月を飾る書斎

不可逆性FIG

The sanctum decorated with the MOON.

「香代子、僕はね、狂気に取り憑かれているんだ」

 年老いた声、幼い頃の強烈な思い出が甦る。まるで秘密基地のように趣味を詰め込んだ古びた書斎で祖父が私と会話するときに言う、秘密の口癖だった懐かしい言葉。いつも品の良い格好と綺麗な白髪と優しい笑顔で接してくれる彼が好きだった。


 先月、祖父が穏やかに老衰で亡くなった。晩年、独り身だった彼は足腰が少し弱くなっていたとはいえ普通に元気だった。しかし、安全のため訪問介護を頼んでいたようでそれが死後、早期発見に繋がったのだろう。

 三年前に病を患っていた祖母を看取ってから、私の両親が独りになる祖父に同居を提案したのだが、彼はその誘いを断り最期まで家を手放さずにいた。別に偏屈な年寄りになったわけでもなく、むしろとても聡明で理知的な人だったので、何かこだわりがあってのことに違いない。そう結論付けて、今まで通りの生活を尊重することにしたのである。


***


 祖父の葬式やら納骨やらバタバタと目まぐるしく慌ただしい日々がようやく一段落ついて、久しぶりに穏やかな時間が戻ってきた頃のこと。

 喪主であった両親はしばらく仕事に穴を開けてしまったようで、ふたりとも今日だけは休日出勤を余儀なくされていた。私だって社会人二年目なので、仕事の穴埋めは必要かと上司に訊いたところ「問題ない」と断られてしまった。もちろん、余計な労働などしたくはないのだが、家族の中で自分だけが平凡な休日を過ごしていると思うと、罪悪感で少しだけ胸が痛い。

 そう思っていると、父から「暇なら遺品整理のために、爺ちゃんの家の様子を調べといてくれ」と手渡されてしまったのは、シンプルなデザインの鍵。たしかに暇してたのは本当なので、頼まれるがままに電車に揺られて祖父の住んでいた町まで行くことにした。

 久しぶりの何もない日の午後も平等に時間は過ぎていく。流れゆく車窓からは、木々が紅葉し終わって、すっかり秋めいた寂しい景色が多くなっていた。


「久しぶりだなぁ、この町並みも」

 同じ県に住んではいたけれど彼の家は片田舎のほうで、久しぶりに長時間の電車移動は多少なりとも疲れてしまう。

 改札を通り、東口に降りると懐かしい景色が未だ変わらずに広がっていた。駅前のスーパー、ドラッグストア、交番……角に建っていたファーストフード店はどうやら潰れてしまったようで、代わりに別会社のファーストフード店が営業をしているのが面白かった。そのくせ、駅から少し離れただけで昔ながらの純喫茶や、年季の入った居酒屋なんかが店を構えているのだ。そんな町のちぐはぐさを胸いっぱいに吸い込み、街路樹の木漏れ日の下を歩いて住宅街を何度か曲がれば目的地に迷わず到着した。

 幼い頃から慣れ親しんだ祖父母の家。私は親から預かった鍵を使い、出迎える人のいない室内へと向かう。

「おじゃましまーす……」

 ガチャリと扉が開く。昼間だというのに、どこか仄暗い。足元には揃えて並べられたままの、サンダルや革靴。まとめて置いてある古新聞。一本だけ傘立てに刺さっていないビニール傘。玄関には、そのままの生活感がありありと残されている。けれども、人の気配の無いシンとした空気がそこかしこに沈殿している、そんな気がした。


 この家には幼い頃から、何度も遊びに来ている。だから、どこが何の部屋なのかは大体の目星が付いていた。しかしながら、祖母が先に亡くなったことでいつの間にか物置になってしまった部屋もあり、そのことが私の知る空間ではないことに時の流れを感じて、少し寂しかったりもした。

