小鞠まつりの秘密 7
* * *
どれくらい時間が経っただろう。
自分は逃げた後から一歩も動けていない。
「……」
口を開いて、閉じる。
頭の中がグチャグチャで、独り言すら声に出せなかった。
一度、深呼吸をしてから立ち上がる。
それから洗面台へ向かって、冷たい水を顔にぶつけた。
「……ほんと、詐欺だよね」
鏡に映った自分の顔を見て、ようやく声が出た。
「この顔から、この声なんだから」
鏡には、一目で男だと分かる顔が写っている。
名前は夕張英雄。そろそろ三十路を迎える社会人だ。
男として見れば悲観するような容姿ではない。
しかし、この顔に「小鞠まつり」は似合わない。
かわいい衣装を着て、とびきりの笑顔で、たくさんのファンに歌を披露する。
幼い頃の夢を叶えられないことは、生まれた瞬間に決まっていたのだ。
「……今更じゃんか、そんなの」
もう子供じゃない。
自分に資格が無いことは理解している。
それでも諦められないから小鞠まつりを生み出した。
試行錯誤を重ねて、たくさんの失敗を乗り越えて、仮想世界で理想を形にした。
だけどまだ満足していない。
もう少しだけ理想に近付きたい。
そして目の前に千載一遇のチャンスがある。
あと一歩なんだ。
ほんの少し決断するだけで構わない。
それだけのことが、あまりにも難しい。
「……変わることは、捨てること」
今の自分を捨てて生まれ変わる。理想的で最低最悪な言葉だ。
だってそれは、まるで過去の自分を否定するみたいじゃないか。
「違う。違う。違う」
自分の感情なんてどうでもいい。
小鞠まつりはバーチャルアイドルなんだ。
仮想世界にだけ存在する偶像。
自分はそれを演じているだけ。赤の他人。
どうして自分が小鞠まつりだと言って活動できる?
どうして彼女の手柄を横取りできる?
「そうだ。無理だよ。諦めろ。お前には資格が無い」
鏡に映った男性が声を出した。
「子供の頃の夢だぞ? いい加減に目を覚ませ。今の年齢言ってみろ」
低い声が内側から脳を揺らす。
「男性アイドルとして活動しろよ。その方が父さんも喜ぶぜ?」
そのうち、鏡に映った男性がニヤリとほくそ笑んだ。
「うるさい。黙れ」
言われなくても分かってる。
鏡に映る男性の言葉こそが正論だ。
「だけど、それが夢なんだよ」
幼い頃にアイドルを見て憧れた。
根拠の無い自信を元に練習を続けた。
だけど自分は「普通」を奪われた。
練習する時間は日に日に減った。
夢を追いかける余裕なんて無かった。
心が折れそうな時、バーチャルアイドルを見た。
未来に希望を抱いて、震える程に歓喜した。
その未来で普通に生きたいと強烈に願った。
それが今なんだ。
今まさに過去の自分が夢見た未来を生きている。
そして目の前にチャンスがある。
ここで一歩踏み出せば、きっと今よりも理想に近付ける。
「……決めろよ。ほら。早く」
メグミさんの話を聞いた。
彼女の話は自分と似ていた。
むしろ彼女の方が絶望的だった。
幼い頃に片親を奪われ、その傷を癒してくれた祖父を奪われ、孤独から救い出してくれた友を奪われ、それでも生きる道筋を示してくれた父を奪われた。
おかしいだろ。そんな人生。
自分なんて比較にならない。
いや、何度も泣き喚いた経験があるからこそ彼女の感情を想像することができる。彼女がどれだけの想いで「神様」という言葉を口にしたのか、痛いくらいに分かる。
彼女は成し遂げた。
自分は彼女の手を取るだけでいい。とても簡単だ。
「……ごめん」
謝罪の言葉を口にして、鏡の前から逃げ出した。
宙に浮いているような気分だった。
そして気が付いたら仮想世界の中だった。
多分、部屋に戻った後で無意識にログインしたのだろう。
「……あ、メッセ来てる」
自然と出たのは小鞠まつりの声。
この世界に居る時は咄嗟の反応でも彼女の声が出る。口調も変わる。
「……マリアさん。うん。そうだよね。メグミさんのこと、ちゃんと言わなきゃだよね」
マリアさんには本当にお世話になっている。このまま何も伝えないのは不義理だ。
「……」
ギュッと唇を噛んだ後、ホームに招待した。
見慣れたシスターさんは三十秒程でホームに現れた。
小鞠まつりはソファに座ったまま隣をポンと叩いた。
マリアさんは隣に座った後、小鞠まつりを見て言った。
『こんにちは』
外見と全く違う低い声。
マリアさんにはどこか親近感を覚える
「急に呼び出してごめんね。時間、大丈夫かな?」
『もちろんです。まつりの頼みなら、地球の裏からでも駆けつけますよ』
「あはは、心強いな。ありがとね」
もしも現実世界ならば、マリアさんは自分の姿を見た瞬間、異変に気が付いたはずだ。しかし仮想世界では声以外のことが分からない。いくらかの技術があれば、どんな感情だって演じることができる。
だから小鞠まつりは、いつも通り楽しい感情を込めた声で話を始めた。
「えっと、ちょっと聞いて欲しいことがあってね?」
『まだ、悩んでいるのですね』
思わず息を止めた。
こちらの姿は見えていないはずなのに、見透かされているような気がした。
「……そう、だね」
拳を握り締める。爪が手に食い込む。
そのチクリとした痛みを感じながら、自分は言った。
「……マリアさんは、小鞠まつりのこと、どう思う?」
『大好きです』
「じゃあ、中の人は、どう思う?」
