子供の夢 9
「ほんと、マジ、なんなの、あいつ」
仰向けに寝転がって呟いた。
あいつ。佐藤愛。ちょっと前に現れて、執拗にアニメを勧めてくる妖怪。部屋に侵入されたのは初めてではないけれど、ひたすらアニメ鑑賞を強制されたのは初めてだった。
家族や友人、カウンセラー。
私は本当に心底うんざりしていた。
優しい言葉には反吐が出た。
厳しい言葉は普通にムカついた。
だから何も言わないあいつは、相対的に気が楽だった。
同時に、どうして何も聞かないのだろうと疑問だった。
「……全部知ってたから、何も聞かなかったわけ?」
冷静に考えれば、ただの妖怪がここに来るなんてありえない。これまでの意味不明な発言は全て計算だったと考える方が自然だ。
「……いや、無い。アレは天然。絶対そう」
もしも計算があったならば、きっと今日まで会話が続いていない。あいつは良くも悪くも純粋だった。
私に映像鑑賞の趣味は無い。授業で見る程度だった。教育の一環として視聴したのは各時代の代表作。もちろん個人的な感想が入り込む余地は無い。客観的な視点で、その時代の人々に評価された理由を考察するだけ。だから、純粋に娯楽として映像作品を観たのは初めてだった。
とても新鮮だった。
あいつのセンスが良いとは思わないけれど、そこそこ楽しめた──最後の一作を除いて。
「……なんで、ここで、バスケが来るんだよ」
題材を聞いた瞬間に背筋が震えた。
「……なんで、あんな内容なんだよ」
始まって五分で感情が暴れ始めた。
夢を見て、全力で駆け抜けて──失って、何も考えられなくなる。
そんなありふれた話を見て、身体中が熱くなった。
あの日から何も変わっていない。
あの瞬間、私の中に刻まれた感情が未だに消えてくれない。
──私は、一番になりたかった。
恵まれた親、恵まれた頭脳、恵まれた身体能力、恵まれた容姿。
何もかも持って生まれた私は、何をしても一番だった。あの日、バスケに出会うまでは。
鮮明に覚えている。
当時、私は五歳だった。
自分の身体と同じくらい大きなボールを手にして、初めてシュートした。
入らなかった。
幼い子供の力では、どうやってもリングまで届かなかった。
にこにこ笑うパパとママに「がんばれ」と言われながら、五分くらい続けた。
やがて長身のパパが私を持ち上げた。
初めてリングを通ったシュートはダンクシュートだった。
パパとママは私を褒めた。
屈辱だった。生まれて初めての挫折だった。
五歳の子供が考えることではないと思う。
でも私は、それくらい負けず嫌いだった。
「兄さま! しゅーと入らん!」
「有紗、人に物を尋ねる時は、まず──」
「おしえて!!」
「……分かった。詳しく話せ」
私にはやることが沢山あった。
華道茶道柔道空手水泳ピアノ小学校受験に外国語やプログラミング、会社見学などなど。厳しい門限もあり自由時間は皆無に等しい生活。私がバスケに使える時間は週に一日、十五分だけだった。
だから兄に頼った。困った時、いつも助けてくれる。信頼と実績のある自慢の兄だった。
「さいこうこうりつでおねがいします!」
「二日待て。用意する」
二日後、兄から数式だらけのレポートを受け取った。
……ふむふむ、バスケは物理なのね!
まずはニュートンのプリンピキアを読まなくちゃ!
