23


 ユイルアルトもジャスミンも、二人ともそれぞれの故郷を追われて逃げてきた。

 それまで故郷で医者として生きていたが、二人ともが毒草を扱う『魔女』の烙印を押された。

 服を脱げば目を覆う程の傷痕がある。

 記憶を辿れば気が触れそうな過去がある。

 世界を呪いかけて、自分の出生さえ恨みかけて、けれど酒場に拾って貰って。


「―――汝等の生きる場所は、血反吐の中では無かろう」


 そう言って泥に汚れた手を取ってくれた男がいた。


「裏切りは死と思え。我は、汝等が裏切らぬ限り刃を向ける事は無い」


 首元に剣を当てられているような生活だった。どこまでが服従で、どこからが背信かも分からなかった。

 けれど、足先から炎で焼き尽されるような苦痛は感じなかった。死ぬ瞬間まで痛みを感じるより、選択さえ間違えなければ何事もなく生を謳歌できる生活を選んだ。

 その選択を、誰にも否定させはしない。

 彼に命を預けた事を、二人とも後悔なんてしていない。例え、一度の失態で刈り取られる運命だとしても。


 二人の命を預かる『彼』の名前は、ディルという。

 二人がギルドメンバーとして名を連ねているギルドのマスターだ。




 ギルドに新しい仲間が入ってから一週間も経たないうちに、転機がやって来た。

 それは貸し宿の一階で経営されている、マスター・ディルの表向きの仕事である酒場で、開店前の時間で思い思いの夕食を摂っていた時の事だ。

 ユイルアルトもジャスミンも、温かいスープとリゾットで早めの食事をしていた。その場には新しい仲間であるミュゼ――本名はミョゾティスと言うらしい――も同じテーブルに着いている。彼女は元々シスターとして孤児院に勤めていたが、このギルドに身を置くことになって今は荒事担当として仕事をしている。

 時々、彼女の側に行くと血の匂いがする。今日はその匂いがしないので、食欲を阻害される事は無い。


「んでさぁ、最近変な頭痛がするんだよ。貰った香油のお陰でちゃんと寝られてる筈なのにな」


 話題はミュゼの体調不良だ。医者の立場からすると、慣れない仕事が続いて精神的にも参っているように見えた。しかし、そのことには触れない。


「そうですか、薬を用意しましょうか? 粉で良ければ在庫があるのですが」

「粉……。に、苦い?」

「お吸いになる煙草よりも苦くはないと思いますよ」


 味を気にする彼女に、微笑んで答えるユイルアルト。


「煙草も体に良くないし、丁度いいから禁煙したらどう?」

「えー、やだ」


 ジャスミンも続いて提案するが、それは不貞腐れたような顔のミュゼが拒絶した。自称する年齢は二人よりも上のミュゼだが、そうした表情を見せる時はまるで子供のようだ。

 ミュゼは酒場に馴染むのが早かった。元々対人関係に慣れたところがあるのだろう、人物を選んで言葉を選んでいるようだった。ミュゼが相手なら軽薄だが人に厳しいヴァリンは軽口を許し、マスター・ディルさえも話の内容の可否は別として耳を傾ける。まるで以前から仲間として存在していたかのように、自分の立ち位置を確かなものにさせていた。


「こんな酒場でたいして面白い事もないってのに、これで煙草まで禁止されたら―――」


 ミュゼの声は、誰かが来店を告げる鐘の音で止まる。

 酒場の開店はまだ後の筈だった。話し込んでいた三人の視線が、一斉に扉へと向いた。


「―――新顔さんがいるって話でしたけどぉ、うわぁこれは本当に『あの人』に似てますねぇ」


 ミュゼの顔色が瞬時に青褪めたように変わる。ヴァリンのそれとはまた違う、ねとりと耳に纏わりつく声色を初めて聞いたからかも知れない。

 ユイルアルトもジャスミンも、その顔を見るのは初めてではない。けれど、滅多に酒場を訪れないその男には、未だに慣れない違和感を覚える。

 男は短髪の白い髪を持つ。耳が隠れる程度の長さの髪は、マスター・ディルの銀髪よりも更に明るい色。細められて開いているかどうか分からない目と、楽しそうに弧を描く薄くて大きい唇。