何か深い考えがあったわけではない。
マリアさんはこれまで何度も相談に乗ってくれている。
多分、自分にとって最も話しやすい相手。だから自然と問いかけていた。
「小鞠まつりと、全然違う人だったら、どう思う?」
今度は直ぐに返事をくれなかった。
静寂が生まれ、キーンという耳鳴りが頭の中で響き渡る。
『……僕は、アイドルオタクです』
長い沈黙の後、マリアさんは「僕」という一人称で話を始めた。
『アイドルは花火のような存在だと思っています』
「……花火?」
『ええ。ドンという音で人々の目を引き付け、ピューと空高く打ち上がる。アイドルはファンの期待を一身に受け、一番高い場所で花開き、人々の心を照らして、そして、消える』
マリアさんは、どこか寂しそうな声色で言った。
アイドルは、いつか必ず終わる。悲しいけど事実だ。自分もアイドルが好きだから、よく分かる。
『花火は次々と打ち上げられます。しかし花開くアイドルは、ほんの一部だけです。だからこそ、僕達はアイドルを推すのです。花開くことなく消える悲しみを知っているから、いつか花開いた瞬間の喜びを知っているから、時には借金をしてでも応援するのです』
流石に借金はやり過ぎだけど、素敵な話だと思った。
だけど、同時に疑問も生まれる。
「最後に消えちゃうことは、寂しくないの?」
『もちろん寂しいですが、一番寂しいのは、花開くことなく消えてしまうことです』
その気持ちも理解できた。きっとアイドルに限った話ではない。応援していた何か、あるいは好きな何かが消えてしまうのは、誰だって寂しいことだと思う。
『逆に、一番悔しいのは、アイドルに裏切られることです』
ドキリとした。
他人事には思えなくて、心臓を掴まれたと思うような感覚があった。
『綺麗に引退したアイドルなんて、僕は数える程しか知りません。だからこそ、バーチャルアイドルが登場した時はワクワクしました。しかし、結局は中の人が問題を起こして定期的に炎上しています』
自分は何も言えなくなった。
ただ口を閉じて、話を聞くことしかできない。
『偶像という言葉の意味をやっと理解しました。アレはただの商品で、誰かが演じているに過ぎない。それでも、だからこそ最後まで夢を見させてくれと僕は思います。世間一般には気持ち悪いと思われるかもしれない。だけどやっぱり、アイドルは僕に勇気をくれるから』
「……そう、だよね」
マリアさんの……彼の気持ちは分かる。
キラキラ輝く世界は夢をくれる。
その世界を見ている間は、自分の世界もキラキラと輝いているように感じられる。
「ごめんね、変なこと聞いちゃったね」
だから自分は、ごまかすような声色で言った。
「小鞠まつりに中の人なんていない! よっしゃ、これからもよろしくね!」
『それは、本心ですか?』
「……え?」
『それは本当に、あなたが一番やりたいことですか?』
「でもマリアさん、さっきの話」
『僕は推しが花開く瞬間を見たい。だから、あなたが一番輝ける道を選んでください』
彼は少し強い口調で言った。
その迫力に気圧されて、自分は少し口ごもってしまう。
「……でも、でも、小鞠まつりと、自分は、本当に全然違うから」
『まつりは、あなたじゃないですか』
「違う。違うよ。秘密を知ったら、マリアさんだってきっとガッカリする」
『バカにしないでください! その程度の覚悟で推してるわけじゃない!』
自分はポカンと口を開けてしまった。
マリアさんのこんな声、初めて聞いた。
『六年です。あなたにたくさんの勇気を貰いました。何が起きたとしても、この事実だけは決して消えない。あなたが、今さら僕に失望されるなんて不可能なんですよ』
マリアさんは畳みかけるようにして言葉を重ねる。
『あなたは知らないかもしれない。あなたの歌声で、楽しそうな笑顔で、僕がどれだけ救われたか』
そこで自分は気が付いた。
彼は先程から「まつり」という名前を口にしていない。
『あなたが一番輝けることを選んでください。他には何も要らない。一番キラキラしている小鞠まつりを僕に見せてください。あなた達が花開く瞬間を、僕に見せてください!』
目の奥が熱くなった。
我慢したいのに、初めてバーチャルアイドルを知った時のような衝撃がそれを許してくれない。
『もう一度言います。小鞠まつりは、あなたです』
その言葉が背中を押す。
あれだけ重かった身体を持ち上げる力をくれる。
『あなたが、一番輝けることを選んでください』
ふと初めてのライブを思い出した。
当時、来てくれたファンは二人だけ。
一人は「神様になって迎えに行く」と言って、六年の時を経て約束を果たした。
そしてもう一人は、六年間ずっと隣で支えてくれた。何度も相談に乗ってくれた。
小鞠まつりには二十万人以上のファンが居る。
それなのに、たった二人からの言葉が、こんなにも、こんなにも心を熱くさせている。
「……ありがとう」
お礼を言うと同時に、自分はヘッドセットを脱ぎ捨てた。
ここまで背中を押されて走りださないわけにはいかない。
ログアウトした後は直ぐに身支度をして、靴の踵を踏みながら外に出た。
自分は、ようやく、次の一歩を踏み出す決意をした。
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