21
後日、ミュゼはマスター・ディルに呼び出された。
何だ、また仕事か。こんな短い期間でか。
そう思いながら二階の自室から一階の酒場に嫌々降りたミュゼの視界に入ったのは、髪を括って質のいい濃灰色の正装を身に纏ったマスターの姿。その隣には暫く酒場で姿を見なかったヴァリンがいた。いつぞやの貴公子風の出で立ちではなく、髪を下ろした野暮ったい風貌だ。
「お、降りてきたな。光栄に思えミュゼ、この唐変木がお前を逢引に誘いたいんだってさ」
「違う」
「違わなくはないだろディル、男と女が場所は何処であれ外出するならそれは逢引だ。この程度、きっとアイツもあの世で御目溢ししてくれるだろ」
二人の会話はミュゼには理解できない。が、どうやら自分を誘って何処かに行こうとしているのは分かった。
しかし、見た目だけは抜群に秀でているマスター・ディルのこういった格好を見るのは初めてなミュゼは驚いた。これでもう少し覇気でもあったものなら、言い寄る女は山と居るだろうに。
「出られるか、ミョゾティス。……汝を、連れて行くべき場所がある」
「連れて行く『べき』? ……あんまりいい予感はしないんだけどさ、それって任意? 強制? 仕事? 報酬出る?」
「出ない。そして強制だ」
「ええぇー行きたくねぇ。……分かったよ、分かったから睨むな。用意してくるから少し待ってろ」
渋々承諾したミュゼは自室に戻って薄緑色の羽織物を持ってきた。そのままの格好――藍色のブラウスに白のロングスカート――でも外出するのには支障はなかったが、相手ががっちり正装をしているので気後れしてしまうという思いがあった。
それから、太腿にベルトを巻き付ける。そこに、孤児院を去る時に持ってきた三つ折りの槍を差し入れた。暗器のようなそれが、ミュゼの本来の得物だ。
ここに染まっちまったな、とミュゼが思う。これまでなら、こんな物騒なものを仕込んで外に行こうとしなかったのに。
あまり待たせるのも何なので、化粧すらまともにしないまま再び一階に下りた。ヴァリンは既にいなくて、カウンター内部のいつもの場所で、ミュゼを待つマスターの姿だけがあった。
「用意は済んだか」
「はいよ、お待たせ。んで、何処行くか聞いてもいいかい?」
「……着いたら、話す」
覇気のない声で、緩慢な動作で。
マスターはそのままミュゼを振り向きもせず、酒場の外へと出て行った。その後ろ姿を二歩ほど離れて歩く。
外に出て、通りを歩いて、マスターは途中花屋に寄った。適当に見繕って貰った花束に灰色と緋色の二本のリボンを巻いて貰う。店員が二人の事を本当に逢引途中だと勘違いしたのか、笑顔を浮かべて。
「お似合いのお二人ですね」
と言いながらミュゼに花束を渡そうとしたが。
「違う」
とだけマスターが言って底冷えする視線を投げながら、その花束を奪い取ったディル。
体を強張らせる店員に代金を渡して、不機嫌そうに歩き始める。その背中は先程よりも速度を上げてミュゼを離していくから、小走りで追い付くのが大変だった。
「なぁ、ちょっと。歩くの早いよ」
「…………」
ミュゼの文句を受けて、マスターがやっと速度を緩める。背の高い彼がミュゼに向ける視線は、座りながら俯いた時とさして変わらない角度。灰色の瞳が珍しくミュゼを中心に捉え、その顔の美麗さにミュゼが動揺する。
「な、何」
「……いや」
―――歩くの、早いよ。
マスター・ディルにとって聞き馴染んだ声が脳裏に蘇る。
「ミョゾティス」
「だから何」
「汝は、我が妻の惚気を聞いた事が有ると言っていたな?」
「……ああ、まぁ、うん」
「………」
それきりマスターは黙り込んでしまった。「なんなんだよもう!!」とミュゼの文句も知らない振りで先へと進む。
ミュゼにとっては何処に着くかも分からない道だったが、行きついた場所を見ると納得した。
それは酒場がある五番街の隣に位置する六番街、その端にある墓地だった。
墓地と聞けばミュゼは思い至る。この男がこんな正装をして、花まで買ってくる理由。
「……毎月の命日には、此処へ来る」
迷いも見せず小道を進み、辿り着いた墓にはたった一人の名が刻まれていた。
ミュゼがそれを見て言葉を失う。
死んだと思いたくない女の墓だ。名が刻まれた墓石は、まだ比較的新しい。
「……この下に、あの女がいるってのか」
「正確には、違う」
ミュゼの問いかけに、マスターは沈んだ声で答える。
「……戦場から回収できたのは、肩から先の左腕と、此れだけだ」
マスターが服に隠れていた首元の鎖を引いた。その先に付いていたのは指輪。小さな宝石が付いたそれを指に取り、ミュゼに見せる。
『最愛』を誓う指輪なのは、すぐに分かった。それが二つ。片方はマスターのものだろう。
「其処には左腕しか無い。残りの身体は見つからず仕舞いだ。只、夥しい血の量に、誰もが其の死を感じ取った」
