夢物語のその先へ 4
お祭り騒ぎだった。
学校に泊まって学祭の準備をするみたいな慌ただしい日々だった。
私に手伝えることは無いけれど、せめて輪の中に入って応援しよう――はい、これ間違い。勘違い。断言するけど私が一番大変だよ! なんでだー!
回想!
――事件は、会議が終わった後に起きた。
「へいへい旦那ー、儲かってまっかー?」
私はニヤニヤしながら鈴木に声をかけた。
「どうしたの佐藤さん、急に」
「だってほら、一人五万円で四千人。二億でしょ? 利益ガッポガッポでしょ?」
「あー、そういうことか」
鈴木は軽く肩を揺らす。
それから少し考えるように「うーん」と言って、
「利益は最終日の売り上げ次第かな」
「最終日? 何か売るの?」
「そろそろ届くと思うよ」
意味深なことを言った鈴木。
数分後、本当に届いたのは大量のダンボール。
ひとつ、開ける。
現れたのはスマメガと、私が改造するために使用したパーツ。その数、全部で――
「2500セットある」
「……まさかとは思うけど?」
「佐藤さん、君だけが頼りだ」
「……イベント、いつだっけ」
「あと二週間だね」
二週間。つまり一日あたり約180個。
ひとつ10分で完成させたとして……うんっ、1日あたり30時間作業すれば間に合うね!
「おい鈴木、頭大丈夫か?」
「佐藤さん、君だけが頼りだ」
「物理的に無理! てかもっと早く言え! 私だけ全然情報共有されてないぞ!」
パチっと手を合わせた鈴木。
「ごめん。佐藤さん、君だけが頼りだ」
「このポンコツ経営者! 跪けー!」
あーもー見直して損した!
なんだこいつ! 「ここからはボクの仕事だ」とかなんとか言ってたの口だけかコラー!
突然のデスマーチ発生。
私は鈴木をポカポカ叩いて抗議した。
「そもそもワンセットいくらするのこれ!」
「五万円と消費税」
ざっくり計算でイベントの収入がほぼ消える!?
そもそも、前提条件におかしな点がひとつ。
「どこにそんな予算あったのさ!」
「ないよ」
「えっ」
「入金をイベント後にしてある」
……ええっと?
「もしイベントにヒトが集まらなかったら……?」
「ボクは破滅していただろうね」
……ええっとぉ?
「佐藤さん、ノーリスクで未来を掴む方法があるならば、とっくに誰かが試していると思わないかい」
そう言った鈴木の目は、据わっていた。
「なーんてね。勝算があってのことだよ」
「……はい」
私は起業という一見すると華やかな世界の闇みたいなものを感じ取りながら、ちょっと真面目に考える。
今回のイベントの目玉はスマメガ。スマートメガネという新しい技術とAIを組み合わせたエンジニアのマッチングである。
冷静に考えれば、参加者全員分に加えて予備のスマメガを用意するのは当然だ。だからこそもっと前から準備するべき――という文句は今更もう遅い。現実的な打開策が必要だ。
「初日に1時間くらいセットアップする時間を設けるとかダメなの?」
「ああ、それはいいアイデアだね」
「でしょでしょ!」
「でもごめん、無理。もう予定決まっちゃってる」
「なんでさー!」
上げてから落とす鬼畜!
「おいイカれ女、いつまで騒いでやがる」
「だってだって!」
「黙れ。そしてさっさとオレに作り方を教えろ。騒ぐのはその後にしやがれ」
「……まあ!」
あらあらこのツンデレさん! お手伝いしてください奉ると申し立てられらりるれろ?
「おまえはほんっと、かわいいなー!」
「だからいちいち触んじゃねぇよイカれ女」
本当に嫌そうなのでウザ絡みをやめる。
さて手が増えるのはありがたい。1日あたり15時間ならとっても健全……なのかな?
「わくわく」
「……ぁゎゎ」
ま、これは、まさ、これは、まさか……っ!
