大人の夢 4
神崎さんが手配した車に乗ってから、どれくらい時が流れたでしょうか。
私は今、シンガポールにいます。シンガポールで、橋を作っています。嘘です。本当は人里離れた場所にいます。ちゃんと日本なので、同窓会にも行けます。
ケンちゃんにレインで怪文書を送信しました。
あ、すぐにスタンプが返ってきました。くまさんが首を傾けています。かわいいですね。無視しましょう。
スマホを上着のポケットに入れて、ちょっと脱力。いわゆる黒塗りの高級車に乗ったのは初めてですが、とても快適で驚いています。
運転席とは完全に隔離された空間。神崎さんは別件があるらしくて、今ここは、私の貸し切り状態です。
最初こそ緊張していましたが、飽きました。飽きを超越して悟りが開かれました。今の私は、つよつよです。きっと何が起きても驚かないことでしょう。
脳内で自分と会話をしていると、車のドアが開きました。そして優しそうな雰囲気のおじいちゃん──運転手さんと目が合います。
「到着いたしました」
「ありがとう」
優雅に感謝を述べて、車を降ります。
「こちらが山田様の住居でございます。わたくしは車でお待ちしておりますので、ご用件がお済みになりましたら、お戻りください」
「ありがとう」
私は目的地である一軒家に目を向けます。どうせまたタワマンなのだろうと思っていたので、大きなギャップを感じてしまいます。予想外です。
さて、ここは、どこなのでしょう。
見渡す限りの田と畑。私には田と畑の違いが分かりませんが、とにかく農業という感じの世界です。
ふふ、長閑な場所ですね。
普段の私なら驚きを隠せなかったでしょうが、今は悟りを開いた賢者ですから、へっちゃらです。
さてさて、目的地に目を戻します。
とても立派な玄関ですが、インターホンなどは、どこにあるのでしょうか?
『佐藤さん?』
ほにゃわ!?
……こほん、失礼、くしゃみです。
上の方から声が聞こえました。目を向けると、そこには監視カメラ。あらあら私ったら、こんなに大きなものを見逃していたなんて……ふふ、お茶目さん。
『もしもーし、聞こえてるー?』
「はい、佐藤です。神崎さんの紹介で来ました」
『……女の人だ。おっさんだと思ってた』
あらあら山田さん、呟きが漏れていますよ。
リアルの呟きもネットのつぶやきも常に誰かが聞いています。壁に耳あり障子にメアリーとはこのことです。戒めましょう。
でも気持ちは分かります。
神崎さんは電話で私を「エンジニアの佐藤さん」と紹介していました。この業界の男女比は壊れているので、エンジニアと聞けば普通は男性を想像します。
さておき、明らかに女性の声でした。私も山田さんは男性だと思っていたので、少し驚きました。
理系の世界は男女比が壊れています。
私の場合、会社の同僚は全て男性でした。
だから……ふふ、嬉しい気持ちになりますね。
百合ちゃんと同じように、仲良くしたいものです。
……続きがありませんね?
少し長い無音に首を傾けた後、足音。それからドアが横にスライドして、髪の長い女性が現れました。
私は軽く頭を下げて、挨拶をします。
「こんにちは、山田さんですか?」
「うん。山田
「佐藤愛です。呼び方は、ご自由に」
彼女は口元に人差し指を当てると、固まりました。
これは、呼び方を考えているのでしょうか?
それにしても小さくてキュートな方です。身長は、リョウと同じくらいでしょうか? でも彼とは違って表情が乏しいので、お人形さんという表現がピッタリです。
「……まあいいや。入って。段差、気をつけてね」
「はい。お邪魔します」
諦められました。
私は笑みを堪えながら家に入ります。
そして──これは、どういうことでしょうか。
「何してるの? 早く来て」
少し廊下を進んだ先で振り向いた彼女は無表情で、目の下には大きな隈があります。腰の辺りまで伸びた長い黒髪は、あちこち跳ねています。
そして彼女の背後。
廊下の壁と天井には、無数の呪符がありました。
ふふ、とても驚きました。まるでホラー映画です。
でも今の私なら……えっ、無理、これは悟れない。何これ、黒魔術の研究でもしてるのかな?
「ああ、なるほど。やっぱり、興味あるんだ」
ない、ナイ、無い、ノー! 興味ノーです!
悪魔的な存在は黒い執事だけで間に合ってます!
「いいよ。でも、まずは紹介させて」
えっ、えっ、えっ、えっ? 紹介? 何を?
「愛は、すごいエンジニアなんだよね。あの神崎央橙に優秀って言わせるくらい、すごいエンジニアなんだよね。ならきっと、恵の研究も理解できるよね」
理解できなかったら呪われそうな言い方やめて!!
「えへへ、一緒に世界を壊そうね」
はじめての笑顔っ、かわいいのに、台詞ぅ!!
「ほら、こっちだよ」
袖を掴まれた! もう逃げられない!
「ちょっと待ってね」
連行された場所は広い和室。
ここも廊下と同じで壁と天井に呪符。
山田さんは真っ直ぐ壁際の机まで歩いて、謎の機械を両手に、にこにこ笑顔で振り向いた。
「動かないでね」
……やだもう怖い。助けてケンちゃん。助けなくてもいいから代わって。私は横で見てるから!
「膝をついて目を閉じて」
跪いて目を閉じろ!?
「愛の腕、長いね。ちゃんと成功するかな?」
腕を使うタイプの実験ですか!?
私の腕どうなりますか!? 痛いのは嫌だよ!?
「上の服、脱いで。腕が見えない」
健康診断かな!?
血とか抜かれちゃうのかな!?
「じゃあ、始めるね。動かないでね」
ひんやり! 右腕に謎の感触!
ひゅわわっ、びりびりっ、痺れたよ!?
あひゃうっ、次は腰に圧迫感!?
にゃにゃにゃ!? なんか頭につけられた!?
「はい終わり。目を開けて」
恐る恐る目を開ける。
そこには、真っ白な壁があった。
一瞬、予想外の出来事に頭が追いつかない。
しかし、すぐにひとつの単語が思い浮かんだ。
「……ぶい、あーる?」
「正解。その壁、右手で押してみて。ゆっくりだよ」
仮想現実。
見知った技術。黒魔術なんかじゃない。
私はバクバクうるさい心臓の音を聞きながら、仮想の壁に向かって手を伸ばす。
……え、あれ? 何かあるのかな?
軽く叩く。硬い。
擦る。ざらざらする。
「擦らないで、押して。ゆっくりだよ」
ごくりと息を呑む。
壁に手のひらを重ねて、そっと押した。
「……すごい。これ、本当に何も無いの?」
「うん、無いよ」
本当に壁を押しているような感覚だった。
これは仮想世界なのだと色眼鏡をつけて、右手に意識を集中させても、まるで違和感が無い。
もっと力を強くしてみよう。
体重をかけて、思い切り壁を押す。
「あっ、それはダメ!」
「はえっ──あわわっ!?」
体重をかけた直後、私は前に倒れた。その感覚だけは分かるけれど、目の前には変わらず白い壁があるだけで、床との正確な距離が分からない。
果たして私は、受け身に失敗して頭をぶつけた。正確には、頭に装着された機械をぶつけた。膝立ちだったからダメージは少ないけれど、普通に痛い。
「……おおぅ」
両手で顔を抑えていると、ぽんと肩を叩かれる。
「手、退けて。それ外すから」
言われた通り手を退かす。
すぐに頭の機械が外された。
「だいじょうぶ?」
「……うん、なんとか」
私は急に変化した視界に少し戸惑いながら、背後を見た。そこには、やっぱり壁なんて無い。
「どうだった?」
「……えっと、すごかった」
「壁、違和感なかった?」
「そう、だね。本当に壁があると思った」
質問に答えて、右腕に目を向ける。
そこには見たことのない機械があった。
一言で表現すれば、すっごい未来。
手首と肘、肘と肩。全部で四箇所。関節の部分に、リストバンドみたいな機械が取り付けられている。
それぞれの機械は白くて細い棒のようなもので繋がっている。ぐるっと腕を囲むように等間隔で四本。肘の前後で、合わせて八本。
軽く腕を振ってみる。
見た目はゴツいのに、羽のように軽かった。
恐る恐る指先を伸ばして、棒に触れる。
……あっ、思ったより硬い。なんだろうこれ。
さらに観察を続ける。
よく見ると肩の部分にある機械は他よりゴツくて、カラフルなコードが、床に置かれた黒い箱に向かって伸びていた。多分、触っちゃダメなタイプ。
私は腰をギュッとされたことを思い出して、目を向ける。ここにも腕にあるものと似たような機械があって、肩にある機械と白い棒で繋がっていた。
カタカタ。
突然のタイピング音に目を向ける。
最初に機械が置いてあった机。
