根性論なんて、もう古い? 4


 彼の言葉は全て正しい。

 しかし、彼はひとつ勘違いしている。


 自分で学ぶことのできない人間が通用するほど甘い世界ではない。だから別の道を探した方がいい。彼は言った。


 別の道とは、なんだろうか。

 他人から与えられるのを待つだけで通用する道というのは、どこにあるのだろうか。


 知っている。

 今この場所だ。


 明日を生きるのも厳しい低賃金で雇われ、年下の上司から命令されて働く場所だ。


 変化を希っている。

 今日は何か、きっかけになればと足を運んだ。


 果たして、おそらく自分よりも若いであろう相手から現実を伝えられるだけの結果となった。


 そう、彼は勘違いしている。

 彼が言ったようなことなど、誰に言われずとも自分が一番理解している。


 三十歳だ。

 自分がダメな理由など知っている。


 社会も環境も何も悪くない。

 金魚のように口を開けて餌を待つことしかできない自分が全て悪いのだ。


 分かっているのに何もできない。

 あまりにも惨めで、吐き気がする。


 子供の頃ならば、この気持ちを吐き出すことができたのだろうか。しかし、大人になってしまった今ではもう飲み込むことしかできない。


「……」


 何も言わず腰を浮かせる。

 そのまま踵を返した時、それは起こった。



「ふるぅううううううい!!!」



 頭が真っ白になるほどの大音量。

 一瞬だけ自分の内側から発せられたのかと誤認するようなタイミングで落ちた、特大の雷。


「ふるい! ふるい! ふるいふるいふるいふるいふるいふるいふるい! 古いんだよぉ!」


 発信源は、担当の女性だった。

 すっと物静かに座っていた姿からは想像もできないような大絶叫。自分はもちろん、彼女の隣で淡々と話をしていた鈴木さんも、唖然としていた。


「おいおまえ!」


 ビシッと人差し指を向けられる。


「おまえだ! 聞こえてんのか!?」

「……は、はい」


 ビクリと返事をした。

 何がなんだか分からなかった。


 困惑していると、鈴木さんが止めに入る。


「佐藤さん、急にどうしたの」

「うるさい! 黙って見てろ!」

「それはできない。説明してくれ」

「ケンちゃんの根性論は古いんだよ! 意気揚々と説教して満足とかダサすぎ! そんなこと本人が一番分かってんの! それをどうにかするのが教育なの!」


 彼女の言葉、そのひとつひとつが胸を打つ。

 全身全霊の叫び声が、問答無用で心を震わせる。


 なんだ、これは。

 説明できない。理解できない感情が、湧き上がる。


「佐藤さん、うちは未経験NGだ。この一点だけは絶対に譲れない。自分から何か始められない人を一時的に助けても、長期的にはその人のためにならない」

「この節穴野郎!!」

「なっ、ふしあな?」


 それは妙にスカッとする光景だった。

 鈴木さんは決して悪人ではない。相手のことを考えて心を鬼にできる強い人だ。同時に、自分よりも上に君臨する種類の人間だ。それがこうも驚愕しているのを見ると、どうにも気分が高揚してしまう。