──こうして、私はバスケを始めた。
バスケは私にとって初めての壁だった。
全力を出しても壊せない壁。
身悶えする程に悔しくて、同じくらいに楽しかった。
やがて夢を持った。
バスケで一番になる。十歳の頃、決意した。
それから数日後。
久々に家族四人が揃った食卓で、私は夢を打ち明けた。
パパが猛反対した。
私は生まれて初めて親子喧嘩した後、不貞腐れて眠った。
しかし翌朝、兄が私に言った。
「条件付きで許可が出た。週に一日、一時間だけ。前半戦に十分以上出場した試合で三回負けるまで続けることを許す。ただし他のことに影響が出た場合は直ちに許可を取り消す」
「兄さま大好き!」
私は兄に抱き着いた。
直ぐに理解した。兄がパパと交渉してくれたのだ。
「有紗、聞け。天才が活躍できる時代は終わった。十年前の天才は今日の凡人だ。さて、有紗が使える時間は週に一日。たった一時間。やめるなら、今だ」
「大丈夫! なる! なるよ! 私が一番になる! 見ててね!」
「……そうか。分かった。見てる」
そして挑戦が始まった。
たった三回負けたら終わり。
ボールに触れるのは週に一日、一時間だけ。
反復練習をするには時間が足りない。
コネを使ってトップチームに所属できたけれど、私の技術は他の選手より遥かに劣っていた。
居心地が悪かった。チームはコネで所属している私を快く思わなかった。でも知らない。知るかそんなこと。使える物を全て使って一番になる。それが私だ。あんな脳筋クソチビ共に負けてたまるか。
実力で黙らせる。メラメラと対抗心を燃やす私は、反復練習を否定する金メダリストの存在を知った。彼はアスリートであり、修士号を持つ学者でもあった。彼の研究はとても参考になった。
運動は物理。全ての運動を瞬時に計算して、身体に適切な命令を送り続けることができれば、常に理想のプレイができる。スリーポイント百発百中も理論上は可能。筋肉ではなく脳を鍛えればいい。
だから脳が千切れる程に考えた。学業や習い事、パパから与えられたタスクを完璧に消化しながら、週に一度、たったの一時間、命懸けでバスケをした。
初めて公式戦に出場するまで一年かかった。
しかし、それから私は一度も負けなかった。
当然だ。私はバスケに命を賭けている。
だから私は──きっと、あの日、終わったのだ。
中学最後の大会。
終盤、ワンゴール差の接戦だった。
私は怪我を避けるために強引なプレイを控えていた。
しかし、身体に負荷が掛かるプレイをしなければ勝てない相手だった。
無理をした。
たった一試合なら大丈夫。そう思って無理をした。
ブチッ──何かが千切れる音がした。
それが、バスケットコートで聞いた最後の音だった。
「──残念ですが、スポーツは諦めてください」
長い手術の後、お医者さんが重々しい声で言った。
私は、ふわふわとした気持ちで詳しい説明を聞いた。
日常生活に支障は無い。しかし強い運動をすれば激痛が走る。そして、現代医学では治せないらしい。
諦めなければ夢は叶う。
夢を叶えた人は誰もが口を揃える。
きっと何度も挫けそうになったのだろう。何度も諦めかけたのだろう。そして、掴み取ったのだろう。だからどんな困難も乗り越えられると信じているのだろう。
もしも機会があるならば、私は問いかけたいと思う。
困難を乗り越えるための手足をもがれた後でも、同じことが言えますか?
「有紗、お前には選択肢がある」
「大丈夫」
病院を出た後、車の中。
私は兄の言葉を遮って言った。
「バスケ、やめる」
葛藤はあった。続けるだけなら、麻酔を打つとか、色々な手段があるのだと思う。しかし、それでは意味が無い。
一番になる。それが私の夢。
その夢は、もう決して叶えられない。
「兄さま、心配してくれてありがとう。でも大丈夫。自分で解決する。だから何も言わないで。お願い」
そしてバスケの無い日々が始まった。
普通を演じた。これまでと変わらない自分を演じた。
高校生になった──気持ち悪い。
多くの友人を作った──気持ち悪い。
色々なことをした──気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
ある日、何気ない日常の中で嘔吐した。
それから無意味で無価値な日々が続いて、今に至る。
「…………あー、吐きそう」
身体を起こす。
自分のスマホを手に取って時間を確認する。
午前二時。
どうやら私は、また悪夢を見ていたらしい。
「……汗かいちゃった」
ゆっくりと部屋の外に出て、浴室へ向かう。
薄い部屋着を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
「……冷たい」
数秒後、冷水を浴びていたことに気が付いた。