「血……?」
「戯けた話だ。我よりも弱い女が、我の為と宣って最前線に残り、其の命を散らせた。我は」
声が、いつもより沈んでいる気がした。
「……我が願いは。……自らが生き永らえるよりも……あれに生きていて欲しかったのだがな」
マスター・ディルは手にしていた花束を墓に置いた。色とりどりの花弁が、灰色の墓石を背に色付いている。
「我に対しては阿呆な女だった。幾らでも我に好意を口走っていたが、第三者から妻が発していた惚気という物を聞いたのはアクエリアを始めとしたごく少数からしか無い」
「あ、あくえりあ。アクエリアから聞いたのぉ? へー、はー、ふーん、ソウナンダー」
「ミョゾティス」
そのマスターの表情は、今まで見た事が無いほどに真剣な顔だった。
「汝が聞いたという我が妻の惚気、我にも聞かせてくれぬだろうか」
「……………。へぇ!?」
「……無理ならば良い。忘れろ」
すぐさま撤回したマスターの表情は、僅かに苦痛の色が混ざっていた。
こんな頼みごとをするような男に見えなかったミュゼが目を丸くして、先程言われた頼みの意味が分からなくて脳内で反芻している。
「……話してもいいけどさ、アクエリアから聞いてるならもういいんじゃね?」
「………妻を喪って、五年以上過ぎた。一日たりとも忘れた事はない。だが、此れからもあれの居ない日々が続くのだ」
了承の意思を見せながら、ミュゼが再び問いかける。それに返るマスターの声は、低く呻くような音で聞き取りづらい。
「我は、あれを忘れる事が、……何よりも、恐ろしい、と思っている」
吐露した心中は、これまでの無気力なギルドマスターの姿とはかけ離れていた。
ミュゼがその弱々しい姿に堪らなくなって、視線を逸らしながら言葉を捻り出す。
「……いいよ、別に、話しても。私だって分かるよ、喪った人を忘れそうで怖いって気持ち。だから、そんなのは別に」
『知っている男』の『知らない』姿。そんな姿を今見ているのが自分だけだと思うと、ミュゼの胸に何か疚しい事をしている気分が沸き上がる。
マスターはその了承を、感謝こそ口にしないが瞳を伏せて返事とする。
「……でもさ、その、えっと、……、マスター」
今更呼び名を迷って、無難に酒場店主の呼称で呼びかける。
「私は、まだ、信じてないから。……生きてる筈なんだ、コイツは。いや、生きてて貰わないと……本当、困るから」
「………ああ」
「だから」
二人の視線の先は、墓石に刻まれている文字。
二人にとって、途方もない意味を持つ女の名前だ。
「……どれだけ手を汚しても。私は、私の為に、マスターに従うよ」
「我が指示が、汝の目的と違う場合は如何する?」
「そんなん、その時に考えるだろ。そういう論争マジで時間の無駄」
「……、…………」
「ま、そんな訳で」
ミュゼが笑った。
「地獄の一歩手前までお供しますぜ、マスター」
その笑顔が、喪ったと思っていた妻の笑顔と重なって、マスターが息を飲む。
まるで妻が戻って来たような一瞬の錯覚に、返事をすることも出来ずに目を閉じて頷いた。
「ねぇしすたぁー。……しすたー・みゅぜはきょうはかえってくるかなぁ?」
「……ええ?」
その頃、ミュゼが去った孤児院では子供達が施設の外に続く門をじっと見ていた。
「しすたー、こんどいっしょにおそとおさんぽしてくれるっていったもん……」
寄付として貰ったうさぎのぬいぐるみを抱きしめて、唇を尖らせてそう言う女の子の瞳には涙が浮かんでいる。
ミュゼが孤児院を出て行って、まだ数日しか経っていない。優しく子供好きだった彼女は、誰の記憶にも強く色づいている。
フェヌグリークはミュゼ達が無事仕事を済ませて帰ってきて、日が昇るうちに孤児院に戻ってこれた。子供達から心配されて、戻って来たと知れた時には大多数の子供達が泣いて喜んでくれたけれど。
でもミュゼの不在に心を沈めている子供も、この子のように確かにいる。
「……そうね、きっと戻って来てくれるわよ」
「ほんと!?」
「本当。でも、それは今日じゃないかも知れないわ。シスター・ミュゼは、この孤児院以外でしなきゃいけない事を見つけたの。シスターが戻って来るまで、あなたが元気でいなきゃお散歩行けないね?」
「……うん……」
それが口先だけの慰みにならないように願っているのはフェヌグリークだけではない。
けれどアクエリアがフェヌグリークに言ったように、この先子供達はミュゼの事を忘れていくかも知れない。
小さな喪失が、孤児院に降りかかって。
同時にフェヌグリークも、それまで大事にしていた筈の兄だと信じていた者への想いを心の奥底に封印した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます