夢物語のその先へ 終
「要するにこれは、炎上している無名のスタートアップと、実績のある有名企業。どちらに付くかって話なんですよ」
彼の名は
「なるほど、エグいことしますね」
西条の話を聞いて、鈴木達のイベントに参加するはずだった一人の経営者は、苦笑した。それを受けて西条も目を伏せる。
「正直わたくしも気分は良くない。ただ、家族を養う必要がある。不要なリスクは避けるべきだと、あなたもそう思うでしょう?」
佐藤愛はリョウの営業トークを魔法と表現した。彼は紛れもない天才である。しかし、営業経験は十年に満たない。
長年最前線で活躍している西条のスキルは、リョウを遥かに上回る。そして西条と近しいスキルを有した営業が、百人を超える規模で動いている。
「……はぁ、ようやく終わった」
課せられたノルマを消化した後で、西条は大きな溜息を吐いた。
気分は最悪である。
べつに珍しいことではないけれど、弱い者いじめをするような仕事は、可能なら避けたいと思う。
しかし、逆らうメリットが無い。
百以上のヒトが動いている。自分一人が異を唱えたところで結果は変わらない。それどころか減給などの処置が目に見えている。一方で、しっかりと結果を出せば特別賞与が出る。
「さっさと報告してラーメンでも食うか」
社用のスマホで報告する。
この報告は、技術部が開発したオルラビシステムを経由して自動的に処理される。
そのことを考えた時、一瞬だけ手が止まった。
「……報復、だよな」
西条はある程度の事情を把握している。持ち得る情報を組み立てれば、新社長の報復という結論になる。
報復先は、これまで自分達を支えていたシステムの開発者。
気分が悪い。しかし、逆らえない。所詮自分は雇われの身なのだから、トップの判断に従うしかない。
罪悪感を押し殺して、報告を終わらせる。
――このような出来事が日本全国で起こっていた。
*
「くっ、くはは、あははははははは」
薄暗い社長室に笑い声が響く。
長く、とても醜悪な笑い声だった。
「あー愉快だ。佐藤愛の悔しがる声を聞けなかったのは残念だが、あの鈴木とかいう男の反応は最高だった」
笑い過ぎて傷んだ腹部を手で押さえながら、彼は手元の資料を再確認する。
「コストは莫大だが、あながち娯楽とも言えん」
それは"三日後"に開催される大規模なイベントの概要。
「まだ確認中だが素晴らしい人脈だ。これなら十分利益になるだろう」
彼は裏で手を回すと同時に、鈴木達が集めた顧客を自分が開催するイベントに誘導した。
イベントの内容に大差はない。しかも参加者は支払うはずだったコストが数倍になって返ってくる。そこに元々のイベント先が"炎上"したという事実を加え、ダメ押しで軽い脅し文句を添える。
悪評が広がっている無名のスタートアップと実績ある有名企業。金を払って後者を敵に回すか、金を貰って後者に貸しを作るか。
あとは営業マンが合理的な判断をさせるだけ。
それはもう赤子の手を捻るようなものだった。
「しかし、実に愚かだった。キャンセル料をゼロに設定するなど、潰してくれと言っているようなものだ」
彼の言葉は正しい。ビジネスの世界は常に有限の顧客を奪い合っている。もしも彼が手を出さなかったとしても、鈴木はどこかで必ず失敗していただろう。
「当然の結果だ……くっ、はは、ははははは」
彼の言葉は正しい。
この結果は彼が立てた周到な計画が生み出した。
世界は残酷な程に平等だ。紙を燃やせば発火するみたいに、あらゆる結果には原因がある。だから決して奇跡など起こらない。
故に――これから始まるのは、奇跡などではない。
*
小田原茂は今夜も趣味を満喫していた。
目が回るようなマルチタスクで精神を擦り減らす日々。最近は貴重な休日に体力が有り余っている娘の相手をしていて限界間近。いやきっと超えている。
だからこの、頭を空っぽにして虚空を見つめる時間が、本当に心地良い。
一方で、最近楽しみなことがひとつ。次の三連休、久々に家族で旅行へ行くことになった。
二泊三日の国内旅行。
あまりにも楽しみで、奮発してスマホを最新の物に変えた。不気味なトリプルカメラを見てはニヤニヤする日々が続いている。
だから、悩む。
悩みの種は、先程プログラマ塾から届いた連絡。
助けてくれ。
要約すると、そういう話だった。
参加費は二万円。
受けた恩を考えれば迷うような金額ではない。問題は、せっかくの家族旅行と被ってしまうことだ。
……一日早く切り上げるか?