 黒の上下揃いの衣服は、縁取りに赤色を使っている。暗い灰色の襟締めと、それを抑えるくすんだ茶色の留め具。


「ご機嫌よう、皆様ぁ。えーと、ユイルアルトさんにジャスミンさん? それから、ミュゼさんでしたっけぇ?」


 わざとらしく間延びした語尾で話しかけてくる男は、機嫌が良さそうだった。それは新顔に挨拶するからか、それとも別に理由があるからかは誰にも分からない。胡散臭い笑顔を向けられてミュゼが戸惑う。


「………。自己紹介もまだなのに、名前を覚えて貰って光栄だよ」

「アール……ここのギルドの副マスターから聞いてますからぁ。いやはや、お話に聞いていた通りの美人さんですねぇ。ふふ、マスターが入れ込む訳ですねぇ」

「―――誰が入れ込んでいると?」


 新しい声がその場にいる全員の耳に届いた。

 廊下の奥から、マスター・ディルが現れたのだ。外から闖入者が来たことに気付いたのだろう。

 彼は膝にまで届きそうなほど長い白銀の髪を揺らしながら、闖入者を見下すように睨みつけている。


「暫く顔も見せなかった者が何用だ。冷やかしならば退店を願おうか」

「これはこれは、ディル様。ご機嫌麗しゅう。いえなに、新しい仕事の斡旋と……新顔さんへのご挨拶を、と思いましてね?」


 マスターへと向けていた男の顔が、僅かな瞼の開きを以てミュゼに向けられた。ほんの少しだけ見えた男の瞳は、濁ったような緑色に見えた。


「はじめまして、ミュゼさん。ウチは暁。階石 暁シナイシ アカツキと言いますぅ。このギルドの監査役をしてるんで、以後お見知りおきを」

「……監査役?」

「ウチですねぇ、なんと王家仕えなんですよぉ。命令違反があったらこのマスターの首を刎ねる権限も持ってるんでですね、そこんとこ宜しくお願いしますぅ」

「―――ふん」


 不本意そうにマスター・ディルが鼻を鳴らした。暁と名乗ったその男は腕に覚えがありそうに見えないが、底知れない薄ら寒さにミュゼは追及を止める。


「……こちらこそ、宜しく。お手柔らかに頼むよ……暁」

「うふふ。美人さん達と更にお知り合いになれるなんて、こんな退屈な仕事も役得に感じるものですねぇ。―――ですが、ミュゼさん」


 無難に挨拶をした筈のミュゼだったが、それまで冗談めかして言葉を繋いでいた筈の男の声色が一瞬で冷える。その温度で名を呼ばれ、ミュゼが息を飲んだ。


「『暁様』だ。……立場を弁えろ」


 開いているかも分からなかった男の瞼が、はっきりと開かれてミュゼを見ていた。

 弧を描いていた筈の唇が、笑みを消して言い放つ。

 それまで胡散臭い笑みを浮かべていたこの男も、所詮はこのギルドの関係者だ。気を抜けば頭から丸呑みされてしまいそうな凶悪性を感じるが、相手への呼称を撤回する事はもう出来ない。

 言葉を失ったミュゼが、ユイルアルトに腕を引かれて気を保つ。


「すみません、暁様。ですが、新しい仲間をそのように威圧されては委縮してしまいますわ」


 ユイルアルトが助け舟を出すように、微笑みながら言葉を口にした。

 しかしその微笑みに感じられるものは親愛なんかではない。邪魔者を追い払う時にする表面だけの笑顔だ。

 引かれた腕に、力を込められてミュゼが察する。さりげなくユイルアルトの方へと後退し、暁との距離を開いた。


「……これはこれはすみません。ですが、ウチも面子ってものがありますんでぇ。初めが肝心って言葉もあるくらいですからねぇ? でもミュゼさんも、これに懲りず接してくださると嬉しいですよぉ」

「今ので初回の印象付けに失敗してると思うんですけれど。……御用事があるのならそちらを先に済ませては如何でしょうか?」

「御用事。……ああ、そうそう!! ミュゼさんの美貌に見惚れて本題を忘れるところでしたぁ。今回の本題は、ミュゼさんに負けず劣らず麗しい貴女方なんですよぉ、ユイルアルトさんとジャスミンさん」


 暁は先程までの胡散臭い笑顔を再び浮かべ、名を呼んだ二人の顔を交互に見比べた。

 見られた方は堪ったものではない。二人ともが、この暁という男の油断ならない部分を知っている。マスターを目の前にして彼の首を刎ねる権限を持っていると宣い、ミュゼには様付けで呼ぶよう強制し、それなのに普段から人畜無害を装って胡散臭い笑顔を浮かべているのだ。

 暁から直接仕事を言い渡されるのは初めてではない。依頼と称した拒否不可能の仕事を持ってくるのは毎度の事で。

 ひとまずミュゼを暁から引き離すことには成功した。ユイルアルトが暁の前に出て、ミュゼを背中に庇う。


「あのですねぇ、……うーん、どうしましょうかねぇ。あんまりウチの口から言いたい話じゃないんですけれどぉ」


 口許を隠しながら、まるで顔色を窺いながら躊躇う暁に苛立ったのはその場にいた暁以外の全員だ。決して言う事自体を躊躇っている訳ではなく、怒りを煽って楽しんでいるのが分かるからこそユイルアルトは眉間に皺を寄せた。

 早く、と声に出さずに口を動かす。暁は潮時を察して唇を動かした。


「うーんとですねぇ。とある村で、流行病が発生したそうなんですよぉ。症状は咳に始まり血痰、吐血。腹痛と下痢と血便。あ、これ依頼受けてくれるなら前受金で渡しますよぉ」


 言いながら取り出した袋は、ユイルアルト達の握り拳程度の大きさだ。しかし外側から見ても分かるくらいに、中身で膨れ上がっている。前受金と言うからには金なのだろう。

 普段なら目の色を変えて飛びつきたくなるような金額だ。しかし、それを手にする者が暁だという理由はそれに伸ばしかけた手を引っ込めるのに充分だった。


「受けて、くださいますよねぇ?」


 曖昧な笑顔を浮かべる二人の顔に、『誰が受けるか』と書いてあっても不思議ではない。


「依頼内容を最後まで聞かないことには、受けられるかどうかの判断ができませんから」


 そう言って判断を先送りにしたジャスミンの判断は優れていた。

 それもそうですねぇ、と残念そうな顔をした暁の姿にユイルアルトが見えない背中側で中指を立てる。ミュゼがそれを見てしまってぎょっとした。毒舌の様子はあれど普段おしとやかで上品な印象のユイルアルトがそんな事をするなんて思っていなかった顔だ。

 しかしミュゼは知らない。今ジャスミンの背中側では、ジャスミンの手の親指が下を向いていることを。


「少し前に要請を受けてぇ、宮廷医師が二人ほど向かったんですよねぇ。片方、見事に病に罹って死んだそうですぅ」

「は……?」

「それでぇ、緊急事態だって思ったもう一人の宮廷医師がですねぇ。作ったんですってぇ。この国で禁忌とされる毒草で。薬を。それで村の方々は快方に向かってるそうなんで、まぁ宮廷医師としての面目は立ったって感じですかねぇ?」


 二人の背中にじわりと嫌な汗が滲む。暁の開いているか分からない瞼の奥の瞳が、二人を値踏みするかのように見ている気がした。


「でも、国としてみれば禁忌は禁忌です。宮廷を冠する職に就いている者が、国の決まり事を破ってはいけないでしょう? それでですねぇ、今回だけ特別に、ですよ? 王家管理の禁忌毒草の書物を渡しますんで、本当に禁忌に該当する毒草かどうかを調べてきて欲しいって話らしいんですよぉ」

「……それを、何故、私達に? 宮廷医師とは二人しかいないのですか、他の医師でも植物学者でも、ご自分達の管理下に置いてる方々を使えばいいではないですか」

「このギルドも王家管理下ですよぉ? 殿下―――王家の方々も色々考えていらっしゃるようでですねぇ、一番都合がいいのは貴女方だと白羽の矢が立ったんですよぉ。ま、適任だと思って指名したのはウチですけどぉ!!」

「………はっ。それ、つまり『替えが利くから』ってことですか」


 ユイルアルトが鼻で笑う。

 流行病の蔓延する土地に出向かされ、それで『調べてこい』だなんて、都合の良い走狗だ。

 渡される前受金だって、命懸けで向かうには安すぎる駄賃にしか思えない。相手が暁なら不快感ばかりが更に倍になる。


「……毒草かどうか、調べて何をどうするんですか。まさかそれさえ言わずに送り出すつもりじゃないですよね?」

「さて、ウチもそこまで聞いた訳じゃないですからぁ? ……別にぃ、嫌って言うのは自由ですよぉ」


 暁の笑みが深くなった。

 同時に、ユイルアルトに寒気が襲う。


「自由ですけどぉ、その後の命の保障までは致しかねますがねぇ?」


 無理矢理に折れ時を悟らせられる。底知れぬ不気味な笑顔は、命を害すると暗に言っていた。

 暁とユイルアルトの間に割って入ったのはジャスミンだ。胸に手を当て、懇願するように声を振り絞る。


「わ、分かりました! 分かりましたから!! 今はその仕事の先の話をしましょう、いつ出発すればいいんですか!?」

「わぁ、ジャスミンさんは話が早くて助かりますぅ。出発は早ければ早い方がいいですねぇ。でももう命が危ないって話じゃないんでぇ、明日の昼にでもこちらから護衛を手配するんでそれから行って貰いましょうかぁ」


 全ては、暁の掌の上。

 暁が持っていた袋を受け取るのはジャスミンだ。受け取った瞬間に顰めた顔は袋の重さと仕事への不満、どちらもが混ざっている顔。

 黙ったまま話を聞いていたマスター・ディルが、その時になって漸く口を開いた。


「……護衛の人員は、決まっているのか」

「ええ。その宮廷医師の拘束と護送も兼ねて、取り敢えず『鳥』から一人って考えてますけれど……もう一人くらい融通できるかも知れませんね」

「護衛が二人、か。場所は何処だ」

「ヨタ村ですよ。馬車の都合もつきましたので、まぁ時間が掛かっても片道四日程度といった所でしょうか?」


 ユイルアルトとジャスミンには、二人の間で交わされている話の内容が掴めていない。村の名前も初めて聞くし、『鳥』というものは何かの暗号のように思えた。

 一人だけ、ミュゼは神妙な表情で話を聞いている。二人の会話を、聞き逃さないようにしている様子で。


「ではまた明日の朝にでも連絡を寄越しますよ。副マスターのあのお方にでも言付けておきます」

「…………ふん」


 二人は最後にそれだけを交わして、暁が酒場を出て行く。

 暁の退出を鐘が鳴らして暫くの後に、ユイルアルトとジャスミンの口から大きな溜息が漏れた。


「……毎度毎度、接し方分からないから寿命が縮まるわ」

「本当……。心臓に悪いからもう来ないで欲しい」

「未だ聞こえているやも知れぬぞ」


 二人と同意見らしいマスター・ディルだったが、二人の軽口を窘めるように言葉を掛けてきた。途端に二人が自分の口を手で塞ぐ。

 ミュゼは酒場の空気がいつもより重苦しいような気がして、首と肩を回しながら口を開いた。


「にしても、マスターは随分気安く話すもんだな。話には聞いてたけどあんなおっかない男だとは思わなかった」

「……話?」

「おうよ、私の育ての親が……って、まぁこの話はいいな。なんかマスターとアイツ、仲良さげな気もしたけど」

「馬鹿な」


 ミュゼの言葉に、マスターは即座に首を振る。


「あれは、我を恨んでいる。恐らくは、殺したい程に」


 その言葉に、その場にいた三人が同時に固まった。


「……え、恨んでるって」


 マスターがどんな話し方をしても、暁は彼に対して高圧的な態度を取ったりしない。それどころか、暁は彼に笑顔を崩すこと自体稀だった。だから不釣り合いなその言葉に、ジャスミンが違和しか覚えなかった。

 その疑問が口をついて出る。


「それは―――」

「ほらユイルアルト、ジャスミン! 明日出発なんだろ。最悪片道四日掛かるって話だ、準備で忙しくなるんじゃないのか?」


 マスターが口を開きかけた瞬間、ミュゼが話に割って入った。少々強引だが無理矢理話を断ち切って、ミュゼが二人の背中を押して階段に向かわせる。

 ユイルアルトは戸惑いながらも「そうですね」と言ったが、ジャスミンは「え、ちょ、まだ話は」と食い下がっている。それを無理矢理押しやって、渋々二人は階段を上って行った。

 階段を上がる二人の後ろ姿を見て、ミュゼが一仕事やりきったような風で額の汗を拭う仕草をする。


「……何故、話の邪魔を?」


 それに疑問を抱くのは、もうマスター・ディルしかいない。

 肩越しに振り返ったミュゼは、彼を見ずに応える。


「あの二人は、マスターと暁の確執について何も知らないんだろ」

「………ああ」

「だったら知られなくても……って思った、のは、本当。でもごめん、本当は、私、カマかけた」

「カマ?」

「二人が仲良いなんてこれっぽっちも思ってない。暁、私達に話しかける時は間延びした口調だったのに、マスターと話す時は喋り方が違うんだ。二人が顔を合わせてた時も、今にも互いに殺し合いそうな空気を出してた」


 ミュゼの洞察力に、マスターが声に出さず感心していた。確かに、暁がマスターに対する態度は普通のそれとは違う。道化めいた口振りも態度も、殺意を隠し切れずに漏らしていた。

 このシスター崩れをギルドに引き入れたのは間違いではなかったのかも知れない。マスターがそう思っていると。


「……そんで、私には、マスターが話したくなさそうに見えたんだ」

「…………我が?」


 それは意外な答えだった。


「二人の確執で、私が思いつくのは一人の事でしかない。マスターを置いていったどっかの馬鹿女の話しか思い浮かばない。私、暁があの馬鹿の事好きだったって話、聞いた事あるんだ」

「―――」


 それも、間違ってはいなかった。

 マスターが婚姻関係を結んでいた『彼女』の生前、暁は『彼女』に御執心だった。『彼女』に暁が認識された時には、既にマスター・ディルと交際していたという事も暁の心に引っかかっている筈で。

 マスターが口を噤んだ。それは限りなく正解に近い答えだと暗に言っている。


「……我が妻を馬鹿呼ばわりは気に入らぬな」


 やっとマスターが口を開いた時、それしか漏れ出て来ずにミュゼが笑う。


「悪い悪い。まぁでも私アイツと血ィ繋がってるんだし? このくらいの軽口は許されて欲しいものだけど………あ」

「どうした」

「そういや暁の事で思い出した事がひとつあんだけど」


 ディルが無言で続きを促す。それに気付いたミュゼも、言葉を考えながら唸るように声を出す。


「……私さ、暁って言ったら『白い服しか着ない男』って聞いてたんだけど……黒も着るんだな」

「………? ここ数年は、あの者は黒しか着ていない筈だが」

「は?」


 ミュゼが感じた違和感が、上手く言葉に出来ないまま背中を駆け上がった。

 聞いた話と違う事実に、悍ましい何かを第六感で感じ取る。


 ―――暁って男がいたんだが


 ―――アイツ、白い服しか着なくってな。理由を聞いた事があるんだが、これが気色悪い理由でなぁ


「……マスター、悪い、ちょっと私も部屋に戻らせて貰う」

「………ああ」


 マスターは追及しなかった。顔色を青に変えたミュゼの様子は、普段とかけ離れていたから。

 階段を上る後ろ姿を、何も言わずに見送った。


 ミュゼの耳の奥に、育ての親の声が蘇る。

 まるで鼓膜が実際に揺れているかのような錯覚を覚えながら、這う這うの体で自室に戻った。

 あの時、育ての親は―――エクリィは、何と言っていたんだったか?

 幼い時から聞き続けた、煙草で掠れた低いあの声がその時聞いたそのままを辿る。






 ―――死んだあの馬鹿を想って、清いままの自分でいるっていう意思表示の為に白い服しか着なかったんだぜ






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