「おいおまえ!」

「はっ、はい!」


 再び声をかけられ緊張する。


「入門書を読んだことはあるか!?」

「……それは、その」

「さっぱり分からなくてそっと本を閉じた経験が一度はあるだろそうなんだろ!?」

「……それは、まあ、はい」


 彼女は次々と質問を繰り返す。


「パソコン持ってるか!?」

「……いえ、持ってません」


 何かを確かめるかのように。

 彼女の中にある仮説を裏付けるかのように。


「悔しいか!?」

「……はい?」

「ボロクソ言われて悔しいか!?」

「……それは、まあ、多少は」

「聞こえない!」

「……っ」


 まるで古びたマッチに火をつけるかのようだった。


「……悔しい、です」

「もっと!」


 彼女は自分とは正反対の人間だ。

 自ら学ぶことが出来る強者の側に居る人間だ。


 説教なら何度も聞いた。

 分かってるんだよそんなこと。負け犬の遠吠えを胸の内に封じ込めて、やっぱり何も出来ない自分に対する嫌悪感だけを募らせていた。そのうち、何も感じなくなった。


 だから初めてだった。

 強者の言葉で胸が熱くなったのは、初めてだった。


「……悔しいですっ」

「もっっっと!!!」


 きっと、生まれて初めてこの感情を言葉にした。


「悔しいです!!」


 一体何をしているのだろうという思いはある。これで何か変わるとは思えない。しかし、心地良い。冷え切ったはずの心が熱い。


「じゃあやるぞ!」

「何を、ですか?」

「今から基礎を教える! そこに座れ!」

「はっ、はい!」


 ソファに座り直すと、彼女は紙とペンを持って隣に座った。そして、教育を始めた。


「ここにコインがあります」

「……」


 無言で彼女が手にした百円玉を見る。


「コインを投げて表だったら服を脱ぎます」

「えっ、脱ぐんですか?」

「ちょっと期待すんな! 例え話!」


 ですよね、と苦笑い。なんだこれ。

 彼女はコホンと喉を鳴らして仕切り直す。


「プログラムにするとこうです」


 コイン=表か裏

 もしも コイン=表

  服を脱ぐ


「……はい」


 彼女が紙に記した文字を見て、頷く。

 書かれていることは理解できる。きっと小学生にも分かる内容だ。しかしピンと来ない。ここから自分は何を理解すれば良いのだろうか。


「流行りのpythonパイソンならこう!」


 コイン = random.randint(0, 1)

 if コイン == 1 :

  服を脱ぐ()


「……はい」


 まだ日本語が混じっているけれど、少しプログラムっぽくなった。もちろんこれを見て何か理解できるか問われれば、分からないままだ。


「このプログラムだと半分の確率で全裸です」

「……そうですね」

「それは嫌なので、サイコロを使います」


 サイコロ = 1から6

 もしも サイコロ=1

  服を脱ぐ


「……なるほど?」

「はい、これpythonで書き直して」

「え? 私がですか?」


 そう、と頷いた。

 困惑しながらペンを受け取る。


 もちろん急には手が動かない。全く難しいことなどしていないはずなのに、頭が働かない。


 トン、と机を叩く音。

 目を向けると、彼女が先ほど記した簡単なプログラムが残っていた。


 なるほど、あれを参考にするならば――


 サイコロ = random.randint(1, 6)

 if サイコロ = 1:

  服を脱ぐ()


「惜しい! ifのイコールは二つだぞ」

「ああ、なるほど、そうなんですね」


 指摘されて、書き直す。

 彼女は「よし」と満足そうに言って、


「一回だけでいいのか?」

「……と、言いますと?」

「脱ぐまでプログラムを繰り返さなくていいのか?」

「……これ返事するとセクハラになりませんか?」

「うわ~、おエロい奴め。仕方ないな~」


 彼女は上機嫌で言って、先程のプログラムの先頭に「繰り返す」と書き加えた。


「どうなると思う?」

「繰り返されます……?」

「いつまで?」

「いつ? ……ええっと、ずっと、ですか?」

「正解! いいじゃんセンスあるセンスある!」

「……はぁ、その、どうも」


 何照れてるんだ三十歳。


「じゃあ終わるにはどうすればいい?」

「……終わるには、ですか?」

「そう、終わる。めっちゃ簡単だよ」


 再びペンを受け取る。

 もちろん、わからない。しかし彼女は簡単だと口にした。……「繰り返す」で繰り返すなら、終わるには……もしかして……


 終わる、とプログラムの一番下に書く。


「惜しい! そこだと一回で終わっちゃう!」


 言われて、考え直す。

 場所が重要ということならば……


繰り返す

 サイコロ = random.randint(1, 6)

 if サイコロ == 1:

  服を脱ぐ()

  終わる


「正解!! すごいじゃん! すごいすごい!」

「……はぁ、その、どうも」


 だから照れるなよ三十歳。


「これをちゃんとプログラムにすると、こうだよ」


while 1:

 サイコロ = random.randint(1, 6)

 if サイコロ == 1:

  服を脱ぐ()

  break


 彼女が記したプログラムを見る。

 繰り返すが「while 1:」に、終わるが「break」に変化していた。


 なんとなく、分かり始めたような気がした。

 文章の並び順なんかは日本語で書いたものと変わらない。ただ、一部の言葉がwhileやifみたいな別の言葉に変化している。


 ワクワクした。

 このまま彼女から教われば、理解できるかもしれない。


「はい、これで終わり」

「えっ、終わりですか?」

「うん。これでプログラミングの基礎は全部終わり」

「……これで?」


 冗談を言っている雰囲気ではない。

 困惑していると、彼女は説明を始めた。


「プログラムの基礎は、たった四つ。数字に名前を付けること、もしも~って条件を分けること、繰り返すこと、服を脱ぐみたいな一連の動作を関数にして使うこと。他のことは、全部楽にプログラムを書くための小技。知らなくても大丈夫だよ」


 言われて考える。

 確かに、このサイコロで服を脱ぐプログラムには、彼女が言った四種類の要素がある。


「あの、関数というのは?」

「自分で調べよう」

「はい?」

「ネットで検索してもよし。本を読んでもよし。とにかく自分で調べること。絶対出てくるから」


 はぁ、と空返事。

 分かりかけたものが消えていくような気がする。


「というわけでノートパソコンです」

「あっ、続くんですね」


 それから一時間ほど指導が続いた。

 まずは紙の上に日本語でプログラムを書いて、それを別の言語に書き直した。それから実際にパソコンでプログラムを動かして、紙の上のプログラムが正しいことを確かめた。その繰り返しだった。


 もちろんエラーばかりだった。

 彼女はその度に「調べろ」と言った。最初は何を調べればいいのか分からなかったけれど、ヒントを貰いながら五回ほど繰り返したところでコツが掴めた。


「仕事でパソコン使う?」

「ええ、それなりに」

「手作業ある?」

「……ああ、そうか。はい。なるほど。これなら」


 ふと思い浮かんで、彼女に問う。


「ちょっと、試してみてもいいですか?」

「ダメです」


 彼女は無慈悲にノートパソコンを閉じた。


「無料体験はここまでです」

「……そう、ですか」


 身体がムズムズするのを感じた。

 試したい。思い浮かんだことを試してみたい。


 しかし……無理だ。

 パソコンを持っていない。買うお金も無い。


「大学出てるんだっけ?」

「……ええ、一応は」

「じゃあ今から行ってこい!」

「えっと、大学にですか?」


 そう、と彼女は返事をする。


「恩師に媚びよう!」

「……恩師、ですか。私のことなんて、もう覚えているかどうか」

「うるさい! やってから諦めろ!」


 その月並みな言葉にドキリとする。


「失うものなんてないんだから。無敵だよ」

「……はは、そうですね」


 本当に不思議な人だと思った。

 それほど特別な言葉ではないのに、彼女が口にするだけで、胸を打つ言葉に変わる。


「大丈夫」


 彼女は、太陽のような笑顔で言った。


「できるよ。絶対。あなたは、強い人だから」


 息が詰まる。

 強い人。何を根拠に、何を知って、その言葉を口にしたのかは分からない。分からないのに、身体が熱くなる。感情が暴れ回る。止められない。


「ほらっ、早く行かないと延長料金! 五万円!」

「えっ、そうなんですか?」

「はい十、九、は~ち……」


 慌てて立ち上がる。

 荷物を手に追い出されるようにして部屋から出る。


 その直前で、


「あのっ、ありがとうございました!」


 一言だけ感謝の言葉を伝えて、駆け出した。


 目的地は、大学。

 そこで何か得られるとは思えない。徒労に終わる可能性の方が高い。交通費が無駄だと冷静な自分が叫んでいる。しかし、足を止めることができない。


 ――やってから諦めろ!


 彼女の言葉が、頭から離れなかった。

 だから走った。心に灯った小さな炎が消えるよりも早く、行動しなければならないと思った。



 *



「……本当に来てしまった」


 今が三十歳だから、だいたい八年振りの大学。


「……休日でも人いるんだな」


 ちょうど昼時だからだろうか。

 自分も学生時代に何度か使ったことのあるベンチ。そこで数人の学生が談笑していた。


 少し考えてから歩き始める。

 向かう先はゼミ室。一応は恩師と呼べる人の部屋。


 まだ在籍しているのだろうか。

 そもそも自分のことなんか覚えているのだろうか。


 多くの不安を胸に、歩いた。

 そして目的地。ドアの隣にあるプレートで恩師が部屋に居ることを確認して、ノックをした。


「はい、どうぞ~?」


 聞き覚えのある懐かしい声。


「失礼いたします!」


 まるで面接でも始めるみたいに気合を入れて、入室した。


「……ええっと、どなたかな?」


 当然の反応。

 踵を返して逃げ出したい。


 ――無敵だよ。


「あのっ、当然すみません。卒業生の洙田と申します。本日はそのっ」

「あ~、洙田くん。覚えてるよ。元気かい?」


 言葉を失った。

 口をぽかんと開けて、恩師を見ていた。


「ああっとすまない。話の途中だったね」

「……あ、はい。その……パソコンを、使わせて頂けないかなと」

「パソコン? 何に使うの?」

「その、仕事で、いえ、プログラミングの勉強をしたいと思いまして、だからその」

「おー、そういうことか。よし分かった。ちょっと待ちなさい」


 再び、ぽかんとした。自分が口にしたのは、ボソボソ声で要領を得ない言葉。しかし恩師は、まるでそうすることが当然であるかのように、案内を始めた。


 雑談をしながら歩く。

 恩師は上機嫌だった。

 卒業生の顔を見られることが嬉しいらしい。


「あの、失礼かもしれませんが、よく自分のことなんか覚えていましたね」

「そりゃ覚えてるよ。すごく頑張ってる学生だったからね」

「……そうでしたっけ?」

「そうとも」


 全く記憶にない。

 もしかしたら別の誰かと勘違いしているのではないだろうか。そう思い始めた。


「洙田くんは奨学金を貰って、しかも沢山アルバイトをしていた。そういう学生はね、珍しくないんだよ」


 恩師は、こちらに背中を向けたまま言う。


「でも、君ほど真面目な子は珍しい。課題はきちんと提出する。講義でも眠気を我慢しながらノートを作っていたね。当たり前のことかもしれないけどね。長く教師をやっていると、それが特別だと分かる」


 ――無意味だと思っていた。


「なにか、夢でもあるのかい」


 ――大切なお金を使って、四年も時間を浪費して、何の役にも立たない大卒の資格を買っただけだと思っていた。


「……母に、ハワイ旅行をプレゼントしたいです」

「ほう、立派な夢じゃないか」


 ――できない理由ばかり並べて、自分を卑下するばかりの日々だった。


「じゃあこれ、空いてる時間は使っていいからね。誰かに声かけられたら、僕の名前出していいから」


 ――間違いだった。

 何ひとつ、無駄じゃなかった。


「……はい。ありがとうございます」


 情けなくて唇を噛む。


「がんばれよ」

「……はいっ」


 ポンと肩を叩いて、恩師は立ち去った。

 涙を拭って、キーボードに触れる。


 ほんの一時間ほど指導を受けただけ。付け焼き刃の技術。これが何かに繋がるとは思えない。


 だけど、きっかけをもらった。

 これまでの人生で唯一の、最初で最後かもしれない挑戦。それを始めるきっかけを与えられた。


「……っ」


 唇を噛む。涙が止まらない。

 他の学生が見れば、この姿は通報ものだろう。


 構わない。

 恐れるものなど何もない。


 今の自分は、無敵なのだから。

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