束の間の修羅場 終


 最後の受講生が帰宅して、めぐみんがお手洗いに行ったことで、事務所には私と翼だけが残った。


「お疲れ様」


 私がソファで脱力していると、彼がテーブルに紙コップを置いた。

 その湯気と色から察するに、中身はミルクを入れた後のコーヒーだろうか?


「ありがとうございます」


 私はそれを受け取り、ちびちび口に含む。甘くて美味しい。

 その間に彼はソファに座り、ふっと息を吐いてから言った。


「あらためて、有紗のこと、ありがとう」


 有紗ちゃんと話をしたのは昨夜のこと。

 私は抱擁を交わす二人を見て、極上の尊さに身を焼かれ消滅した。


 一般的な言葉に翻訳すると、兄妹の時間に水を差さないため帰宅したということである。そんなわけで、私はその後について知らない。だから質問することにした。


「有紗ちゃん、何か言ってましたか?」

「少し時間が欲しいと言っていた」

「……そうですか」

「心配はいらない。あれはきっと、前向きな理由だ」


 ところで現在の彼はお仕事モードである。

 ゆりちが帰った辺りから目付きが鋭くなった。


 しかし! その状態なのに!

 今、一瞬だけ! ふんわりとした笑顔を見せてくれた!


 それを見て私は、私は、わた、わ、わたた、わ……わふぅ。


「お礼がしたい」


 その声で我に返り、反射的に背筋を伸ばす。

 遠慮の言葉は無粋だ。彼は有紗ちゃんを大切にしている。素直に受け入れよう。


「愛の誕生日を教えてくれないだろうか?」


 祝ってくれるのかな?

 それは普通に嬉しいかも。


「四月九日です」

「健太とは同級生?」

「はい、小学校は何度か同じクラスでした」


 お分かり頂けますか?

 もしもケンちゃんだったら普通に年齢を聞いてるところですよ?


 これが翼のイケメンたる理由ですね。

 顔だけじゃないのです。私も見習いたいものです。


「愛には、誰か特定のパートナーが居るのか?」

「……いない、ですけど」

「それは良かった」


 良かった……? え、どういうこと?


「有紗は大切な妹だ。この恩には、最大級の謝礼を出す必要がある」


 テーブルの向こう。

 彼は少し身体を前のめりにして言う。


「俺の全てを差し出すことにした」


 私は目をぱちくりぱちくりした。

 理解が追い付かない。本当に、全く、理解が追い付かなかった。


「愛さえ良ければ、俺と婚約してくれないだろうか?」

「……こんにゃく?」


 私は現実逃避をした。


「婚約」


 しかし現実に引き戻されてしまった。


「……そんな日本語、あったかな」

「結婚の約束という意味だ」

「……ほへー」


 たったひとつの日本語が持つ情報量を前に、私の脳はメモリを使い果たしフリーズした。それから無意識領域に回された情報がゆっくり処理され、確かな理解を伴って意識に舞い戻る。


「──くぇっこぉんぁ⁉」


 私は叫んだ。


「……えっ?」


 その直後、驚きゲージが天井を突き抜け、むしろ冷静になった。


「ええっと、ただのお礼で、そこまですることないですよ」

「初めて異性に魅力を感じた」


 彼は私の言葉に被せるようにして言った。そのストレートな表現と真剣な眼差しが、これまでに経験したことのない感覚を私に与える。


「……突然過ぎて、何と言えば良いか」

「直ぐにとは言わない。だが、今後はそういう目で俺を見て欲しい」


 私は唇を嚙み、俯くことで彼から目を逸らした。

 現実感が無い。神崎さんに十億円という報酬を提示された時と近いかもしれない。


 翼の目は真剣そのもの。からかわれている感じはしない。

 ……でも、急に、そんな、婚約とか、そういう目とか言われても、ピンと来ない。


「正直、俺も困惑している。これまでアプローチを受けることはあっても、することはなかった。今日が初めての経験だ。もしも愛が受けてくれるなら、きっと最初で最後になる」


 私の頭はパンク寸前だけど、言葉の意図は分かった。

 要するに、決して浮気しないというアピールなのだろう。


「経済的な心配はさせない。愛が好きなアニメやマンガについても、勉強を継続している」


 確かに経済的な不安は無い。彼の住居を見れば明らかだ。後者についてもポイントが高い。仮に私が婚活をするならば、必ず趣味に対する理解を求めるはずだ。


「前向きに検討してくれるなら、まずは交際からでも構わない」


 それは一瞬だけ絶妙な譲歩に聞こえたけれど、衝撃の度合いは変わらない。


「期限を決めよう。例えば、愛の次の誕生日」


 あと二ヵ月と少し。急な話だったことを考えれば、妥当な時間設定に思える。

 だけど……これからの二ヵ月、私にそんなことを考える余裕があるだろうか?


 今は開発で忙しい。でも開発が終わった後は、きっと直ぐに次の挑戦が始まる。自分の幸せより仕事を優先させるみたいな考え方だけど、結婚とか、そんなことを考える余裕は無いと思う。


 ……でも、断る理由、あるのかな?


 結婚に興味が無いわけではない。

 翼のアピールには魅力を感じたし、私は彼の容姿を好ましく思っている。


 だけど、はい喜んで、という気持ちにはならない。その理由が言語化できなくて、もどかしい。


「健太か?」

「……はい?」


 私は顔を上げた。

 どうしてここでケンちゃんの名前が出るのだろう?


「愛が返事を悩む理由は、彼しか思い当たらない」

「……いえ、ケンちゃんは、べつに、ただの幼馴染です」


 その言葉を口にして、どうしてか違和感を覚える。


「分かった。期限は次の次の誕生日にしよう」


 翼は微かに目を細めた後、急に柔らかい笑みを浮かべた。


「それまで俺はアピールを続ける。もちろん愛に誰か特定の相手ができたならば潔く身を引く。だから愛にも……この話について、真剣に考えて欲しい」

「……分かりました」


 私は彼から目を逸らして、小さな声で返事をした。

 それから少し間が空いて、めぐみんが事務所に戻った。


「何か、あった?」

「……べつに、何もないよ?」


 私は勘の良い天使からも目を逸らす。その後、直ぐに彼女と二人で帰宅した。

 ふわふわした気分だった。お風呂も、食事中も、ベッドで横になった後も、ふわふわしていた。


 ──その夜、ケンちゃんからメッセージが届く。


 それは個人宛ではなく、会社に向けたメッセージだった。

 内容は出張中の報告書みたいなもの。彼が何を調査して、何を思って、何をすることにしたのか。そして、いくつかのアイデアと具体的な方法。課題や将来の展望。


 メタバースという世界に、どうやって挑むのかが詳細に記されていた。


「愛、これ、すごいね!」


 めぐみんが興奮気味に言った。

 きっと本当に素晴らしいことが記されていたのだと思う。


 だけど私は、多分、一割も頭に入らなかった。

 ケンちゃんが帰ってくる。しっかりと理解できたのは、それだけだった。

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