お湯に変えようと手を伸ばして、途中で止める。
「……まあ、いっか」
感覚が麻痺している。皮膚だけじゃない。あの日からずっと、何をしても現実感が無い。ふわふわしている。
このまま心も麻痺して、何もかもどうでもいいと思えたらどれほど楽だっただろう。人生バスケだけじゃないと気持ちを切り替えられたら──大人になれたら、どれほど楽だっただろう。
「……寝よう。やることないし」
嘘を吐いた。やること、やるべきことは、沢山ある。
でも、どうでもいい。もう、何をしても、無意味だ。
「…………」
シャワーを止めて、軽く身体を拭いて、髪を乾かさないまま寝室に戻った。
ドアを閉めて、その位置からベッドを見る。
枕までの距離、ざっくり三メートル。私は右脚を一瞥する。それから軽く膝を曲げて、頭から飛び込んだ。
「……っ!?」
枕には届いた。
「……こんな、ことで」
焼けるような激痛が走った。あれからもう二年近く時間が経過しているのに、あの日、病院で説明を受けた通り、症状は全く回復していない。
歯を食いしばり、両手で枕を握り締める。
痛みの無い左脚をカエルみたいに動かして、悶えて、悶えて──
「……もう、やだ」
痛みが消えた後、ぽつりと呟いて、目を閉じた。
眠気は無い。意識はふわふわしているのに、頭は冴えている。奇妙な感覚。
やがて、自分の意思とは無関係に過去の記憶が蘇る。
私が急に吐いて倒れた後、心配して部屋に来た人達の言葉が蘇る。
パパは繰り返し言っていた。
次は一時間とは言わない。全力でサポートする。だから、新しい道を探せ。お前には才能がある。それを捨てるのは、あまりに惜しい。
「……知らねぇよ。そんなこと」
バスケで一番になる。それが私の夢だ。それ以外には全く興味が無い。それなのに他人は好き勝手なことばかり言う。乙坂有紗は天才だとか、恵まれた環境が羨ましいとか、台本でもあるのかってくらいに口を揃える。
「……それ全部使っても、ダメだったよ」
親の力も、自分の力も、余すことなくバスケに捧げた。
それでもギリギリだった。国内の中学生を対象とした大会程度で、ギリギリだった。
もっと上の世界に出たら?
アメリカの最強チームを相手にしたら?
「……恵まれてる程度で、なれるほど、甘くねぇんだよ」
私の夢は、一番になることだ。
それ以外は全て無意味。それ以外、眼中に無い。
「……勝手なことばっか言いやがって。決めつけてんじゃねぇよ」
こんな荒々しい言葉遣い、普段の私なら絶対にしない。
情けない。惨めだ。分かってる。自覚してる。それでも感情を抑えることができない。
「……他人の価値基準なんか知らねぇよ。黙ってろ」
例えば紛争地帯に生まれたら、その瞬間に不幸なのだろうか。
ああ私は不幸で可哀想な存在だと嘆きながら生きることしか許されないのだろうか。
例えば資産一兆円の親を持ったら、その瞬間に幸福なのだろうか。
ああ私は幸福で誰もが羨む存在だと鼻を高くして生きることしか許されないのだろうか。
間違ってる。
他人が決めることじゃない。
「……私の感情は、私だけのものだ」
バスケで一番になる。
それが私の夢。その夢を叶えるためだけに生きていた。
それを失った気持ちが、分かってたまるか。
本気で一番を目指したことの無い連中に、欠片でも理解できてたまるか。
私には、諦める以外の選択肢が無い。
あいつと観たアニメとは違う。都合の良いハッピーエンドなんて、どこにもない。
誰よりも理解している。でも、選べない。諦められない。
宝くじに百回連続で当たるような希望を捨てることができない。
明日、新しい治療法が見つかるかもしれない。
実は診察に間違いがあって、一秒後に完治するかもしれない。
──そんなこと、あるわけないのに。
輝かしい夢は苦痛を伴う悪夢に変わった。
私の夢は叶わない。私には、諦める以外の選択肢が無い。
「……誰か、終わらせて」
静かな部屋。
虚空に向けて投げかけた言葉は、もちろん誰にも届かない。
誰かに届いたとしても、きっと結果は変わらないだろう。
私は諦めることができない。しかし、諦める以外の選択肢は存在しない。
ああ、こんなにも残酷なことが他にあるだろうか。
キラキラ輝く夢で子供を誘き寄せて、真っ黒な現実で何もかも踏み躙る。何も知らず夢を見た子供は、いつまでも現実を受け入れることができない。涙が出る程に恐ろしい悪夢が、いつまでも終わらない。
本当に愚かな子供だった。
夢なんて見なければ良かった。
もう奇跡なんか望まない。
だからどうか、さいごにひとつだけ、小さな願いを叶えてほしい。
──何もかも、終わりにしてください。
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