マルチタスクはもう嫌だ 3


「お待たせしました。担当の鈴木です」

「ああ、どうも。よろしくお願いします」


 よくある零細企業の事務所。

 都内某所、マンションの一室。


 スッキリとした綺麗な内装。悪く言えば何も無い。

 出入口付近には受付みたいなブースがあるけれど、今のところ使われていない。その裏側にはソファとテーブルがある。現在、事務所内にはソファに座っている大人が三人。


 スーツ姿の男性が二人。

 そして魔法少女が一人。


 とても混沌とした空間で、鈴木が口火を切る。


「早速ですが小田原さん、研修って無意味だなと感じたことはありませんか」

「……ええ、まあ何度か」


 ここは本当にプログラマ塾なのだろうか。

 ただでさえ疑わしい無名の会社と常識を逸した格好の従業員。案内された机には紙とペンだけが用意されており、担当者の第一声は詐欺師のような言葉。


「なぜ無意味に感じるのか。ボクは、得られた知識が直ぐには役に立たないからだと思っています」

「……まあ、そうですね」


 ……いつでも逃げられる心構えをしておこう。

 小田原の警戒心は極限まで引き上げられていた。


「だから今回は、小田原さんが現在困っていることをひとつだけ解決します」

「……困っていること、ですか」

「はい。事前アンケートでもご回答いただいたのですが、あらためて聞かせてください。プログラミングを学びたいと思ったのは、どうしてですか」


 ……この人は、まともそうだな。

 雰囲気や態度が好印象である。信用できそうだ。


 ……なら隣は、なんなのだろう。

 どう考えても異常。何か意味があるとも思えない。


 小田原は佐藤の存在に困惑しながらも話を始めた。


 これまでプログラミングは未経験だったこと。

 しかし最近会社の方針で触れる機会が増えたこと。


 鈴木が的確な相槌を入れることで、会話はスムーズに進んだ。最初は佐藤が気になってチラチラしていた小田原は、ほんの二分ほどで鈴木との会話に集中するようになった。


 ……なかなかやるな。

 内心で鈴木の評価を上げる佐藤こと諸悪の根源。


「なるほど」


 一通りの話を聞き終えた鈴木は、大きく頷いた。

 小田原の業務は、何か開発することではない。既に存在しているプログラムを運用、もしくは改修する仕事である。


 彼は膨大な量のソースコードに面食らった。

 ひとつひとつが魔法のような記述。ほんの数行を読み解くだけでも一苦労なのに、それが千行以上も続くのだから頭が痛くなる。


「では、ソースコードを読むことを諦めましょう」

「諦める、ですか?」

「代わりに紙とペンを使います」

「……紙、ですか」


 はい、と頷いて、


「小田原さんが特に困ってらっしゃるのは、プログラムの改修でしたね。具体的には、いくつかの設定を確認するプログラムがあり、その一部に不具合が生じている。だから改修したい」

「ええ、その通りです」

「プログラムの流れ、ざっくりどんな感じか話せますか?」

「ええと、まずデータベースとコンフィグの情報を変数に格納して……その先が、難しいんですよね……」


 鈴木は隣に目を向ける。


「佐藤さん、今の話を聞いて、どんなソースコードを想像しますか」


 いきなり来たなと少し驚く佐藤。

 そいつに振るのかと驚愕する小田原。


「多分ですけど、めちゃくちゃ条件分岐して設定を確かめてるんじゃないですかね。なんかコメントとかで謎の区切りがあって、いろいろな設定の確認がバーって並んでるイメージ」

「おお、そうです、そんな感じです」


 小田原は心底驚いた様子で同意した。

 一方で、話を聞いた鈴木はペンを走らせる。


「つまり、こういうことですね」


 丸を描いて、その中に「読み込み」と書く。

 続いて「確認1」「確認2」...「確認n」と縦に並べて記す。


「ああ、なるほど。絵にすると分かりやすいですね」

「いえ、ここからです」


 ほぉ、と眉を上げた小田原。

 鈴木は柔らかい笑顔を浮かべたまま説明を始める。


「このプログラムは多くの確認を行っているから行数も多い。ですが、確認する設定の順番は全く関係ないはずだ。つまり――」


 鈴木は紙を裏返して、もう一度、丸を描く。その中に「読み込み」と記すまでは同じ。


「あー、なるほどなるほど、確かにそうでうすね」


 前の図では「確認」が縦に並んでいた。

 しかし新しい図では、横に並んでいる。


 話は非常にシンプル。

 小田原は千行を超えるプログラムに頭を悩ませている。しかし今回のケースでは全てを理解する必要など無い。では、どの部分を理解すれば良いのだろうか。


 それを知る方法が、鈴木の描いた図であった。


「はー、絵を描くだけで随分と違いますね」

「そうなんです。人間は情報処理の大部分を視覚情報に頼っていますからね。それにボクたちは、紙とペンを使って物事を覚える訓練を少なくとも九年間続けています」

「ああ、仰る通りだ。言われてみれば、今でも資格勉強なんかは紙とペンですね。どうしてプログラミングではこの発想に至らなかったのだろう……」


 鈴木はペンを置いて、小田原の目を見る。


「これでひとつ、解決ですね」

「ええスッキリしました。実は詳しい同僚を頼ったこともあったのですが、専門的な色が強く、恥ずかしながら知ったかぶりしていました。それが……いやはや、これほど簡単に解決するとは」

「ご満足頂けたようで何よりです」

「はい。失礼を承知で、最初はその」


 佐藤を一瞥して、


「驚いたのですが……」

「あはは、これでも彼女は非常に優秀なエンジニアですよ」


 これでも?

 佐藤はニコニコ鈴木を睨む。


「なぜ……いや、なんでもないです」

「かわいいからです!」


 えっへんと佐藤は胸を張る。

 それを見た成人男性の反応は、まあお察しの通り。


「納得いかない!」


 28歳の魔法少女は憤慨する。


「これ、ご存知ないですか? ニチアサですよ?」

「……ニチアサ」

「日曜日の朝です」

「なるほど」


 小田原は苦笑して、初めて佐藤の衣装を直視する。


「あっ、ああ思い出しました。娘が見ているアニメだ」

「そう! 娘さんいるんですね!」

「ええ、今年で五歳になります」

「一番かわいい時期じゃないですか。一緒にアニメ見たりするんですか?」


 グイグイ質問する佐藤。

 小田原は先程とは違った様子で苦笑する。


「いやぁ、見ないですね。最近あまり話す機会がないもので……」

「ああ……お仕事忙しい系ですか」

「そうですね。いわゆるマルチタスクで、最近はもう自分が何やってるか分からないことが多くて……」


 不意に登場した重たい空気。

 鈴木は少し危機感を覚え、話題を切り替えようとする。しかし彼が言葉を発するよりも早く、佐藤が大きな声で言った。


「わかる!」


 二人は驚いて佐藤を見る。


「私ワンオペだったんですよ。前の仕事」

「それはキツいですね」

「いやもう気分は母親ですね。会社のママですよ。おいおいそれは資料があるぞ? みたいなことまで私に質問が来るんですよ! もー! かわいいなーもー! こんな感じです」

「……あはは、楽しそうですね」


 佐藤は声のトーンを落として、


「笑うしかないじゃないですか」

「……そうですね。マルチタスクはもう嫌ですね」


 底知れぬ闇を感じて鈴木は黙る。口を挟める空気ではない。


「まあ質問するのは良いんですけどね。もうちょっとこう、感謝の言葉とか欲しいですね」

「ああ、確かにあまり褒められることってないですよね」

「そうなんですよ。仕事だからやって当たり前みたいなのダメだと思います」


 そうですね、と相槌。


「ただそれはそれです。お子さんと一緒にアニメ見ましょ」

「……ああ、ええ、そうですね」


 唐突な提案。

 小田原は返す言葉が浮かばず愛想笑い。


「幼い頃の思い出は魂に刻まれます。今放置された子供は将来しわしわです。大事にしてあげてください」

「佐藤さん、あまりお客さんのプライベートには」

「でもロリだよ?」

「佐藤さん、落ち着いて」


 明らかに慌てた様子の鈴木。


「いや、大丈夫ですよ。仰る通りだと思いました」

「……その、本当に申し訳ございません」

「いえいえ、とんでもない」


 しかし小田原は全く気にしていない様子で言う。


「お二人は、ご夫婦ですか?」


 鈴木は吹き出しそうになって唇を噛む。

 佐藤は「いえ古くからの友人です」と冷静。


「……そうですか」


 二人の様子を見て、小田原は何か察した様子で言った。その声は、どこか楽しげだった。


「さて、すみません。実はこのあと用事がありまして……」

「……ああ、そうですか。お急ぎですか?」

「はい、すみません。失礼します」

「いえいえ、ありがとうございました」


 立ち上がる小田原。

 鈴木も立ち上がり、見送りに出る。


「後日アンケートメール等お送りしますので、よければご協力お願いいたします」

「ええ、分かりました。今日は楽しかったです。ありがとうございました」

「はい、またよろしくお願いいたします」


 短い挨拶をして、小田原は帰宅した。

 鈴木はソファに戻ってガックリと頭を抱える。


 佐藤は少し悩んだあと、明るい声で話しかけた。


「反省もいいけど、まず喜ぼうよ! 楽しかったって!」

「……社交辞令だよ~」


 深い溜息と共に吐き出された鈴木の声。


「佐藤さん、研修しよう」

「えー、ちゃんと空気読んでたよ?」

「プライベートには触れちゃダメ。最悪クレーム」

「お堅い。対面なんだからもっと心に寄り添わないと」


 心に寄り添う。

 それは偶然にも鈴木が最も大切にしている言葉。


「ビジネスの交渉でも雑談から入ったりするでしょう?」

「……まあ、何を言うかより誰が言うかってのはあるけども」


 あ、こいつあと一息だな。

 正直かなり怒られる要素を自覚している佐藤はニヤリとする。


「そう、何を言ったかより誰が言ったか!」


 佐藤は魔法のステッキを手に取って、


「見てこれ! これで接客! これ以下は無いでしょ!」

「……そうかなぁ」

「無敵だよ!」

「……そっかぁ」


 ダメだ鈴木、負けるな鈴木。お前は間違ってない。


「でも次はもうちょっと慎重に頼むよ」

「はーい」


 鈴木ぃ……

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