な争いをすることになる」
相手に考える時間なんて与えない。
次々と脅し文句を並べ判断能力を奪う。それが川辺の狙いである。
「十秒後、俺は席を立つ。その後は一切の発言を受け付けない。さぁ、カウントダウンだ」
川辺はねっとりとした声で数字を数え始めた。
その間、健太は彼の目を見ながら思考する。
……彼は絶対に裁判を起こさない。
川辺が最初の数字を口にした瞬間、健太は相手の発言がブラフであるという結論を出した。
裁判を起こすデメリットが大き過ぎる。ユーザーは先日の握手会によってホットな状態であり、次の展開を待ち望んでいる。裁判で機を逃せば熱を冷ます結果となる。それどころか、第三者に漁夫の利を与えるリスクまである。これを上回るメリットなど考えられない。
「分かりました」
健太は川辺が三番目の数字を口にしている途中で声を出した。
川辺は思わず眉を上げる。
彼は、ここまで早く結論が出るとは思っていなかった。
健太は柔らかい笑みを浮かべ、軽く両手を広げる。
そして自信に満ちた声色で言った。
「ボク達を雇う権利を差し上げましょう」
その笑顔を見て川辺の頭に空白が生まれる。
「裁判、起こすつもり無いでしょう?」
健太は淀みなく言い切った。
……マジかよ。今の数秒でバレたのかよ。
川辺は無意識に苦笑を浮かべた。その動揺を健太は見逃さない。
「あなたは、いくら出せるんですか?」
まるで他の会社とも交渉しているような言い方だが、そんな事実も予定も無い。
しかしタイミングが抜群だった。
実際、川辺の思考は金で解決する方向に誘導されている。
「鈴木さんが言う権利は、買収的な意味で良いのかな?」
「ボクの目的は将来のために軍資金を得ることです」
それは買収の否定であり、将来的なプランがあるという宣言でもあった。
川辺は相手の目的が見えない不快感に表情を強張らせ、今日初めて緊張感を持って探りを入れた。
「軍資金が欲しいなら、そちらさんの音坂くんに融資を頼めば良いのでは?」
「翼は親友です。友達から金を借りろなんて、そんな冗談はやめてください」
ほんの一往復の会話。
それを受けて川辺は思う。こいつ、実はそんなに金欲しくねぇな。
資金を得たいなら株式会社にしない理由が無い。音坂のバックアップを受ければ銀行から多額の融資を受けることも可能だろう。これまでの会話レベルからして、あえて避けたと考える方が自然だ。
……撤退しよう。癪だが、彼の誘導に乗るしかない。
川辺は金で解決する判断をした。いくらか疑問は残っているが、何か下手を打ってチャンスを逃すべきではないと思わされた。
「早い話、そちらの人材を買えってことかな? 期間は?」
「ひとつのイベントを企画してから、それが完了するまで、というのは如何でしょう?」
「なるほど。そちらの社員さんは六人だったよね? それで全部?」
「……ええ、ご認識の通りです」
「じゃあ一ヵ月あたり千。それを三ヵ月で少し色を付けて二億。これでどう?」
川辺としては、過去の類似事例から最大級の額を提示した。
ここで小銭をケチって心証を悪くするべきではないと思ったからだ。
「ご冗談を」
しかし、健太はこれを一蹴する。
「その辺のコンサルでも週に千は要求しますよ?」
「まーて待て。音坂くんを基準にして貰ったら困るよ」
「その音坂がウチに所属していることをお忘れですか?」
「逆に聞くけどね? 週に千なら八億。これ大金よ? 君、イベントひとつで回収できると思う?」
「逆に聞きますが、小銭を稼ぐつもりで弊社まで来たのですか?」
こいつマジで腹立つな、と川辺は思った。
その雰囲気を察しながらも、健太は笑みを崩さず言葉を重ねる。
「参考までに、神崎央橙は弊社の佐藤に十億の報酬を提示して引き抜きを試みました」
「それ以上を出せと?」
「そうでなければ、あなたと組むメリットが無い」
健太は突き放すような口調で言ったが、それはブラフである。
彼の心拍数は過去数年で最速と言える程に荒れ狂っている。それくらい緊張している。
川辺は顎に手を当て、鋭い視線を健太にぶつけた。
それから数秒の、しかし互いの体感では数分の沈黙が生まれ、やがて川辺が口を開く。
「率直に教えてくれ。もしも君がビビパレを手にした場合、イベントひとつでいくら利益を出せる?」
「百億以上」
健太はノータイムで答えた。
川辺はマジかよこいつと思いながら問いかける。
「根拠は?」
「それは企業秘密です」
川辺は苦笑を浮かべながら計算する。仮にキャパ五万の東京ドームを埋めたとして、チケットが一万円でも五億。触覚を体験するための機械は合わせて四万だった。利益率を二割、イベント参加者全員が購入すると仮定しても二億。ここに物販を加えても百億に届くとは思えない。
……ギャンブルだな。
選択肢はふたつ。
生意気な若者の口車に乗るか、撤退してサービス利用者になるか。
川辺は改めて健太の目を見た。
現在の日本で最も多くの資産を持つ経営者が過去に融資を受けた時、それを判断した経営者は彼の目を見て決断したという逸話がある。それくらい目には多くの情報が現れる。
……さっぱり分からん。
川辺は目を見て判断することを諦めた。
……客観的に考えろ。彼は俺相手にここまで話を展開した。投資だと思って縁を作るのも悪くない。
川辺は長い息を吐いた後、表情を和らげる。
「健太、君の口車に乗ってあげるよ」
その発言の後、川辺は姿勢を正して握手を求める。
「利益を折半。そーれーで、どうかな?」
健太は考え込むように目を伏せた。
そして数秒後、緊張が解れたような笑みを浮かべて握手に応じる。
「分かったよ公仁。その条件にしよう」
かくして交渉は合意に至る。
川辺は仮想の触覚とそれに付随する話題性、健太はビビパレという世界一の宣伝媒体を得た。
二人の思惑は後に一人の夢と衝突する。
そして健太は、この交渉が始まる前に、その未来を予期していた。
……君は、今回も期待を超えてくれるのかな?
彼は微笑の裏でこの場には居ない幼馴染の姿を思い浮かべ、その言葉を投げかけたのだった。
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