 父に頼まれた通り遺品整理のため、家の家財道具などの写真を万遍なく撮りながら歩いていると、二階奥のひとつの扉に差し掛かる。 ――ここは生前、祖父がお気に入りだった書斎だった。そして、私も好きな空間だった。開けようとドアノブに触れた瞬間、今までに祖父と築いてきた数多の思い出がふと溢れてきて、胸が苦しくなってしまう。私は努めて冷静に深呼吸をして、書斎の扉をそっと開いた。

「香代子、僕はね、狂気に取り憑かれているんだ」

 そんな声が今にも聞こえてきそうな、慣れ親しんだ空間。祖父の趣味をありったけ集めたような書斎にはたくさんの本が収納されていて、私にはあまり縁の無さそうな難しいタイトルが並べられている。本棚の他にも天球儀、不思議な形の羅針盤、それと高そうなスピーカーがついたレコードプレーヤーなどが置かれていた。部屋の奥には年季の入ったガラス窓が暖かな陽光を取り入れており、午後の光はそのまま高級そうな漆塗りの無垢材で作られた机に今も変わらずに降り注がれていた。

 幼い頃に親と遊びに来たとき、親子喧嘩してこの家に転がり込んだとき、違う自分になりたくて突然金髪に染めたとき、就職が上手く行かずに心が疲れてしまったとき、様々な出来事を私はここで祖父と共有していた。何を話しても全てを受け止めてくれ、否定も肯定もせずにただ優しく「大丈夫だよ」と微笑んでくれる人だった。

 狂気に取り憑かれている。そんな祖父の唯一、変な口癖だった言葉。書斎には絶えず音楽が流れていて、時代を感じる古臭くて心地良いサウンドがセットで記憶されているのだ。私は遺品整理の手を止め、彼の愛用していた机に頬杖をつきながらぼんやりと物思いに耽ってしまう。何か大切なものを慈しむかのように繰り返される台詞。およそ彼には似つかわしくない不穏な口癖。もう一度……もう一度だけ逢えたらな、と感傷に浸っていると眼の前が潤んで、ぼやけてしまうから良くない。

 みっともなく鼻をすすり、滲んだ目元を拭う。これも感傷のひとつなのだろう。音のない書斎で、色々と整理されてしまう前に祖父が好んでいた音楽をふと知りたくなってレコードラックに手を伸ばした。ところ狭しと、ラックの中にレコード盤が詰め込まれていたのだが、私はそれよりも明らかに別格の扱いであろうものを見つけてしまったのだ。

「きっとお気に入りなのね」

 レコードラックの棚の上に飾られていた一枚のジャケット。それは使い込まれていたのか、少し日に焼けていたり、手が触れる箇所の紙がふにゃふにゃと劣化していたりと、笑ってしまうくらい何度も使用していることがわかりやすく表れているものだった。

 私も迷わずそのレコードを手に取る。ジャケットには特徴的な幾何学模様が描かれていた。暗い背景にポツンと置かれている正三角形、左に伸びる一筋の線と、右には幾重にも広がる虹色の模様。バンド名もアルバムタイトルすらも書かれていない不思議なデザインだった。気になって裏表紙を見ると、ようやくそこに手がかりを見つけた。

 左上にシンプルな文字で、『PINK FLOYD / The dark side of the moon』と表記されている。聞いたこともない名前だったのでその場で検索をしてみたら、どうやら世界的ロックバンドらしいことがわかった。読み方はピンクフロイド。……やはり聞いたことのない名前だった。月の裏側という名のアルバムなのに、月のイラストが使われておらず、それぞれの曲名にも月にまつわるものはない。――それでも、祖父が一番聴いたであろうアルバムを私も少しだけ知りたくなったのである。

「ピンクフロイド、か……」


***


 静寂。

 そっと針をレコードに降ろす。音の出し方を調べながら、なんとか音楽を流すことに成功をした……と思う。回転する様を眺めていると、無音だったところからゆっくりとフェードインしながら聞こえてくる、何か。その微かな音に耳を澄ますと、どうやら鼓動の音らしい。そこから、まるで波の満ち引きのように不思議な効果音が遠くから響いては消えるイントロがおよそ一分ほど続いた。

