マルチタスクはもう嫌だ 終


 小田原茂は起床した。


 日曜日の朝。

 普段ならば何もする気が起こらず二度寝して、気が付けば昼。


 しかし今日は、


「あ、パパおはよー!」

「おー、早起きだな歩夢」


 まだ挨拶くらいはしてくれる。


「めずらしー!」

「はは、パパも偶には早起きだ」


 なんでー? と問いかける娘。

 笑顔だった。久しぶりに見たような気がした。


「歩夢、そろそろあの、アレが始まる時間じゃないか?」

「そー! はじまるー! なんでしってるのー!?」

「ははは、実は、この前会ったんだよ」

「だれにー?」


 名前が出てこない。

 困りながら目を逸らして、そこで偶然にもフィギュアを発見する。


「あの子に」

「えー!? シアンちゃん!? うそー!」

「本当だよ」

「ぜったいうそー!」


 嬉しそうに騒ぐ娘。

 なんだか嫌われていると感じていた彼は安堵した。


「いっしょにみよー!」

「……ああ、そうだな」

「ほんとー? やったー!」


 それから娘と一緒にアニメを見た。

 正直、全く面白くない。


 おもしろいねーと度々笑顔の娘。

 どうにか笑顔を返したけれど、途中から疲れを感じる程だった。


 ――魂に刻まれるんですよ!


 ふと大袈裟な言葉を思い出す。

 同時に、考えた。自分が子供の頃は、どうだっただろうか。


 ちょうど、そのとき。


「あら、珍しい」

「あ! ママおはよー!」

「おはよう。どうしてパパも一緒なの?」

「あのねー! パパねー! シアンちゃんとあったんだってー!」

「そうなんだー、すごいねー」


 娘に何を言ってるの? と氷のような笑顔。


「ちょっと仕事でな。イベントがあったんだよ」

「はいはい、お仕事ですね」


 子供に聞こえないよう小声で会話。


「朝ごはん食べる?」

「たべるー!」

「俺も食べるよ」


 妻は特に表情を変えず頷いて、台所へ向かった。

 彼は背中を追いかけようとして――邪魔だからあっちへ行って――足を止める。


 ヒトは急に変わることなどできない。

 自分だけでも難しいのに、どうして二人が変われるのだろう。


「パパどうしたのー?」

「ん? ああすまん、ちょっと考え事してた」


 温かい気持ちになった。長い間、ずっとビジネスライクな付き合いばかりしてきた。あんな風に、高校生の部活みたいな雰囲気は、本当に久々だった。


 あの二人は社会人としては不適合者なのだろう。

 しかし小田原茂には、あの雰囲気が心地良かった。


 なぜだろう、と考える。

 それらしい答えは出てこない。


 しかし、忘れようにも忘れられない。

 今アニメで動いて喋っているキャラを見る度に、嫌でも思い出すのだ。


「はい、どうぞ」

「ありがとー!」


 食事の時間。

 元気な娘と、にっこり笑う妻。


「はい」

「……おう」


 自分の前に置かれた料理。

 小田原茂はいつものように箸を手に取る。


 ――もうちょっとこう、感謝の言葉とか欲しいですね


 ドキリとした。

 小田原茂は、思わず妻に目を向けた。


 ――仕事だからやって当たり前みたいなのダメだと思います


「……なあ」

「なに?」


 声をかける。

 ほとんど無意識だった。

 だから、続く言葉が出ない。


「……いや、なんでもない」

「……そう」


 言うべき言葉は分かっている。

 ありがとう。簡単な五文字だ。


 悩み続けたプログラミングとは比べるべくもない。

 それを解決した簡単な図。あの図を書くよりも遥かに簡単なこと。


 それが、出来ないことに気が付いた。

 ありがとう。たった五文字の言葉が、出てこない。


「どうしたのー?」

「ううん、なんでもないよ」

「ああ、あれだ、アニメ面白かったな」


 無理のあるごまかし方。


「うん! おもしろかったー!」


 娘はちょろかった。


「そういえば、侑はどうした」

「まだ寝てる」

「そうか。まだ三歳だからな」

「そうね」


 小田原はしょんぼりする。娘と話をした勢いで……そう思ったけれど、こうあからさまな話しかけるなオーラを出されては何も言えない。


 それでも、彼は何度かチャレンジした。

 結果は失敗だらけ。彼はとても驚いた。


 ありがとうが言えない。

 簡単な言葉なのに、声にならない。


 ある日の夜、妻が言った。


「ねえ、あなた最近何か言おうとしてるでしょ」


 子供たちはもう寝ている。


「……そう思うか」

「そうでしょ。なんでもないなんでもないって……」


 まるで別れ話のような空気。


「…………」


 しかし彼は、何も言えない。

 数分は耐えた妻だったけれど、


「もういい。先に寝る」

「待ってくれ」


 反射的に引き留めた。

 今言わなければ、決定的に切れてしまう。そう思った。


「……仕事が、大変なんだ」

「ああ、そう。いつも言ってるね。だからなに」


 それは不器用な、とても遠回りな導入。


「あれもこれも頼まれて、いつも手一杯だった」


 しかし、一度言葉を発したことで、次の言葉がスッと出てくる。


「歩夢が言っていたこと、覚えてるか?」

「いつの話」

「アニメキャラに会ったって」

「……ああ、そんなこと言ってたね」

「その人が言ったんだよ。まるで会社の母親みたいだって。せめて感謝の言葉が欲しい。仕事だからやって当たり前というのはおかしいって」


 彼は、妻の目を見た。


「どうしてか、言えないんだ。情けなくて嫌になる」


 久々に見る顔は、記憶にあるよりも少し老けて見えた。

 あれ、こんな顔だっただろうか。昔はもっと、そう、笑顔が素敵な女性だった。


「……ふふ」


 面食らう。


「どうした、急に」

「……だって、真面目な顔で……おかしいでしょ」


 体中が熱くなった。

 羞恥と、微かな怒りと、困惑。


 何よりも、ハッとした。

 妻が笑う姿を見るのは、本当に久々だった。


「もう寝るね。ああ、おもしろ」


 どこか上機嫌で立ち去ろうとする妻。


「待ってくれ」


 咄嗟に呼び止めて、彼は


「いつも……いつも、ありがとう」

「あーもうやめて。ふふ、ほんとおもしろい」

「おまえな、こっちは真剣に……」

「あーはいはい。こちらこそ、いつもお仕事お疲れ様です」


 それからのこと。

 もちろん劇的な変化など無い。


 相変わらず「ありがとう」の言葉が出なくて、しかし、何も言えず見ていると、妻が思い出し笑いをするようになった。それを見て娘が「なにかあったのー?」と問うものだから、気恥しくて、ごまかす。


 家族に笑顔が増えた。


 きっかけは、勉強するために足を運んだ塾。

 きっかけは、おかしな格好で働くエンジニア。


 何もかもがおかしい。

 ああ、おかしくてたまらない。


 これほど簡単なことが、どうして、あれほど難しかったのだろう。



 ***



 後日、真のプログラマ塾は定期受講生と同時に口コミを獲得した。


 コスプレに対する痛烈な批判と、指導力を絶賛するコメント。

 そして最後に一言、こう記されていた。


 とても、心が温かくなる塾です。




 ***




「次の予定はなんだったかね」

「はい。人事部によるアンケート結果の報告です」

「ああ、ありがとう。重要な報告だな」


 大改革を開始してから一月。

 この日、新社長は初めて従業員全体のフィードバックを目にすることになる。


 しかし彼は気が付かない。

 これが決定的な分岐点であることに気が付かない。


「場所はどこかね」

「F会議室です」

「そうか。では、行こうか」






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