子供の夢 5


 彼女は不思議な服を着ていた。上下共にゆるめの黒い服で、あちこちに白色の温泉マークがある。


 気になることは多いけれど今は忘れる。

 重要なのは、多分それが部屋着であるということ。


 つまり彼女は翼の同居人なのだろう。


 彼の親という可能性は極めて低い。若過ぎる。

 まだ大学生か、もしかしたら高校生かも知れない。


 ……妹だったら嬉しいなあ。


 心の中で祈る。だって睨まれてる。すっごい睨まれてる。これでもしも彼女さんとかだったらアバババ。


 大丈夫、きっと妹。だってほら、雰囲気が似てる。例えば……そう、あの鋭い目付き。翼がケンちゃんに向けていた目と似ている……ような……気がする。


 ……お願いっ、妹っ、私は何も悪くない!


 心の中で必死に祈る。

 数秒後、彼女は静かに口を開いた。


「は?」


 大丈夫、まだ慌てるような時間じゃない。

 きっと今のは「ごきげんよう」のリアルバージョンだ。お嬢様が庶民に向ける一般的な挨拶に違いない。


 なら私はごきげんようと返事をするべきだろうか。それとも郷に入っては郷に従えの精神で「は?」と返事するべきだろうか。それとも……アバババ。


 ヘイ翼! ヘルプ! ユーの妹でしょ!? 妹なんでしょ!? 妹にしろ! お願い!


 私は過去最高クラスに熱い視線を送る。

 彼は顎に手を当て何やら思案している様子だった。


「うん、ちょうどいい」


 やがて独り言のように呟き、私に目を向ける。


「彼女は有沙ありさ。俺の妹」


 いいやっほぉぉぉぇええやっしゃらぁああいぁ!


「歳は十七。高校生だが、一年ほど通学していない」

「ちょっ、何話してんの?」

「だが最低限の知識はある。そこで提案」


 説明を始めた翼。低い声で割り込む妹さん。無視して話を続ける翼。溜息を吐いて舌打ちした妹さん。


 以上、私のハッピーな感情を一瞬で打ち消した険悪なやりとりである。


 ……提案、聞きたくないなあ。


「愛にビジネス知識を教える役目は有沙に任せる」

「はぁ?」

「愛には有沙を指導してほしい」

「ふぇ?」


 

 *  *  *



 私っ、佐藤愛28歳!

 あのね! 私ね! 今IQ500くらいあるよ!


 なぜでしょう? なぜでしょう?

 答えは~! ……じゃんっ! お嬢様の家庭教師を始めました~! ぱちぱち~!


「マジありえない」


 ん~! ど真ん中に豪速球ストラーイク!

 キャッチャー愛ちゃん吹っ飛んだー! ぬわー!


 ──つらい。


 翼お兄様、聞こえますか?

 わたくし心が折れそうです。


 本日は土曜日。

 弊社の塾は年中無休。


 普段の私が休日を取得する方法はふたつあります。


 予約が無い日に休む。

 ケンちゃんを生贄に捧げる。


 今回、前者は使えません。完売です。

 後者も使えません。社長様は出張中です。


 従って私の休日は天に召されました。


 まあいいです。お詫びです。

 めぐみんと開発していた分は目を瞑りましょう。


 さて、最後の受講生が帰宅した後、私とめぐみんは翼ルームへ移動。荷物を机に置き、椅子に座ると翼が言いました。


「早速で悪いが有沙を頼む。三十分で構わない」


 正直、気乗りしません。

 私が微妙な態度を見せると、彼は机に何か置きました。


無料ただとは言わない」


 こうして札束で殴られた愛ちゃんは、有沙お嬢様の部屋へ直行したのでした。──嘘です。嘘だよ!


「いやいや、受け取れないですっ」

「足りない?」

「そうじゃなくて」

「頼む。愛の力を借りたい」


 ……ぐ、ぐぬぬ。イケメン特有のパワースタイル。


「何か、事情があるんですか?」

「……俺から話すことはできない」


 彼は珍しく目を泳がせた後、消え入りそうな声で言った。


 とても意味深な態度。

 ぶっちゃけ見えている地雷だ。他人様の複雑そうな家庭事情に関わるのはハードルが高い。これを飛び越えるには大きなパワーが必要だ。


 そんなパワー、私にあるのだろうか? いや、ある。

 だってだって、推しがっ、困ってる! 貢がなきゃ!


 ──推しに貢ぐ。

 一見すると不可解な行動だ。


 例えばアニメ。現代は月額数百円で多くのアニメを視聴できる時代。しかしオタクは、たった一作品しか収録されていないBDボックスに数万円を支払う。


 なぜ? ……ふふ、愚問ですね。

 あなたは呼吸をすることに理由を求めるのですか?


「分かりました。ちょっとだけ話してみます」

「助かる。部屋に案内するよ」

「恵は?」


 めぐみんが私の腕を引いて言った。


「俺と話をしよう。恵には保守と運用の視点が欠けている」

「……ん」


 私は翼の言葉を聞いてハッとした。

 先日、私達の議論は微妙にすれ違っていた。その理由が分かった。


 ……めぐみん優秀だから気が付かなかった。


 開発の目的は開発ではない。

 完成した成果物を使うことである。

 

 完成する前と後ならば後の方が長い。だから設計図を作る際には完成した後について考える必要がある。めぐみんには、そういう視点が欠けていた。


 かくして──


「マジありえない」


 妹さんの部屋に突撃した私は、初手から豪速球を受けて心が折れそうだった。


 ……こ、高校生、怖い。

 でも負けない! 私だって元高校生! むしろ上位互換だオラァ! 大人のコミュ力見せてやんよ!


「こんにちは、佐藤愛です。有沙ちゃんって呼んでもいいかな?」


 にこにこ挨拶すると、ベッドに座って私を睨んでいた彼女は、舌打ちをして目を逸らした。


 ……あらあら、ヤンチャですこと。


 私は反抗期に突入した姪っ子を見守るオバ──お姉さんの気持ちで、一歩前に出る。


 部屋の広さは六畳だろうか。

 左手に机、ひとつ奥にベッドがあり、身体を起こした妹さんが壁に背を預けて座っている。


 右手側にはスタンドミラーがあるだけ。いや、壁に取手が見える。収納があり、余計な物は片付けられているのだろう。


 良く言えば整頓されている。悪く言えば生活感が無い。まるで見学用のモデルルームみたいな部屋だ。


 明かりは机に置かれたテーブルランプと彼女が手に持ったスマホの光だけ。薄暗くて、不気味だった。


 私は意図的に足音を鳴らしながら歩いた。しかし、どれだけ近付いても彼女の視線がスマホから私に向けられることはなかった。


 ……隣に座っても無視されるとは思わなかったよ。

 

 勢いで彼女の隣に座った結果、まさかの無視。

 どうしよう。肩に頭を乗せて寝息のひとつでも聞かせれば流石にリアクションがあるだろうか。いや、拳で返事されそうなのでやめておこう。


 ……ほんと、どうしよっかな。


 現在の関係値は最悪に近い。彼女は会話を拒絶している。この状況で何を言っても「うっせーわ」と好感度を下げる結果になるだろう。


 一方で彼女は私の接近を許している。だから完全に拒絶されているわけではない。と信じたい。


 つまり、次の言葉が大切だ。


 制限時間は三十分。お互いの情報はゼロに等しい。私も彼女も相手のことを何も知らない。この状況を打開する手段、それは──


「有沙ちゃん、イケメンと美少女どっちが好き?」

「…………はぁ?」


 よしっ、リアクションゲット!


「ね、どっちが好き?」

「……バカなの?」

「美少女かぁ~」


 なんだこいつという視線が突き刺さる。

 でも平気。私はスマホで動画配信サイトにアクセスして、美少女が出てくるアニメを再生した。


「一緒に観ようぜ!」


 アニメは全て解決する。同じ釜の飯を食った仲という古い言葉があるけれど、現代における釜の飯はアニメなのである。古事記にもそう記されている。


「……バカなの? 観るわけないじゃん」


 彼女は心底呆れた様子で言った。それからスマホ操作を再開したので、私は自分のスマホを上に重ねて妨害する。彼女は再び舌打ちをした。


「……は? なんで泣いてんの?」

「だって、ロゴが……ロゴが出てる……」

「……だから?」


 私は困惑しているお嬢様に説明を始めた。

 このアニメは二十年以上続いている作品の完結編なのだが、多くのファンは完結編の視聴を諦めていた。会社が倒産したのである。制作中止が公式に発表され三年間音沙汰無し。しかし初期から関わっていたスタッフと熱心なファンの活躍によって奇跡の復活を遂げたのである。もちろん私もクラウドファンディングの支援者として──


「もういい。長い。うざい。興味ない。早口キモい」

「おひゃぁっ、ミルノたん出たぁ! ぎゃわゆぅ!」

「……は?」

「ほらほら始まるよ。ワクワクするね!」

「……バカなの? てか完結編から観せられても分かるわけないじゃん」

「安心して! 一話ほぼ前作までのあらすじだよ!」


 大きな溜息が聞こえた。彼女は明らかに不機嫌だけど、私を追い出そうとはしない。なぜだろう? 頭の片隅で理由を考えながら、私はアニメに集中した。


 アニメは一話あたり約二十四分である。

 約束の時間は三十分。少し余る。そこが勝負。


 心の栄養を補給した後ならば、少なくとも普通に話ができるはずだ。私はアニメの力を信じている。


 我ながら完璧な計画。このアニメを視聴した後、それでも心を開かない人類など存在するはずが──


「くっだらない。対象年齢五歳とかでしょ、これ」


 未確認生命体!?