その悩みは家に帰った後も、お風呂に入ってご飯を食べた後にも続いた。
「何かあった?」
「いや……あはは、おまえには敵わないな」
妻に声をかけられ、彼は白状する。
「実は……恩人が助けを求めているんだ」
「なにそれ。お金貸してくれみたいな?」
「いや、そんなんじゃない。一日イベントに参加するだけだよ。エンジニアが集まって話をするイベントだ。料金も大した額じゃない。ただ……」
言い淀む。
妻は溜息を吐いて、
「次の三連休なのね」
「……ああ。もちろん旅行を優先するつもりだ。だがその……一日くらいは、顔を出したい」
妻は彼の言葉を聞いて、ハッキリ言うようになったなと思った。
これまでの夫は言葉を飲み込むのが大好きだった。しかし、ある日を境に、ありがとう、と不器用な感謝の言葉を口にするようになった。
彼女は察する。恩人とは、そのきっかけをくれた人なのだろう。だって夫は友人が少ない。
やれやれと、再び溜息。
「行きなさい」
「いいのか?」
「旅行がなくなるわけじゃないんでしょう」
「それは、もちろん」
だったら、と彼女は微笑む。
「三日が二日になるんだから、二倍楽しませてね」
「計算、合わなくないか」
「家計簿はいつだって切り上げなのよ」
「……そうか」
笑い声。子供が寝静まった後のリビングに響く、小さな笑い声。
小田原茂は、家族の笑顔を手に入れた。あるいは、取り戻した。だから彼は、恩返しをすると決めた。
――1
*
「え、イベントですか?」
「そう! 真のプログラマ塾がですね、エンジニアを集めて開催するそうです! 人脈を作るチャンスですよ! ぜひ参加しましょう!」
「真の……あぁ、佐藤さんの」
仕事帰り。駅から自宅まで歩く途中。
洙田裕也は、世話になっている転職エージェントの柳と電話をしていた。
「佐藤さんのイベントなら、是非」
「ですよね! 早速こちらで申し込みます!」
「あ、いや、ちょっと待ってください。えっと、無料ですか?」
「参加費ですね! 二万円です!」
「二万円……」
決して高い金額ではない。
しかし彼に金銭的な余裕は無い。
仕事は相変わらず最低賃金以下の派遣。
先月、簡単な入力業務を自動化したことで、契約の更新と僅かな賃上げが決まったけれど、それでも学生アルバイト程度の待遇だ。
洙田裕也の懐事情は厳しい。余剰資金は常にゼロであり、急に二万円を捻出するのは、とても難しいことだった。
「私が負担しましょう!」
「えっ、いやそれは流石に悪いですよ」
「構いません!」
「いやでも、何もお返しできないですよ……」
電話の向こうで柳が笑う。
何が面白いのだろうと洙田が困惑していると、柳は妥協案という様子で言った。
「じゃあ、転職が決まって、夢が叶ったら、一杯奢ってください!」
洙田は足を止めた。
冗談で言っている風には聞こえない。いや、違う。柳という男性は、こういう言葉を平気で口にする人物なのだ。
つくづく思う。
自分は、本当に、出逢いに恵まれている。
「すみません、お世話になります」
「はい! 急ですけど開催日は次の三連休です! ご予定大丈夫ですか?」
「ええっと……はい、一応、どこでも大丈夫です」
「わっかりました! また後ほど連絡します!」
「はい、お願いします」
少し間があって、電話が切れる。
洙田は、ぼーっと空を仰いで、暗闇に薄らと浮かぶ雲を眺めた。
「……そうだ、先生に連絡しとこう」
先生とは大学教授のこと。例の出来事があってから洙田は毎週顔を見せている。べつに義務では無いけれど、一声かけるべきだと感じた。
「先生、少しお時間よろしいですか?」
電話をしながら、歩く。その視線は、以前と違って真っ直ぐ前を向いている。その目には、以前より少しだけ広い景色が見えている。
――3
*
「ふふふ~ん、レットルトレットルト美味しいな~」
深夜。闇を感じる鼻歌と共にレトルトカレーをレンジに入れたのは、帰宅したばかりの本間百合。
ゲームを無事にリリースして、その余韻を感じることなく始まった次の開発。なんと開発リーダに抜擢されたツンデレちゃんこと本間百合は、相変わらず忙しいけれど充実した日々を過ごしていた。
「ありゃ、お姉様からレイン来てる」
佐藤愛のこと。
百合はメッセージを確認する。
あい『ゆりちぉたすけ~』
ゆり『どしたどした?』
脊髄で返信すると、佐藤からbotのような反応速度でリンクが送信された。
あい『参加者ぼしゅちゅ!』
ゆり『おけまる!』
とりあえず返事をしてからリンク先を確認する。
「なっ、なっ、これは……っ! 愛お姉様と丸一日イチャイチャできるイベント!?」
そんな文言どこにもない。
「お値段二万円! おやすい! でも三日で六万円! おきつい! でもでも……あ、そうだ!」
百合は再びスマホを操作して、勤め先の代表にリンクを転送してメッセージを送る。
ゆり『なべさん、これ経費で落ちませんか?』
十秒待つ。既読がつかない。
「ちっ、反応悪いですね。事後報告しちゃいますよ」
せっかちな百合は理不尽な悪態をつく。
「そだ、松崎さんにも共有しとこ」
ほぼ同時期に転職したシニアエンジニア。ちょっとコアな技術を教わる対価として偏った若者文化を教えている相手。
お裾分けです。一言添えてリンクを共有した直後、レンジからチンと音が聞こえた。
「おっ、カレーできた!」
レトルトカレーを取り出して、入れ替わりにレトルトご飯を入れる。そしてまたレンジを起動した。
とても不健康な食生活。
しかし彼女の表情は、以前よりもずっと明るい。
「はぁぁ、愛お姉さまファンミーティング楽しみだなぁ」
繰り返すが、そのような記述はどこにもない。
とにもかくにも、百合は三日間全ての日程を予約した。
――6
*
松崎
午前五時、起床と同時に布団から出る。彼は早朝二度寝の誘惑に負けない屈強な精神を有している。
洗顔やら何やら済ませた後は、コーヒー片手にニュースと新聞をチェックする。そして最近は、スマホでSNSをチェックすることも欠かさない。
彼には後悔していることがある。現在の職場に転職する以前、彼はとある組織で部長をしていた。しかし部下の奮闘を上層部に伝えられなかったことで、その組織は最低な扱いを受けていた。
だから、転職先に若い会社を選んだ。
今度こそ未来ある若者を支える礎になるのだと、そういう志が胸にある。
「おや、本間さんからダイレクトメッセージが届いているね」
お裾分けです。その一文にURLが添えられている。
「ふむふむ、エンジニア向けのイベントか」
じっくりとリンク先をチェックする。内容はもちろんだが、誰が開催しているのか、ということも気になる。なので、ページの下部に記載されている『会社概要』をクリックした。画面が切り替わった先に表示された一枚の画像を見て、思わず「おっ」と声を出す。
「佐藤さん……そうか、彼女の転職先か」
ならば、行かねばなるまい。部下を誰一人として救えなかった不甲斐ない上司だけれど、だからこそ、機会があるならばと考えていた。
開催期間は次の三連休。
一日二万円だから、全日参加すると六万円。
迷うような金額ではない。
大企業で部長にまで出世して、しかも独身である松崎剛は、時間も金も有り余っている。
慣れないスマホ操作に苦戦しながら三日分の予約をして、次にSNSを開く。
『参加予約したなう』
微妙に古い表現と共に百合から送られてきたURLを添えて、呟いた。
――9
*
広がる、広がる。
真のプログラマ塾から受講生へ。あるいは佐藤愛から友人へ。そして、そのまた友人へと広がっていく。
もちろん効果は微々たるものだ。
ねずみ算式に情報が拡散したところで、その情報を見た誰かが金銭を支払ってまで参加するような結果は、そう簡単には生まれない。
「お、松崎さん何か予約したのか」
それは、かつて松崎の部下だった男性の一人。
そして――佐藤愛と共にオルラビシステムを開発したメンバの一人。
「…………そっか、そういうことか」
松崎と同じような流れで会社概要を確認した彼は、写真を見て思わず落涙した。
「良かった。佐藤さん、楽しそうだ……まあ、そりゃそうか」
とりあえず初日だけ申し込む。
「写真はスーツだけど、まだコスプレしてるのかな?」
当時を思い出して、笑みを浮かべる。彼女には何度も助けられたなと、懐かしい気分だった。
「あっ、そういえば……」
フォロー中のユーザ一覧を見る。
少し前、オルラビシステムに興味を示した人物が居たことを思い出したのだ。
そこに宣伝の意図などは無い。エンジニアとは、有益な情報を誰かに分け与えたくなる生き物なのだ。要するに、普段通りの感覚で、なんとなく、情報を共有した。
――10
*
「っかー、疲れたわマジで」
神崎
「さーて、今日も光りまくりだな」
その右手にはいつも通りスマホがある。
光りまくりというのは、SNS上の通知を意味している。
彼は慣れた様子でメッセージをチェックしていく。99%はどうでもよいスパムみたいなメッセージ。しかし稀に、あっと驚くような情報がある。故に彼は、この作業を宝探しと表現する。
「さあ、お宝ちゃん、出ておいで」
スルー、スルー、スルー。
機械のような速度で膨大な情報を処理する。
「おっと、今の見覚えあるぞ?」
一度はスルーした情報を再度チェックする。
『少し前にオルラビシステムについて話してましたよね? あのシステムの開発者がイベントやるみたいなので、共有します。開発者の名前は、佐藤愛です』
……オルラビ? オルラビ……オルラビシステム!
「マジか! あれ人間が作ったのかよ!? いやそうだけど! いや待って、待てよ……」
神崎は一度冷静になって、情報を精査した。
この情報の送信者が本当に関係者であるという証拠が欲しい。
神崎はオルラビシステムのソースコードやマニュアルを目にしている。その中には開発者と思しき名前が記されていた。彼は、それを正確に記憶している。
Ai Sato.