「……て、つだって、くれます?」
「もちろん」
好き! あーもう翼様大好き!
ほんわかイケメンでしかも優しいとか完璧過ぎる!
本当にありがたい。三人なら1日あたり10時間。月に20営業日あるとして残業時間は40時間! 労働基準法を守ってるから実質ゼロ! 楽勝!
「よーし! がんばるぞー! おー!」
「おー」
「……おう」
たのしいこうさくが始まった。
私はまず翼様の理解力に驚いた。なんと、一回見せただけで作業を覚えてしまったのだ。好き。
一方でリョウはかわいかった。なかなかの機械音痴で、一人で作業を任せられるようになるまで一時間近くかかった。
作業を覚えた後も、手先が不器用なのか、何度かパーツを落として「……くっ」と悔しがっていた。逆に一発で成功した時なんかは「……ふっ」と満足そうな顔をしていて、私は頭をなでなでしたい欲求と戦うのが大変だった。
そしてここで単純作業あるある。
単純作業をしているエンジニアは高確率で「最適化」したい衝動が生まれる。右手が疼くのである。
最初は十分かかった。これが二時間程度の作業を通して最適化され七分となった。
1カップラーメンの削減。割合で見れば三割と素晴らしい成果だけれど、この程度で満足していてはエンジニアを語れない。
私は作業を続けながら考える。
七分。それは物理的な限界値。
さて、ムーアの法則というものがある。コンピュータの計算速度が18ヶ月で2倍になるというものだ。
とても不思議だけれど、実際にコンピュータの成長はムーアの法則に従っていた。私は長期的に成果を出したいエンジニアがあえて成長速度を調整しているのでは、なーんて邪推をしているけれど、とにかく不思議な法則が存在している。
近年、ムーアの法則が崩れ始めている。
理由はシンプル。物理的な限界が見えたからだ。
今、私は同じ問題に直面している。
これ以上の加速は物理的に不可能。
ならば解決策はひとつ。
一人でダメなら二人! つまりは並列化!
私は作業工程に含まれる「待ち時間」に着目した。機械の性質上、どうしても待たなければダメな時間がある。この時間に別のスマメガを処理すれば――
果たして私はムーアの法則を超えた。ひとつ七分だった作業が、みっつで十五分にまで短縮された。
ああ、素晴らしい達成感だ。
そして…………うん、飽きた。
エンジニアあるある。
やり遂げた直後は遊びたくなる。
もちろん遊ぶ余裕などない。しかし、なんかこう、急激にモチベーションが下がるのだ。
こういう時、私は他人に絡む。
もちろん迷惑な自覚はある。だから相手は選ぶ。
翼様。
……ぁゎゎ、真剣な表情でサクサク作業を進める翼様、国宝級のイケメンだよぉ~>< これは邪魔できない。
リョウ。
……うん、かわいい。なんかもう、子供。はじめてもらった玩具でご飯の時間も忘れて遊んでいるみたいな、とっても微笑ましい感じ。これも邪魔できない。
鈴木。
朝からずっと忙しそうに電話している。
電話中に絡むのはマナー違反だ。私でも最低限の常識は理解している。マナーは守る。だから電話中の人には絡まない。というわけで電話中の鈴木に絡むのはセーフ。きっとセーフ。
「……」
何も言わず隣に立ってニコニコする。
鈴木は忙しそうに電話しながら「なに?」と目で問いかけてくる。でも私はリアクションを返さない。
やがて電話を終えた鈴木。
ふぅと息を吐いた後で、私に声をかける。
「どうしたの?」
「遊ぼうぜ!」
「直球だね」
鈴木は苦笑する。
「休憩は自由に取っていいからね」
「ケンちゃんは休まないの?」
「そうだね。発注と調整、それから受講生の対応がある。ありがたいことに暇が無い」
「わーお、超ブラックだ」
そうだね、と再び苦笑した鈴木。
休まず働き続けること。労働基準法的にはアウト。しかし鈴木の目は深淵を見ていたりしない。キラキラと輝いている。
それは
ああ、そうか。
だから眩しいのか。
「んじゃ、休憩もらうね」
「うん、おつかれ」
鈴木は微笑んで、次の電話を始めた。私はその横顔をちょっとだけ眺めてから、リョウに突撃する。
「飯行こうぜー!」
「のわっ!? テメっ、このイカれ女! 失敗したじゃねぇか!?」
「わははは、ドンマイドンマイ! それよりメシ!」
「ふっざけんな一人でいきやがれ。あとこれ直せ」
「ちぇー」
私は唇を尖らせながら修理を始める。
ついでに、リョウが苦戦していた部分のスマートなやり方を見せてあげる。お詫びです。
「ほい完成っ」
「……おう」
何か言いたそうなリョウ。
「もっかい見せたげよっか?」
「マジ――なんでもねぇ! とっとと飯行けこのイカれ女!」
「あははは、こわーい!」
子供っぽいイタズラをして退散する。
「ほんっとテメェはっ、プラマイゼロにならなきゃ死ぬ病気にでもかかってんのか!」
「聞こえなーい!」
キャハハと笑って事務所の外へ。
にこにこ笑顔で階段を駆け降りて……足を止めて……はぁ、と息を吐き出した。
「……眩しいなあ」
アニメやマンガの世界には、時間逆行という人気のジャンルがある。もちろん現役の少年少女が触れても面白いけれど、大人と子供では、どうしても視点が異なる。
二度と戻らない青春。
お金とか、生活とか、将来のこととか全て忘れて、何かひとつの夢を追いかけることが出来た時間。
例えば部活で全国大会を目指すこと。
私には、そういう思い出は無い。それなりに充実した青春を過ごしたと思うけれど、誰かに語れるようなエピソードは持っていない。
二度と戻らない青春。
大人になってから青春物語を目にすると、ふとした瞬間に、登場人物達が眩しく思える。
ケーキ屋さんになりたい。プロスポーツ選手になりたい。子供の頃に描いた夢物語は、現実を知るほどに記憶から薄れていく。私たちは、大人になるほどに、夢から覚めていく。
もちろん大人になってからも楽しいことはある。私にとって、仲間と一緒にオルラビシステムを開発した日々は宝物だ。
でもそれは、夢物語なんかじゃない。
どうしようもない現実の中で、必死に抗った物語。
だから眩しい。
きっと彼は私なんかよりも残酷な出来事を多く経験している。とっくに夢から覚めた大人になっている。それでも、全国大会を目指す部活みたいにキラキラしている。
まるで強くてニューゲームだ。
その姿を見ていると、大人ぶって色々と冷めた見方をしている自分が、とても矮小な存在に思える。
「……あー、あー、あー」
微妙な感情を鳴き声で表現してみる。
なんだか虚しくなって、思わず苦笑する。
私は、悩みが無さそうとか、精神だけ小学校を卒業できなかったとか、そういうことをよく言われる。
そんな人、いるわけないじゃん。ばーか。
「……あー、やばい。私めんどくさい」
今になって、思い出す。
いつも目の前のことに必死で、常にそれなりの結果で満足して、きっと皆が口を揃えて言う「普通の人生」を歩んでいた。
オルラビシステムは、生まれてから初めて、必死になってやり遂げた仕事だった。
今になって、今になって思い出す。
あれは私の全てだった。私は、誰かに話せるような思い出を他に持っていない。
だから、溢れ出す。
今になって溢れ出す。
「……何もない。何もないよ」
今、あのシステムはどうなっているのだろう。
きっと後任の人たちはすごい苦労をしている。会社の業務もいくつか滞っているのだろう。だから会社は、私を連れ戻そうと連絡してきた。
断った。今更もう遅い。
いけないと分かりつつも、いい気味だと思った。
私は、弱い。
ちっぽけで空虚な悪者だ。
それでも、今は……これからは――っ!
パンッ、両頬を叩く。
気持ちを切り替えるルーティン。しかし今日に限って上手くいかない。二度、三度と繰り返す。
ちょっぴり頬が痛くなったところで、立ち上がる。
「休憩おわり!」
強がりを言って、センチメンタルを吹き飛ばす。
そして祭りに参加する。事務所に泊まるようなことにはならなかったけれど、イベント期間までは、本当に、ずっと学祭前みたいな雰囲気だった。
そして、イベント三日前。
ついに2500台のスマメガが完成した。
「終わったー!」
叫ぶ私。はぁぁと魂が抜けたような声を出しながら天井を見上げる男三人。
いやはや大変だった。
普通に作るだけでもキツいのに、いくつか初期不良っぽい症状があった。どうにか直せたけれど、何というか脳が千切れそうな時間だった。
「あとはイベントだけだね!」
「うん、そうだね」
鈴木は疲れた様子で言う。
「佐藤さん、参加者数、確認してもらえるかな?」
「なんで?」
「一応キャンセル無料の契約だからね。先週リマインドメールを送って、どこまで減ったか確かめたい」
「わーお、めちゃくちゃ嫌な作業だ」
私は床に転がっているスマメガを踏まないように気を付けながら、部屋の隅に置いた鞄からスマホを取り出す。直ぐにアプリを起動して――
「あれ?」
「どうかした?」
38。
二桁足りない。
バグったかな?
そう思って画面を更新する。
――32
「鈴木っ、パソコン出して!」
「えっと、何かあった?」
「いいから早く!」
「わかった。直ぐ出すよ」
数分後、私はアプリのログを表示した。そこには、目を疑うような数のキャンセル履歴があった。
「……なんで?」
「おい説明しろ。なんだこの文字。どうなってやがる」
私はリョウの言葉を無視してプログラムを確認する。こんな勢いのキャンセルありえない。何かシステム的なミスがあったと考える方が自然だ。
――リリリリ、事務所の電話が鳴る。
私たちは互いにアイコンタクトをして、鈴木が電話に出た。
「はい、こちら合同会社KTRの鈴木です」
健太、翼、リョウのイニシャルでKTR。
おうケンちゃん、お前イニシャルNじゃなくて良かったな……なーんて冗談を言える余裕は、この電話と共に消え失せた。
「あー、鈴木さん。あなたとは初めましてだね」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「おっとおっと、これは失敬」
眉を寄せる鈴木。私たちに視線を送って、電話機のボタンを押した。それは音声をスピーカに切り替えるボタン。
「そこに佐藤愛は居るかな?」
少し年配の男性の声。
「はい、佐藤愛は、こちらに居ります」
「おー、それは良かった。今日は彼女に……いや、その前に自己紹介だったね」
年配の男性は機嫌が良さそうな声で言う。
「私は、佐藤愛がふざけたシステムを残した会社で、新しく社長になった者だよ」
鳥肌が立った。
なぜ、どうして。多くの疑問が浮かぶ。混乱する。
「いやぁ残念だったね。せっかくのイベントだけど、もう参加者は残っていないんじゃないかな」
それは、答えを言っているようなものだった。
「鈴木くん、だったかな? 君には同情するよ」
今何が起きているのか、もう頭では分かっている。しかし心が結論を拒む。違う、嘘だ、そんなはずない。ありえない。
「佐藤愛という地雷を抱えたせいで、お互いに苦労するね」
「お言葉ですが、この電話は録音しています。当社の従業員を侮辱するならば、それ相応の覚悟をして頂きたい」
「覚悟? ははは、面白いことを言う。いったいに君に何が出来る? まさか法の下に人は平等などと信じているのか?」
穏やかな男性の言葉が醜悪で獰猛な言葉に変わる。
「佐藤愛、聞こえているか? 社長の鈴木くんと君は幼馴染なんだって? いやぁ、せっかく拾って貰えたのになあ。君のせいで、鈴木くんの計画は大失敗だ」
「黙れ!」
鈴木が大声で言う。
しかし男性は、それを覆い隠す程の声量を出す。
「なあ佐藤愛! 貴様のせいで私の経歴に傷がつきそうだよ! だから報いを受けてもらった!」
私は耳を塞いだ。
「どんな気分だ? 頼む声を聞かせてくれ。どんな気分だ?」
それでも声を消すことは出来ない。
鈴木が、ケンちゃんが聞いたことも無いような声で叫んでいるけれど、それよりも大きな声で、呪いのような言葉が、指の隙間から入り込む。
「佐藤愛! 自分のせいで恩人の人生がめちゃくちゃくになるのは、どんな気分だ! さあ――」
ブチっ、と、鈴木は電話を切った。
それから電話線を引き千切るような勢いで抜いて、思い切り机に拳を叩き付けた。
「……どういうことだ」
「遼、黙れ」
「今のクソ野郎が全部仕組んで、集めた客全部キャンセルになったってことか!? そんなふざけたことありえるわけねぇだろ!」
「黙れ!!!」
絶叫した鈴木の目には、涙が浮かんでいた。それを見たリョウは俯いて、拳を握り締めた。
「SNSで炎上しているね。友人に確認したけれど、すまないという一言しか貰えなかった」
スラスラとした言葉を口にしたのは、翼様。
そこに、普段のおっとりした雰囲気は存在しない。
「きっと裏で大金が動いてる。それも規模から考えて組織的なものだ。健太、これは難しいよ」
「翼、悪い、少し時間をくれ」
「……分かった」
掠れた鈴木の声。
何か含みを持って口を閉じた翼様。
「……」
私は、
「……ぁ」
私は、
「……ぁぁ」
学祭の前みたいな雰囲気だった。
夢物語のその先へ向かう姿を見て眩しいと思った。
「……ぁああ」
言葉が出ない。
どうすればいいのか分からない。
「……ごめん」
どうにか絞り出した言葉は、はっきりと音になっていたかどうか怪しいものだった。
「……ごめん」
もう一度絞り出した言葉は、もはや自分でも聞き取れないものだった。
理解が追いつかない。
悪夢を見ているような気分だった。
しかし、脳は心を置き去りにして、残酷に情報の処理を始める。
――私は、悪者だ。
――そして悪者は、いつか必ずやっつけられる。
出来事はシンプル。
私のせいで、何もかも台無しになった。
「……ごめん」
謝罪の言葉が空虚に思えた。死んで詫びろと言われれば、きっと応じる。それでも足りない程の罪悪感がある。
顔を上げられない。
皆を見るのが怖い。
嘘だ、嘘だ嘘だ。こんなの現実じゃない。こんな急に、交通事故みたいに全部台無しになるなんて、そんなのありえない。信じたくない。でも、どれだけ願っても場面は切り替わらない。
怖い。
いやだ。怖い。いやだよ……
「よしっ、決めた!」
空を切り裂くような声。私はビクリと身体を震わせながら、恐る恐る鈴木を見る。
――時間が、止まったような気がした。
「ケンタさん、報復なら遠慮はいらねぇっすよ」
「リョウ、顔を上げろ」
リョウは顔を上げる。
そしてきっと、私と同じような感想を抱いた。
「悔しいか」
「……そ、そりゃ悔しいっすよ」
「なぜだ」
「なぜって、当たり前でしょう! ケンタさんは悔しくないんすか!?」
「ぶち殺してやりたい」
普段なら絶対に言わないようなセリフ。リョウは絶句した。
「ただ、同時に思った」
彼は、怒りを必死に抑える表情をして言う。
「こんなのは、よくあることだ」
それはきっと言葉通りの意味ではない。全く納得していないことは、その瞳を濡らす大粒の雫を見れば分かる。それでも彼は前を向いて――私を見て、笑顔を浮かべている。
「利益を守るために他社の計画を潰す。よくある話だ。自覚が無いだけで、きっとこれ以前にもボク達は被害を受けている。……腹を立てていたか? そんなことはない。なぜだ? ボクは理由を考えた」
彼は、長く息を吸い込んだ。
「見えないからだ」
それをゆっくりと吐き出しながら、
「ボク達は影も形も見えない相手に怒ったりしない。でも今回はキレている。それは、相手の姿が見えているからだ」
その声は、淡々としていた。
「相手は、わざわざ後ろを向いて立ち止まっている。なら付き合ってやる必要はどこにもない」
彼は、私とリョウ、そして翼様を順番に見た。
それから上を向いて、腕を目に押し当てて、再び前を向く。そして、真っ赤に腫れた両目を細めて、力強い声で言った。
「ボク達はただ、前に進もう」
そして、いたずらっ子みたいに笑い混じりに言う。
「いつか、上から踏み潰してやろう」
最後に彼は、私を一瞥した。
しかし言葉をかけることはなかった。
「翼、そろそろアイデア浮かんだ?」
「これまでの受講生に声をかけよう」
「なるほど。個人向けに切り替えるわけだね」
「うん。特に柳さん、だったっけ? 転職エージェントの彼を使おう。転職希望者なら腰が軽い。数も稼げるはず」
「いいアイデアだ。早速始めようか」
――私は、悪夢を見ていた。
天国から地獄に落ちるような、特大の悪夢だった。
「これが顧客リストだ。遼、半分お願いできるかな」
「うすっ、もちろんです」
呆然とする私の目の前で、三人は電話を始めた。
そうすることが当然であるかのように、何もかも失って終わったはずの悪夢の、その先を歩き始めた。
「おいクソ女、いつまでボサッとしてやがる」
リョウが私の前に立って言う。
「……だって、私の、せいで」
「あぁ? 聞こえねぇよ」
イライラした様子で頭を掻く。
それから、私を睨み付けて言った。
「ほんとテメェはプラマイゼロにすんのが好きだな」
「……ぷらまい、ぜろ?」
リョウは足元に目を向けた。
そこには大量のスマメガがある。
「テメェの成果だろうが」
比喩ではなく、全身が震えた。
「テメェのこれがっ、客を集めたんだろうが!」
リョウは床に落ちた私のスマホを拾って、それを少し強く私の胸に叩き付けた。
「さっさと働きやがれ。あと三日もある。諦めてる余裕はねぇぞ」
「……うるさいばーか!」
彼の手を叩くようにしてスマホを受け取る。
画面を見る。ぼやけて見えない。腕を使って強引に拭って――前を向く。
「私、SNSで宣伝する!」
どうにか声を出す。
リョウは満足そうな様子で私から目を逸らした。
翼様に目を向ける。
いつもの柔らかい表情を浮かべて、頷いた。
最後に鈴木を見る。
グッと親指を立てて、はにかんだ。
……あーもう、どうしようかなこれ。
ムカつく、あのチビほんとムカつく。
翼様はいつもよりかっこいい!
ケンちゃんなんか、なんかもう……ばーか!
……あーもう、どうしようかな、これ。
諦められるわけがない。
とっくに夢は覚めている。私のせいで全て台無しになった。きっと一億円以上の損失が出る。これから三日で補うなんて絶対に無理だ。
とっくに夢から覚めた。それでも諦められない。
熱い。心が、夢を見ていた時以上に燃えている。
――ボク達はただ、前に進もう。
「うぉおおおおおおおお!!!」
叫びながらスマホをぽちぽちする。
これまでに一度でも絡んだことのある人達に片っ端からメッセージを飛ばす。
途中、一度イベントのアプリを開いた。
参加者数、ゼロ。そこにはどうしようもない現実が表示されている。
もう無理だ。不可能だ。分かってる。
でもこんなの、諦める理由にはならない。
リョウが言ってくれた。ここはプラマイゼロ。何も無い私が全部失っても、それは元に戻っただけ。
だから諦めない。
これから思い切りプラスにする。
夢物語の、その先へ行く。
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