「そんなことないよ! 大人も大好き!」

「身体だけ大きくなって可哀想」

「……っ!?」


 一般の方って、いつもそうですよね! オタクのことサンドバックか何かだと思ってないですか!? 少しは私達の気持ちも考えてください!


「こんなもの、二十年以上も……バカみたい」

「…………」

 

 ファンとして許せない発言だ。しかし、怒りよりも先に疑問が生まれた。バカみたいという言葉が、彼女自身に向けられているように思えたからだ。


 初めて見た時から不思議に思っていた。

 彼女は、どうしてこんなにも苦しそうなのだろう。


「あのさ、あんた、なんなの?」

「愛ちゃんです」

「いや名前とか聞いてねぇし」


 鋭いツッコミ。

 彼女はまた大きな溜息を吐いて言った。


「あんたで六人目。この部屋に入ったの」


 彼女は両膝を抱き寄せて顔を埋めると、消え入りそうな声で言った。


「……あんたが一番バカ。ビジネス知識とか指導とかなんだったわけ? ……あー、もー、うざい。会話する気なかったのに……ほんとうざい」


 その言葉を聞いて確信した。

 彼女の悪態は私に向けられたものではない。


 ……何が、あったのかな。


 翼は「俺から話すことはできない」と言っていたけれど、彼は事情を知っているのだろうか?


 知らないから聞き出して欲しい。知っているけれど本人から聞いて欲しい。どちらにせよ私のやることは変わらないけれど、この一点だけは確認した方が良さそうだ。


 私は頼まれてここにいる。

 彼女の発言から察するに、私は六人目らしい。


 ……それは、うざいよね。


 もちろん六人の中に翼や他の家族がカウントされている可能性もあるけれど、デリケートな部分に何度も触れられたら誰でも嫌になるだろう。


 ……やっぱり断れば良かったかな。


 最初から見えている地雷だった。

 私が無理に関わる理由は無い。だけど──


「また来るね」


 私は勧めた作品をボロクソに言われて引き下がれるような緩いオタクではない。絶対リベンジしてやる。


「また来るねっ」


 大事なことなのでもう一回。

 しかし彼女は目線すらくれなかった。


 膝を抱え俯いている。

 その横顔は長い髪に隠れて見えない。


 私はしばらく言葉を探したけれど、何も浮かばないから素直に退散することにした。


「待って」


 部屋から出る直前、声が聞こえた。

 幻聴かと思いながらも振り返ると、目が合った。


「……名前、なんだっけ?」

「佐藤愛。愛さんとお呼びなさい」

「……うざい。呼ばないし」

「えへへ、冗談だよ。またね」


 まさか声をかけてくれるとは思わなかった。これは大きな一歩。次も頑張れるような気がする。


 こうして気分良く部屋を出た直後、私は翼とエンカウントした。


「どうだった?」

「……と、とりあえず話はできました」


 不意打ち、至近距離、熱い眼差し。心臓に悪い。

 私がどうにか人間の言葉で返事をすると、彼は驚いた様子で少しだけ目を大きくした。


「話せたのか?」

「……はい、ちょっぴりですけど」


 お兄様? まさか会話もできないと思ってました?


「あの、妹さん、何があったんですか?」

「俺から話せることはない」

「何も知らないってことですか?」

「……いや、知っている」


 少し間があって、彼は伏し目がちに言った。

 

「有沙は、何か言ってた?」


 彼が求めている言葉が分からない。多分質問しても明確な答えは得られない。難しい。もしもケンちゃんが同じことをしたらバーカバーカと叫んでいたかもしれない。でも今は推しが相手なので苦悩も幸福なり。


 そもそも、彼は私よりもずっと賢い。だから情報を隠すことには理由があるのだろう。気になるけれど、無理に聞き出す必要は無い。推しを信じよう。


 さて、彼女は何か言っていただろうか。

 最後に少しだけ心を開いてくれたけれど、他には悪口しか言われていないような気がする。


「特に思い浮かばないですね」

「……そうか」

「次も話してみます」

「ありがとう。嬉しいよ」


 はぅあ!? その笑顔で元気百倍です!


「め、めぐみんとの話は、どうなりました?」

「終わったよ」


 わっ、びっくりした。めぐみん翼の隣に立ってた。

 いつからだろう? 最初からかな? 親子みたいな身長差だから見えなかった……不覚です。


「愛、すごいね」

「でしょう?」


 よく分からないけれど胸を張る。


「先のこと、いっぱい考えてるね」

「うむ、くるしゅうないぞ」


 理由が謎だけど褒められるのは嬉しい。

 あーあ、全人類が私にひれ伏せばいいのに。


「がんばろうね」

「おー!」


 めぐみんがひたすら可愛い。

 こうして気合をチャージした私は、このあとメチャクチャ開発したのだった。


 

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