佐藤、愛。
神崎が人工知能の類だと勘違いしていたその名前は、関係者でなければ知らないはずの情報だ。
「マジじゃん! マジだ! やっべこれやっべー!」
神崎は子供みたいに興奮して、リンクを開いた。そして迷わず全日分の予約をする。
「あっ、やっべ、ブッキング……まいっか。こっち優先っしょ!」
三回目の予約完了画面を見たあとで、彼はペッと舌を出した。
「とりま呟いとけ」
そして、いつものように情報を発信する。
『オルラビシステムの開発者が出るイベント! マジで楽しみ。速攻で全日ポチッた』
その僅か十数文字の情報が、きっかけだった。
――13
*
インフルエンサーと呼ばれる人々がいる。
何らかのカリスマ性を持ち、インターネットを介して大勢のフォロワを有する人々がいる。
彼が、あるいは彼女がおいしいと言ったお菓子はスーパーから姿を消す。褒め称えた服は予約が殺到して完売する。そんなインフルエンサーが「参加する」と呟いたイベントがどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。
『うぉっ、神崎さん参加すんの!? こんなん行くしかねぇだろ』
――48
『オルラビシステムってなに?』
『少し前に神崎さんが話題にしてなかった?』
『見つけたこれだ。神崎さんがこんだけ興奮するって絶対ヤバいやつじゃん』
――92
『神崎さんファンミーティングが開催されると聞いて』
『いや神崎さんの目的はオルラビシステムらしいぞ』
『オルラビシステムとは』
『俺オルラビシステムの元関係者だけど、とりま某金融システムを五割くらい自動処理できるものだと思っていいよ』
『これ流石に妄想だろ? でも神崎さんが反応してんの気になるな……』
――165
広がる、広がる。
友人から友人へ、そのまた友人へ。
『この会社知ってる。真のプログラマ塾。俺受講してるけどマジでレベル高い』
『真のプログラマ塾。このクソださい名前、同僚が絶賛してたから覚えてる。イベント面白そう』
最後まで諦めなかった"四人"の声が、巡り巡ってインフルエンサーに届き、爆発した。
――232
『オルラビシステムと神崎さんトレンド入りで草』
『これリンク先の会社って炎上してなかった?』
そして多くの目に留まった情報は、思わぬ関連情報を引き出すことがある。
『ボロクソ言われてんじゃん。神崎さん大丈夫かよ』
『炎上ネタ調べたんだけど、なにこれ逆デンチュウ案件? コピペばっかじゃん』
『RT 清々しいまでの自演で草』
その情報に引き寄せられる大半の人物は、お祭り気分の野次馬だ。しかし情報は確実に拡散されていく。そして、ネット上には記されていないことを知る者の元へ届く。
『今話題になってるこれ、大手のスタートアップ潰しだよ。最近クソみたいな営業来てマジで気分悪かったわ』
『あー、これクソ営業が来た案件だ。ぶっちゃけ関わりたくないけど情報の発信源は神崎さんかよ。乗るしかねぇじゃん』
――482
『まとめ記事書いた』
『何こいつ仕事早すぎ』
『やば、これマジなら祭り案件だろ』
爆発的に拡散された情報は、誰にも止められない。
『TLがざわざわしてる。何かあった?』
『このまとめが分かりやすい』
『リアルにうわぁって声出た。酷過ぎ』
やがて情報はSNSを飛び越え、様々な媒体で拡散されるようになる。
例えば、自宅のソファでのんびりしていた男性。
彼は部下から届いたメールを見て、目を細めた。
――山本さん、これウチが参加する予定だったイベントじゃないすか?
「イベント……ああ、そうだ。次の三連休か」
――なんか別のイベント出るみたいな通達あったと思うんですけど、山本さん何か知ってます?
「別のイベント? そんな話は知らんぞ」
詳細を確認するためメールに添えられたURLを開いて、その先の情報も確かめた。
「なんだこれはっ!」
彼は憤慨しながら電話を手に取る。電話の相手はCEO――経営の最高責任者。同時に、創業当初から共に仕事をしている友人でもある。
「ああ、今お時間いいですか? 次の三連休にね、技術部門が参加する予定だった、あの、イベントについてなんだけど、何か知ってる?」
『イベント? ……ああ、はいはい。この間、RaWiの社長さんと話をしたよ』
新社長の話を聞いて、別のイベントに乗り換えたという内容。
「悪いけど、それ断って」
なぜ、と聞き返したCEOに向かって、彼は技術部門の最高責任者として力強く言う。
「あれは、佐藤愛というエンジニアに惚れ込んで参加を決めたものだ」
『……ああ、なるほど。ただ、すまない、いろいろ込み入った事情があるんだよ』
「ならいい。こちらはこちらで勝手に動く」
彼は電話を切って、部下から送られてきたリンクのひとつを開いた。リンク先は、鈴木達が開催するイベントの概要を記したページ。
彼は会社概要が記されたページに遷移して、そこで従業員紹介用の集合写真を目にした。
見覚えのある人物が二人。
口が達者な蒼い目の青年と、それから――
「うん、この人だ。佐藤愛さん。よく覚えている。本当に素晴らしいエンジニアだった」
彼は次に申し込みページを開いて、二万円という料金に目を細める。
「なんだ値下げしたのか。もったいない」
呟いて、申し込みページを部下に送信した。
イベントに参加予定だった方は必ず申し込むように。他は自由参加です。きっと勉強になります。参加費は私が持ちます。
――1042
広がる。広がる。
情報は止まることなく広がり続ける。
――その炎上元で秘書を務める者は、情報を見て手足を震わせる。即刻、新社長に報告すべきと考えて、しかし目を逸らした。もはや手遅れだと判断した。
――その炎上元で営業活動を行っていた
燃え広がった情報は、やがて発信源に舞い戻る。
「うぉっ、めっちゃバズってんじゃん」
神崎は数時間前の投稿を見て、驚きの声をあげた。
そして詳細を調べ、過去の不愉快な出来事を思い出す。
「あー、はいはい。あのクッソむかつくじーさんね」
さらに情報を深掘りする。
そして、とある呟きに目を止めた。
――俺この炎上してる会社の元社員なんだけど、新しい社長がマジでクソ野郎だった。俺達エンジニアは数字じゃねぇんだっつうの。マジなめんな。あー思い出しただけで腹立つ。
「お、これいいじゃん」
神崎はこれからイタズラを始める子供のような笑みを浮かべる。
そして、目を付けた投稿を引用して、呟いた。
『めっちゃ分かる。#エンジニアは数字じゃない』
ちょっとしたキーワードを添えた何気ない一言。
同時にそれは、集められた爆薬に手榴弾を投げるような一言だった。
神崎が「絶妙なタイミング」で発した「意味深な一言」によって、祭りは加速する。
広がる、広がる。
情報はどこまでも、広がり続ける。
*
イベント当日。
開催時間よりも一時間ほど早い時間。
鈴木健太は、派遣されたスタッフのリーダと話をしていた。
「――という流れでお願いします」
「はい、承知いたしました」
イベントの最終的な打ち合わせ。
「ただその……本当に申し訳ありません」
鈴木は簡単に事情を説明する。要約すると、今日は手持ち無沙汰になりそうという内容。話を聞いた男性は首を傾けて、きょとんとした様子で言った。
「あ、もしかしてご存知ない?」
今度は鈴木が首を傾ける。
「これ、ここ数日話題なんですけど――」
そして、その情報を目にした。
*
私は、とても憂鬱だった。
あれから三日間、ほとんど寝ないで友人や知人に連絡を続けた。しかし、ハッキリと良い返事をくれたのは、僅か四人。
今朝は、わたし人望ないなーと落胆しながら電車に乗った。
今日の服はスーツ。だけど、少しサイズの大きいジャケットの下には学校のアイドルを描いた大人気アニメのコスプレがある。
このアニメには、たった一人だけ来てくれたお客さんの前で精一杯のライブをする場面がある。そこに何かシンパシーを感じたから、この衣装を選んだ。
会場に着いて、集合場所まで歩く。
そこにはまだ鈴木しかいなかった。
「おはよう」
「ああ、佐藤さん。おはよう」
なんだこいつメッチャ機嫌いいな。
でも、そうだよね。一億円以上も借金することになったら、それはもう、笑うしかないか。
あー、うー、あー。どうやって責任取ろうかな。
「佐藤さん、早速だけど誘導役お願いできるかな? 入り口付近に立って、お客さんを案内して」
「……ん、わかった」
不気味なくらい上機嫌だ。
私はちょっぴり怖いなと思いながらも素直に従う。
まだイベント開始まで一時間ほどある。
誰も来ていないだろうなと思いながら向かった先には、意外にも人影があった。
「ゆりちぃ~!」
「あ、おはようございます」
私はダッシュで抱き着いた。
「ありがとぉ~! ほんとに来てくれた~!」
「えへへ、当たり前ですよ。楽しみ過ぎて徹夜しちゃいました」
「くっさー」
「ひどー!?」
冗談を言って、小柄な百合ちゃんをギュッとして、なでなでする。いい感じに蒸れた甘い匂いがした。
「それより佐藤さん、今日はおめでとうございます」
「ん? なにかあったっけ?」
「何かって……あれ、知らないんですか?」
「んー?」
考える。思い当たることが無い。ここ数日はスマメガ作ってクソリプ飛ばして、食事はカロリーメイトだった。喜ぶようなイベントは何も無いはずだ。
「じゃあいいです。その瞬間まで私に甘えさせてください」
「あらあら、百合ちゃんは本当に甘えんぼさんね」
「……愛お姉さま限定、ですよ?」
ふわふわ幸せ空間。私はいつもより現実逃避成分多目で百合ちゃんをいつくしむ。
それから十分ほど経過して――
「佐藤さん、お久し振りです」
「ん? お、おー! 部長! お久し振りです!」
懐かしい顔を見て、私はちょっとだけハイになる。
「どうしてこちらに?」
「実は、そこの本間さんと同じ職場に転職してね。今日のことを教えてもらったんだ」
「ほー! え、百合ちゃんそうなの?」
「……はぇ? 何がですか?」
私は百合ちゃんをクルッと半回転させて、部長が目に映るようにした。
「あっ、松崎さん! お早いですね!」
「……あはは、本当に気付いてなかったのか」
「いやぁ、すみません。ちょっと集中してました」
普通に話している。本当に知り合いっぽいことを確認して、私は世界って狭いなーと思った。
それから部長を交えて三人で雑談していると、また一人、他の人物が現れた。
「松崎さん、佐藤さん、お久し振りです」
懐かしい顔。
それは、一緒にオルラビシステムを開発した同僚の姿だった。
「えっ、えっ、なんで? どうして?」
「松崎さんが呟いてたから。来ちゃった」
「かわいいかよ! ありがとぉ~!」
「あはは、相変わらず元気だね。コスプレはもうやめちゃったの?」
「ううん、服の下に着てるよ! 脱ごうか!?」
「だ、ダメです! 何言ってるんですか!」
冗談で言ったのに、百合ちゃんに本気で止められた。
げらげら笑って今度は四人で談笑を始める。そしてまた数分後、他の人物が現れた。
「あの、佐藤愛さんですか?」
イケイケな感じのおじさん。知らない人だ。
「俺、僕、いや、わたくし、神崎と申します。あなたのファンです」
……あ、ヤバい人かな?
私がちょっとだけ警戒するのと、他の三人が叫ぶのは同時だった。
「え、本物!?」
と百合ちゃん。
「ビックリしました。あなたのような大物が来るなんて」
と松崎さん。
「…………」
少女漫画みたいに目をキラキラさせている元同僚。
なになに、どゆこと?
――あっ! おい、あれ神崎さんじゃないか!?
疑問に思っていると、遠いところから大きな声が聞こえた。そして私は――言葉を失った。
「うわー、やっぱ集まっちゃったか」
その集団を見て、神崎と名乗った男性が呟いた。
「だ、大丈夫です。愛お姉さまは私が守ります!」
百合ちゃんが私にくっついて言った。
私はただ、びっくりしていた。信じられなかった。
「最後尾こちらです!」
聞き覚えのある声。
私はハッとして、目を向ける。
翼様と、リョウ。
数えきれないほどの集団が、二人に誘導されて、私の前で大行列を形成していく。
その行列は、最後尾が見えないほどに続いていた。
「がんばって」
翼様が私の右側を通り抜ける。
私は、夢を見ているような気分だった。
「おい、ぼーっとしてんじゃねぇぞ」
リョウが私の左側を通り抜ける。
私はまだ、夢を見ているような気分だった。
「ねえ百合ちゃん。頬っぺたつねってくれる?」
「え、ほっぺにキスですか?」
「それでもいいよ」
「じょ、じょじょ、冗談ですよ?」
百合ちゃんはオドオドして、私の頬を引っ張った。
「……いたい」
「えっと、あの、これなんですか?」
痛みがある。夢じゃない。
何が起きているのかは分からない。ただ、夢じゃない。とにかく、夢なんかじゃない!
「……」
頬が緩む。
感情が暴れだす。
私は勢いでジャケットを脱ぎ捨てた。
それを百合ちゃんに渡して、叫んだ。
「みなさーん! もっと前詰めてくださーい! 大丈夫ここにはエンジニアしかいませんよー! 最高効率みせてくださーい!」
なにあれ、高校の制服?
なんだなんだコミケか?
ざわざわする群衆。
私は理解すること諦めて、現状を受け入れた。
「移動しまーす!!」
叫んで、大行列を入口に誘導する。
――その様子を、鈴木は少し離れた場所で満足そうに見ていた。
「よかった」
佐藤愛の笑顔を見て、鈴木は呟いた。
そして、あらためてスマホに目を向ける。
派遣スタッフのリーダに教えられて確認した記事。
そこには、この三日間で起きたことが事細かに記されていた。
きっかけは一人のインフルエンサ―。
彼がイベントに参加するという投稿をしたことで、情報が爆発的に拡散された。そして、本来なら隠蔽されていたはずの情報を暴く結果に繋がった。
いわゆる炎上、お祭り騒ぎ。
特に今回は通常の炎上とは毛色が異なる。
エンジニアは数字じゃない。
そのキャッチコピーが象徴するように、多くのエンジニア――最も優れた情報処理能力を有する人々が祭りに参加した。
なーんてことは、全て後付けだ。
鈴木が目を留めたのは情報は、たったひとつ。
オルラビシステム。
佐藤愛が生み出した芸術品が、とある有名なエンジニアの心を掴み、この事態を引き起こすきっかけになったということだ。
頬が緩む。
自分のことのように誇らしい。
なにより、彼女が笑っている。先日の涙が嘘だったかのような明るい笑顔を見て、鈴木は心底安堵した。
「さて、忙しくなるぞ」
背伸びをして、気持ちを切り替える。
そして次の瞬間、ポケットに入れた社用のスマホが震えた。
非通知。
鈴木は誰だろうと疑問に思いながら、電話に出た。
「はい、こちら鈴木です」
『貴様、いったい何をした!?』
聞き覚えのある声。
鈴木は、直ぐに相手の正体を察した。
「例の記事、まだご存知ないのですか」
『何をしたのかと聞いてる! 言え!』
うるさいな。
鈴木はスマホをスピーカにして、耳から遠ざけた。
「ボクは何もしていませんよ」
『そんなはずあるか! 貴様が何もしなければ、どうして九割以上のエンジニアがそちらへ流れることになる!?』
九割。具体的な数字を知らなかった鈴木は、素直に驚いた。そして、少し考えた。
この男は、彼女を三度も悲しませた。
ファミレスで再会した時、彼女は悔しいと言って泣いていた。それからしばらく経って、彼女は「戻れ」という連絡を受けて気分が沈んでいた。そして先日の出来事――思い出すだけで、気が狂いそうだ。
大きく、息を吸い込んだ。
「エンジニアは数字じゃない」
『何を言っている!?』
「本当に分かりませんか?」
スピーカを通じて荒々しい呼吸音が聞こえる。返す言葉を考えているのだろう。それを悟って、鈴木は穏やかな声音で言った。
「実は、ボクも分かりません」
『馬鹿にしておるのか!?』
「いえ、ほんと、分からないんですよ。だって、この結果を作り出したのはボクじゃない。佐藤愛です」
『佐藤愛だとぉ!?』
鈴木は、今も楽しそうに誘導役をしている佐藤を見ながら言う。
「あなたは、いくつかの会社へアプローチして、イベント参加者を奪い取りました。ボクも同じです。多くの会社にアプローチして、参加者を集めました」
それは紛れもない本音。
「彼女は違う。彼女はいつも、目の前にいる相手のことを見ていた」
『ええいっ、くだらん話をするな! それが、今回の結果とどう関係があるのだ!?』
「要するに、あなたは無知だったんですよ」
『無知だとぉ!?』
ついには叫び声が裏返る。
激怒する新社長に対して、鈴木は言葉を続ける。
「真のプログラマ塾を受講しませんか」
『……塾だと?』
「はい。知らないことは、知ればいい。あなたは次の成功を掴むために、失敗の理由を学ぶべきだ」
『何を偉そうにッ!』
「ボクの目的は、世界を変えることです。子供のように争うことではありません」
お前と違って。
言葉の裏側に添えた皮肉は、しっかりと相手に届く。だからこそ、新社長は返す言葉を失った。
「まだ間に合います。一度で良いから、エンジニアのこと、会社を支える人達のことを学ぶべきです。ご安心ください。当塾は、価値ある人間を見捨てません」
それは良く言えば熱血教師のような、悪く言えば甘い言葉だった。しかし新社長は、電話越しに説得されたところで改心するような人物ではない。もちろん、鈴木はそれを理解している。
「ああっと、すみません。ひとつ失念してました」
何か演技をしているみたいな大仰な口調。
鈴木はスマホに口を近付けて、ゆっくりと告げる。
「うち、未経験NGでした」
笑い混じりの言葉。
お前は無価値な存在だと、鈴木はそう言った。
『鈴木……鈴木、鈴木鈴木鈴木ぃ! 貴様この私を侮辱するのか!?』
激怒する声。
鈴木は、きっぱりと返事をする。
「ボクは侮辱なんかしません」
それは大人の意趣返し。
「だって、経営者の世界は結果が全てでしょう?」
お前なんか眼中に無いという勝利宣言。
その言葉は、新社長が持つ優れた経営者としての矜持を粉々に打ち砕くものだった。
ドン、何かにぶつかった音がした。
電話の向こうでスマホを落としたのだろうと鈴木は予測する。
完全な敗北を理解させること。
それは時に、床に額を擦り付けるよりも激しい屈辱を与える。
ヒトに最も大きなダメージを与えるのは他人の言葉ではない。新社長は、きっと自分を責めている。
ならば、これ以上話を続けるのは無意味だ。
「では失礼します。ボクは、これから忙しいので」
電話を切って、軽く舌を出す。
うーんと背伸びをして、フッと息を吐き出す。
そして笑みを浮かべながら、イベント会場へ向かった。
*
慌ただしい一日だった。
鈴木は派遣スタッフと挨拶をして、翼と遼を帰宅させた後で、佐藤の姿を探した。
イベント中、彼女は常に大勢のエンジニアに囲まれていた。
見る度に笑顔で、鈴木は本当に安堵していた。
「さて、終了間際に見送りしているところまでは確認したけど、まさかそのまま二次会行ってないよね?」
流石に佐藤さんでも仕事ぶっちして二次会は……いや、ありえるのか?
割と本気で悩んでいると、不意に背後から誰かが駆け寄ってくるような足音が聞こえた。
振り返る。
同時に、何者かが飛び込んできた。
強烈なタックル。
鈴木は押し倒され、背中に痛みを感じながら、犯人の姿を確認しないまま文句を言う。
「痛いよ、佐藤さん」
「受け止めろよ、バーカ」
「あはは、相変わらず滅茶苦茶だね」
きっと普通なら少しはドキドキするシチュエーション。でも彼女の破天荒な行動が、甘い雰囲気を作らせてくれない。
「どうしたの?」
「……」
問いかける。返事はない。
「疲れた?」
「……」
もう一度問いかける。やっぱり返事はない。
鈴木は呆れ混じりの溜息を吐いて、茜色の空を見上げた。
きっとあと数分で暗くなる。
その前には喋って欲しいなと、ぼんやり思う。
一分、二分と経過した。
佐藤はまだ何も話さない。
「佐藤さん、今日は本当にありがとう」
鈴木は空を見上げながら、呟くような声で言った。
「君が居なければ、不可能だった」
「……そんなことない」
「やっと喋った言葉がそれ?」
鈴木が笑うと、佐藤は照れ隠しに彼の肩をペチペチした。
「……すっごい不安だった」
そして、小さな声で言う。
「……私のせいで、全部台無しになったと思った」
「佐藤さんは、意外と繊細だね」
「意外言うな!」
今度は反対側の肩をペチペチする。
鈴木はクスクス笑って、もう一度問いかける。
「それで、どうしたの?」
「……笑うなよ」
「笑わないよ」
「ゼッタイ笑うなよ」
佐藤は何度も念を押す。
それから大きく息を吸って、顔を上げた。
「すごかった」
鈴木は思わず息を止める。
「私にも、できるかな?」
返事が出来ない。
鈴木は、見惚れていた。
子供が夢を語るような言葉。
しかしそれを口にした彼女の表情は、紛れもない大人のそれだった。
とても美しいと、そう思ってしまった。
「おい、返事しろ」
拗ねたような声を出して、頬を引っ張る。
直前の姿はどこへやら。鈴木はいつもの佐藤を見て、失笑した。
「あー! こいつ笑いやがった!」
「ごめん、痛い、叩かないで」
ぽかぽか鈴木を殴る佐藤。
鈴木はしばらく無抵抗で殴られた後、彼女の柔らかい手首を受け止めた。
「できるよ」
そして、真っ直ぐな目をして言う。
「そもそも今日を作り上げたのは、佐藤さん、君だ」
「……だから、私は何もしてないし」
「そうか。なら、それでいいよ」
「なんだよそれ~」
ムッとする佐藤愛。
鈴木健太はクスクス肩を揺らす。
「さて帰ろうか。明日も早いよ」
「……ん」
ちょっと不機嫌そうに返事をして、彼女は先に立ち上がる。そして鈴木に手を伸ばした。彼が手を掴もうとすると――スッと、彼女は手を引いた。鈴木は見事に引っかかって尻餅をつく。
「佐藤さん?」
「やーい! 間抜け~!」
きゃははと笑って、とてとて帰路を走る佐藤。
鈴木は起き上がって、やれやれという様子で声をかける。
「そっち、逆方向だよ!」
「なにゃを!?」
変な悲鳴を上げて方向転換。鈴木はちょっとイタズラするような気持ちで、小走りする。
「ちょちょちょ、待って! 置いてかれたら帰れない!」
「大丈夫、明日には迎えに行くよ」
「風邪ひくよ~!」
ちょっと幼いやり取り。
彼女は、クスクス笑う彼の背中を追いかけた。
「ケンちゃん!」
「なに?」
すぐ追い付いてやるからな。
その言葉を飲み込んで、彼女は言う。
「なんでもない!」
ちょっと意味深な「なんでもない」
健太は言葉の裏を考えようとして、やめた。
それから二人は子供みたいに追いかけっこをして、駅まで走った。電車に乗って、二人とも澄ました表情をしながら、あーこれ明日筋肉痛かもとしょーもないことを考える。
目が合う。
なんとなく、互いの考えが通じ合う。
目を逸らす。
唇を噛んで、笑いを堪える。
子供のようなやりとりが楽しくて仕方がない。
それはきっと、二人が同じ場所を見ているからだ。
多くの現実を知って、幼い頃に見た夢から覚めて、大人になった。それでもなお、遥か遠い場所に目を向けた。そして、夢物語のその先へと、歩き始めた。
「そうだケンちゃん、いっこ言い忘れてた」
「またしょーもないこと?」
「うん、しょーもないこと」
愛は満面の笑みを浮かべて、健太の前に立つ。
それからちょっとだけ彼の耳に顔を近付けて、小さな声で言った。
「私も、健太に会えて良かった」
どうだ! 思い知ったか!
そんな声が聞こえそうな顔で、愛は健太を見る。
「……まったく、本当に、君は」
健太は、視線に耐え切れず目を逸らした。
それを見て愛は笑う。本当に楽しそうに、笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます