Op.2 炎は魔女を逃がさない

22




 酒場には、幽霊がいる。


 ………と、いう事実をその女性が知ったのは、この酒場に身を寄せてから三日経ってからだ。

 城下の外で行き倒れていた所を見つけられて、ほんの僅かな水を含ませて貰ってから必死で体を引きずった。

 「ここよ」という囁き声は、酒場を見つけてから掛けられた。


 その声を掛けてくれた人は既に故人だという事を、その後暫くして知る。




「おはようございます」


 二階の自室から下りてきた金髪の女性――ユイルアルト――は、いつも同じ黒のワンピースを着ている。同じ服という訳ではなく何着も洗い替えがあるのだが、ユイルアルトと言えば黒い服という方程式が出来上がっている。

 一階の酒場客席を見渡したユイルアルトは、いつも決まった場所で視線を止める。


 とある男性が日中にこの酒場にいる時は、大抵姿を現す女性がいた。

 酒場の片隅で、テーブル席に俯いて座っている。その人が女性、と思うのは短い茶色の癖が強い髪を持ち、その胸元がこの酒場にいる誰のものよりも豊満だからだ。

 そもそも、厳密に言えば人では無いのだろう。

 彼女には、下半身が無い。

 正確には胸元から下が無い。

 顔も日によってまちまちで、上半分を抉られたような顔だったり、と思えば顎から下が無かった日だってある。ユイルアルトは、誰もいない時間に一階に下りる夜は無い。下手な怪談よりも実物の方が怖いからだ。

 ユイルアルトは、この酒場に来るまで、幽霊らしき幽霊は見た事がなかった。

 思い出したくも無い目に遭って逃げ出した故郷では、幽霊話というものが殆ど無かったからかも知れない。生き物が死んだら何処へ行く、なんて、そんな事をユイルアルトはあまり考えなかった。


「おはようございます、ユイルアルトさん」


 厨房から、酒場の店員をしているマゼンタが出て来る。マゼンタは貸し宿の面々への給仕も行うので、ユイルアルトが降りてくる気配を感じて準備をしていたのだろう。

 手にはサンドイッチとコーヒーを持っている。今日の中身は焼いた燻製肉と葉物野菜のようで、パンの表面も軽く炙ってあった。

 それはユイルアルトへの朝食だ。いつもの指定席に置かれて、ユイルアルトも席に着く。


「ヴァリンさん、戻ってきてるんですか」

「え? ……ああ。そうですよ」


 ユイルアルトの問いかけに、一瞬不思議そうな顔をしたマゼンタが頷いた。二人は『見える』側の人間だ。

 他にもマゼンタの姉である厨房担当のオルキデも『見える』が、どうやら姉妹はユイルアルトほどしっかりとは見えないらしい。朧げな影のようなものが動いているのは分かるけれど、と、以前残念そうな顔をされた。


「珍しいですね、ユイルアルトさんがあの方の事気になさるなんて」

「別に」


 言いながらユイルアルトがコーヒーを啜った。苦いだけで美味しいだなんて一度も思った事は無いが、目が冴えて来るような感覚は気に入っている。


「彼が居ると、ジャスが怯えて仕事になりませんので。……彼と鉢合わせないよう、戻ってきてる事を伝えないと」


 ジャスミンというのは、ユイルアルトと同じ部屋を借りている薬師だ。茶色の髪を持つ瘦せた女。

 何を気に入ったのか、ヴァリンはジャスミンを見かけるたびに芝居がかった口説き文句を並べている。当のジャスミンはそれを胡散臭いとして露骨に避け、ヴァリンが居る間は部屋に閉じこもってしまうようになった。


「そう警戒なさらなくても大丈夫だと思うんですけどね」


 マゼンタは微笑みを浮かべたが、ユイルアルトとしてはその微笑みの意味が解らずに眉を顰める。


「……顔を見る度不埒な口説き文句ばかり並べる男を警戒しなくてもいいと? やれ『食事に行こう』だの、『渡した花のように俺も部屋に行きたい』だの、あれでジャスに男性不信が無ければ毒牙に掛けられていたかも知れませんよ」

「ふふ、あの方だって口説こうとする相手は選んでいますよ」

「はぁ?」


 ユイルアルトはこの酒場に身を寄せてから三年経ったが、彼女より後に酒場に来たジャスミンは未だ自分を取り巻く環境に慣れていない。

 だから同業の誼で、ジャスミンの支えになるのは自分だと思っているユイルアルト。

 そんな彼女への心配を、楽観的な『大丈夫』で流してほしくはなかった。


「女性の幽霊に憑りつかれてる男なんて、信用できません」


 先程見た茶髪の幽霊は、基本的にヴァリンの側に居た。

 だから、ユイルアルトはその女性の事を、ヴァリンが捨てて恨みを買った女性のものだと思っている。もしくは、期待させるだけさせておいて掌を返して冷たくあしらった女性か。それとも、ユイルアルトの考え得るよりももっと非道な真似をその女性にしたのか。

 その思考になるくらいには、ユイルアルトはヴァリンを信用していなかった。


「……そうですねぇ。『あの人』も、最期は悲惨でしたから」


 マゼンタは、ユイルアルトの言葉を否定も肯定もしなかった。だから、ユイルアルトは己の予想が正しいのだろうと漠然と考える。

 マゼンタの視線は、茶髪の女の幽霊に向かっていた。




 以前、マゼンタに言われた事がある。


「絶対に、あの方に茶髪の女性の幽霊が憑いてる事を言わないでください」


 と。

 ユイルアルトとしては彼の人間性を疑っているので自分から話しかけたくもなかったのだが、何やら理由がありそうなマゼンタの表情に疑問を返した事がある。


「何故、言ってはいけないのですか」

「彼の為にならないからです」


 もしかすると彼は、その幽霊の女性を殺したのかも知れないと思った。それで恨まれて憑りつかれているとしたなら、彼の自業自得だ。

 幽霊に憑りつかれた男がこの先どんな末路を辿るのかは興味があった。だから、そのマゼンタの言葉を快諾したのだが。


 ユイルアルトが女性の幽霊を視認して三年。

 ヴァリンは未だ変わらず、幽霊を連れた下品で気障な男のままだ。





 医者を目指していたユイルアルトにとって、それまで大事に思っていたのは『生きて医者の手を必要としているひと』だった。

 だからこの酒場に来て、彼女が見てきた世界はいい意味でも悪い意味でも驚きに満ちていた。同時に、これまで自分が持っていた道徳観念を疑った。


 あれだけ救おうとしていた『いのち』を散らすことに、何も躊躇しない者達。

 そしてユイルアルトも、ギルドの者の手によって散らされる命を、ただの数として受け入れ始めたのだ。


 ユイルアルトの医者としての想いは、故郷で手を掛けていた自慢の菜園が炎に包まれた時に、共に燃えてしまったのかも知れない。


「ジャス」


 今日もユイルアルトは、ジャスミンの為に朝食を持って部屋に戻った。

 昨夜も遅くまで薬の調合をしていた彼女は、ユイルアルトが名を呼んで漸く寝台をもぞりと動く。


「……イル……、もう、朝なの……?」

「朝ですよ。はい、食事です」


 貸し宿の中で一番広く日当たりのいい部屋を借りている二人は、窓際とベランダを使って植物を育てている。ジャスミンの寝台脇の机に盆を置くと、その香りにつられてかゆっくりと起き上がる。

 朝食を運ばれてきたという事は、この酒場にジャスミンの天敵であるヴァリンが居るという合図になってしまって、それを察した彼女が複雑そうな表情で盆を膝に寄せた。

 そんなジャスミンを横目で見ながら、ユイルアルトが手に如雨露を持つ。植物達に水をやる為に。


「あんまり寝た気がしないわ……。食べたらまた寝ててもいい?」

「構いませんよ、今日はやる事も少ないですからね。医療担当の私達が寝不足で病気になったら、医者の不養生だって馬鹿にされますから」


 ユイルアルトの肯定に、小さな声で「ありがと」とだけ返る。

 二人は、この酒場で医者として仕事をしていた。と言っても、世間一般の医者のように、外部から患者に来てもらう訳ではない。

 酒場『J'A DORE』は、国家公認裏ギルド『j'a dore』としての裏の顔を持つ。二人は主に、国がギルドに下す仕事をして生計を立てている。

 頭痛薬、胃薬、痛み止め、吐き気止め。そこまでは表立って言える薬だ。

 麻酔薬、睡眠薬、毒薬。その辺りは一般人には言えない。悪用されると大変な事になるからだ。

 そして、この二人には依頼元である国家にも秘密にしている事がある。


 自由国家を名乗るこの国でも、幾つか禁止事項がある。

 人や人の所有物を害すること。

 人を呪うこと。

 特定の薬物を扱うこと。

 他にも色々あるのだが、この禁止事項を国家勅命で扱うのが『ja'dore』だ。

 そして、このギルド内で禁止薬物を扱うのは二名。

 その一人がユイルアルト。そしてもう一人がジャスミン。


「……それ、次は上手く行くといいわね」


 ジャスミンがコーヒーを啜りながら、小さく呟いた。


「そう、ですね」


 答えたユイルアルトの声は浮かない。

 故郷を追われた時、必死の思いで持ち出した種が数種類あった。

 国から扱う事を禁忌とされている毒草の種だ。それをこの酒場の貸し宿に流れ着いて三年、これまで発芽させようと頑張っていた。

 環境が違うせいか、半分以上が発芽せずに駄目になった。


 ユイルアルトの目の前に、土だけが入った鉢がある。

 その中には、ユイルアルトが持ち出した最後の種が植えられている、


 禁止された毒草を育てて何になる、と、何度もユイルアルトは自問した。けれどユイルアルトにとってそれらは毒草と片付けられるものではなかった。

 故郷から持ち出した、大切な薬草だ。扱い方を間違えなければ、この葉や花、根に至るまで、有用な薬効があるというのに。

 扱い方を知らないから排除する、では進歩が無い。扱い方を心得て、最良の利用法を知るのが賢いやり方ではないのか。医者として、その毒草で作った薬によって助かる人がいるのなら諦められなかった。


「……何が違うんでしょうね。温度も、水の量も、日照時間だって故郷と変わらない筈なのに」


 芽吹かない鉢を目の前に、ユイルアルトが零す。

 次が本当に最後だ。これが本当に芽吹かなかったなら、その毒草で薬を作る事を諦めなければならない。この種から生える毒草はなんて名前だったか、それすら葉や花を見ない事には思い出せない。


 ユイルアルトにとって、まるで『許可されている植物のみで薬を作れ』と誰かから言われているような気がしていた。


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