 曲が途切れずに音を響かせたまま二曲目に切り替わる。アンニュイな歌声と共にリズムが刻まれて、浮遊感を携えたギターの音が世界観を彩っていた。ゆっくりと紡がれる演奏は、昨今の流行り曲とは真反対に位置するような構成のように思う。わかりやすさ、キャッチーさ、音の情報量の多さを砂糖のようにコーティングした現代の曲とは違い、なんだかひたすらに閉じた世界を深く深く潜っていくような、誰かに理解されたいという欲求の見えない昏い深淵を覗いている……そんな気持ちにさせるサウンドだった。

 またしても歌のない演奏だけの曲が三分ほど流れる。きっと私もかつてこの部屋で聴いていたのだろうな、と思い出の引き出しを懐かしんでいると、次の曲が始まった瞬間に展開がガラリと変わってしまうのだった。


 ジリリリリ……!

 リーンゴーン……!


 と、けたたましいベルやチャイムの音が左右から飛び交って鳴り響く。穏やかな曲が続いていたので、失礼な話だが少し退屈していた矢先のことだった。離れかけていた私の意識を強引に音楽へと向けさせるには充分なほどの効果音。そこから、深みのある柔らかな低音が湧き上がり、ドラムの連打が暗闇に響いては溶けていく、その繰り返しが幾度目か繰り返される。たっぷりと時間を使って空虚な世界観を構築した後、何かを諦めたような熱のない歌声が旋律を撫でていくのだ。

 それは「Time」という曲だった。CDやサブスクでは表現しきれないレコード独特のふくよかな音像が書斎いっぱいに広がっている。いつの日にか、聴いたことのある曲だった。そう、どこか聴いたことのある音……! きっと私はこのメロディを知っている!


「香代子、僕はね、狂気に取り憑かれているんだ」

 間違いない。祖父が決まって言う口癖の背景でほぼ必ず流れている曲だった。

 そのことに確信を持つと、今まで思い出せずに仕舞い込んでいた彼の言葉の続きが聞こえてくるような幻が浮かぶ。そうだ、彼は狂気を語り、こうも続けていたのだった。

「――いいかい、香代子。嬉しいときも苦しいときも上手く行かないときも時間というものは変わらず過ぎていくんだ。僕と違って君は若く、先はまだ長い。今日という日を無駄にするゆとりもある。だけど、決して未来の香代子が振り返って『あのときは無意味に過ごしていた』と悔いてしまうことの無いように生きるんだよ。僕が狂気を愛しているのと同じか、それ以上にいつだって香代子を愛しているからね」

 年老いた優しい声で、いつもそう諭されていた。私は忘れかけていた祖父の言葉をピンクフロイドの音楽が鍵となって、色鮮やかに思い出したのだ。

 気付けば頬へと涙が一筋、静かに流れていた。その言葉の意味が子供から大人になっていた私の胸を今更になって強く打つ。彼は私が幼いときから大切なことを繰り返し、事あるごとに教えてくれていたのだ。ぼやけた視界のまま、手に持っていた『The dark side of the moon』を見やる。すると、レコードジャケットの隙間から一枚の紙が顔を覗かせている。気になって、それを取り出してみると、縦長の紙には全てをひとつに繋げる言葉がたった一言、大きく書かれていた。

「そういうことだったんだね、おじいちゃんらしいや」

 大好きな祖父が愛していた音楽。暖かな午後の柔らかい日差しが包み込んでいる書斎で、在りし日の彼の面影を想い、またしても私は涙がこぼれる。1973年の不思議な音楽が繋いでくれた絆。


 縦長の紙、レコードの帯には日本語のアルバムタイトルとして──祖父の愛した『狂気』という言ノ葉が確かに表記されていたのだった。



〈了〉

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