第15話 中和


     ◇


 事務所の机を適当にどかして、床にある程度の場所を作る。

 所長がやってみようと言ったのは、解咒ではなく、中和だった。

 もちろん、俺には無い知識だ。


「いいか。この刻印咒は確かに厄介だ。多分これ自体を何とかするのはおれじゃあ無理だ。だがざっと見た限り、咒が弱い。誰が仕掛けたのかは知らんが、さほど咒法の類は得意じゃなかったとみえるな。刻印自体はしっかりと刻み込んでいるが、それを発動させている咒が大したことがない。もっとも、それでもこれだけの効果があるがな」

「それで? 俺はどうすればいいんだ?」


 焦れたように俺は聞く。

 こうしている間にも、由羅の刻印からは血が滲み出しているのだ。とてもじゃないが、長い間見ていたくはない。


「まあそう急くな。幸いお嬢さんはまだ大丈夫そうだからな。どうせならじっくりやって、確実にした方がいい」


 年の功とでもいうのか、さすがに所長は俺なんかより遥かに落ち着いている。


「で、だ。要するに刻印の発動を促しているこの咒を抑えれば、多分刻印の影響をとどめることができるはずだ。方法だが、おれがお嬢さんの手に固定して、結界を張る。それで結界内の咒力をできる限り中和してみる。陣を使った方法でやるから、それを描くのに血が欲しい。おれ自身のを使ってもいいんだが、体力を奪われるからな。なるべく確実に張るために……」

「俺のを利用した方がいいってわけか。なるほどな」


 分かった、と頷いて俺は机にナイフを取りに行った。

 刻印咒とはまた別なものに、結界咒というものがある。

 結界咒といっても様々で、種類はその構成の方法など、多種多様だ。


 所長がやろうとしているのは、直接陣を描いて行う方法だろう。その際、陣を描くのに最適なのは、人の血であるらしい。


「真斗……」


 俺がナイフを腕に当てるのを見て、ぽつり、と由羅は言葉を洩らす。

 それは、何とも言えない表情で。


「心配すんなよ。お前ほど流すわけじゃない」


 言って、俺は腕に刃を通した。

 鋭い痛みの後、腕に赤い血が流れていく。


 それを指につけ、床に陣を描いていく所長。

 描きあがると、俺に向かって言った。


「よし、止血しとけ。――さてお嬢さん。手を出してくれるか」


 こくり、と頷く由羅。

 所長が描いた陣の中心に、そっと左の掌を乗せ置く。


「――定」


 おもむろに、所長はそれを始めた。


「発」


 低いがよく通る声で、所長は続ける。


「受・離・導――」


 俺は習ったことのない、精神制御の方法。

 九曜家にあるものとは明らかに違うもの。


 咒法とは、その種類に限らず、全て世界を呪うものだという。

 紋章咒、刻印咒、結界咒……。

 どんなものであれ、それは違いない。


 呪い――もしくは病。

 人間が風邪をひくと、身体に普段には無い異常が起こるように、呪われた世界も同じように異常を引き起こす。


 それは限定的で、局所的なものであるが、そこに現れるのが咒法の効果ということになる。

 もちろん永遠に持続はしない。

 世界の持つ修復力が、生物の持つ自然治癒力のように働いて、それを直してしまうからだ。


 咒法の中には、その修復が起きる時の現象を利用したものもあるそうだが、俺にはそんなことはできっこない。

 周りの連中に負けるのが嫌で頑張って勉強した分、知識はあるのだが如何せん才能の無さは致命的だったということだ。


 ……そういや九曜にいた時、他の咒法はからきしだったけど、結界咒だけやたら巧い奴がいたっけ。俺と同じで落ちこぼれだったから、何となく覚えている。

 もっともそいつは途中でやめてしまったはずだが。


 俺がそんなことを考えているうちに、所長の咒は続いていく。


「静・粛――」


 血で描かれていた陣が、ざわめき出す。


「う……く……っ」


 同時に小さく呻く、由羅。

 これだけ寒いのにその顔には汗がしたって、苦痛が否応無く伝わってきてしまう。


「――粛!」


 バシュ、と陣が弾け飛ぶ。


「――ぁう!」


 上がった悲鳴に構わず、所長は続けた。


「応――・定!」


 所長の使う咒法は俺の知らない流派のものだったが、それでもそれが終わりに近いことは分かる。

 多分、次の一言で――


「定……・結」


 それで、終わった。

 床に描いていた陣は跡形も無く消えてしまっている。


「――ふうっ。どうだ? 左手は?」


 疲れたように一息ついてから、所長は由羅を見る。俺もつられてあいつの方を見た。


「…………」


 しばらく黙って、左の掌を閉じたり開いたりしていた由羅だったが、やがて嬉しそうに微笑んだ。


「うん……! 全然痛くないわけじゃないけど、すごく楽になった気がする。何ていうか……そう、昼間の時みたい」

「なるほどな……。もしかするとこの刻印、時間によって何らかの制御を受けるタイプなのかもな。よくはわからんが。だがお嬢さん、これはあくまで応急処置だ」


 真剣な面持ちで、所長は言う。


「え、そうなの……?」

「ああ。これはこの刻印にかかっている咒力を、今作った結界咒におれの咒を込めて、互いに打ち消させているんだ。つまりおれの場合、刻印じゃなくて結界に咒をのせたわけだな。だから、結界が健在なうちは中で打ち消しあっているが、これが解けてしまうとおれの咒も消えてしまう」

「……この結界、そんなに簡単に消えてしまうものなの……?」


 不安そうに尋ねる由羅へと、所長はいやいや、と首を横に振ってみせる。


「簡単に消えてもらっては困るな。即興とはいえ、おれが精魂込めて作ったんだ。しかも他人の血の生贄つきだ。そこそこ効果は持続するはずだ。しかしな、やっぱり永遠というわけにはいかない」

「まあ……そうだろうな」


 話を聞いて、俺は相槌を打った。

 世界には修復力がある。

 その中で効果を持続させる結界咒というのは、比較的難しい咒法だ。


 どんな高等な結界でも、半永久的にその効果を持続させるものとなると、その数を極端に減らしてしまう。

 安定した場所、相応の代償――それらが揃わなければ、永続は難しい。


 今回の場合だと、由羅の手に限定して張られた結界は、そこまで長続きはしないだろう。生きている者の手など、不安定極まりない場所だ。


 どれくらい保つかどうかは、ちょっと分からないが……。


「結局、この効果が続いているうちに何とか解決方法を探さにゃならんてことか。確かに根本的には全然解決してねーな……」

「ねえ……何とかなる、でしょ……?」


 急に不安になったようで、瞳を向けてくる由羅。

 あまり無責任なことは言いたくないが――


「ああ。俺が何とかしてみせるさ」


 なぜだか、そんな風に受け応えしてしまっている俺がいた。

 あれだけひどい刻印を見てしまったからだろうか。それとも――


「……信じていいの?」

「信じとけ。出血大サービスだ」

「……うん!」


 本当に嬉しそうに頷く由羅の姿。

 それはとても印象的だった。

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