そこにはモニターが四台。横長のモニターが上下にふたつ、それを挟む形で縦長のモニターがふたつ。
山田さんは立ったままキーボードをカタカタしていた。やがて音が止まったけれど、少し待っても彼女は動かない。
「……あの、山田さん?」
近付いて、覗き込む。
その横顔を見て、私は言葉を失った。
鬼気迫るという表現でさえ生温い。彼女は、私に恐怖を与える程の集中力で、モニターに表示されている様々な図を見ていた。
一歩、身を引いた。
彼女が放つ威圧感から目を逸らして、そこで無数の呪符が目に入った。
……違う。これ、呪符なんかじゃない。
近付いて、しっかりと内容を確かめる。
すぐに論文の類だと分かった。呪符のように見えた記号の正体は、どれも未知の数式だった。
ゾクリとして、他の場所にも目を向ける。
壁一面を埋め尽くす呪符。その全てが研究の足跡。
私はオカルトよりも強い恐怖を感じた。
一応は理系の大学を出ているから、研究をして論文を書いた経験がある。
論文は量が多ければ優れているというものではない。そもそも現代では、データをデジタルで管理することの方が多い。
それでも、あえて印刷する場合がある。
ペンで何か書き込んだり、手に持って眺めたりする場合には、紙の方が便利な場合がある。
要するにこれは、メモなのだ。
何か重大な発見をしたとき、あるいは分岐点に立たされたとき、それを印刷して、いつでも確認できるよう壁に貼り付けたのだろう。
きっと最初は一枚だった。
しかし研究が進む度に数が増えて、やがて天井まで埋め尽くすようになったのだろう。
……これ、もしかして。
私は部屋の中央で仰向けになる。
そして、直前の直感が正しいと気がついた。
壁を埋め尽くすメモは、無秩序に貼られているわけではない。
私が仰向けになっている位置。
この場所から全て見えるようになっている。
私の視力では細かい文字を読むことはできない。
しかし一部の数式は、とても目立つフォントをしていて、鮮明に読むことができる。
……そっか、だから呪符に見えたのか。
数式は、何らかの法則を表現する言語だ。
完全に理解した後には、数式さえあれば他には何もいらない。しかし初見の場合には、数式だけ見ても呪文か暗号にしか思えない。
……どこから始まってるのかな。
最初の一枚を探していると視界に黒い影が現れた。もちろん山田さんである。彼女は目をキラキラさせて、興奮した様子で言った。
「分かるの?」
主語が無い言葉。
でも、なんとなく理解した。
「ここから、全部見えるんだよね」
山田さんの口が微かに開いた。
それはとても小さな表情の変化。だけど、心の底から驚いていることが雰囲気で分かる。
「愛は、専門の人?」
「ううん、全然知らない。だから内容はさっぱり。でも、ここから見えることだけ、分かった」
理由はきっと、似たような経験があるからだ。
オルラビシステムの開発中、目を閉じる度に、この景色を見ていた。私は頭の中で処理するタイプだから紙とか滅多に使わないけど……とても、懐かしい。
もう一度、右腕の機械を見た。これは、壁と天井を埋め尽くしても足りない試行錯誤の果てに生み出された機械だ。
この部屋だけじゃない。家中に貼り付けられたメモを全て使って生み出されたのが、この機械なのだ。
どれほど考えたのだろう。
想像しただけで胸が熱くなる。
「教えて」
ほとんど無意識に口を開いた。
「いいよ」
彼女は無邪気に返事をした。
「どこから知りたい?」
「最初から、最後まで、全部」
「そっか。えへへ、今夜は寝かせないからね」
専門家と呼ばれるような存在は、その道を進む者にしか理解できない言語を扱う。もちろん代表的なのは専門用語だけど、それだけじゃない。
彼女が壁一面に数式を刻んだこと。
私が法則を理解して床に寝転がったこと。
たったそれだけで、私と彼女の脳内では、原稿用紙を千枚使っても足りないような情報が処理されたのだと思う。
一言で表現するならば、一目惚れ。
これは運命的な出会いなのだと、そう思った。
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