20
「……もう、もう、やめて、ください。やめて、もう」
アルカネットとミュゼが、廊下の先に行き着いた。
部屋は突き当たった場所にしかなく、扉を開くと同時、二人の顔や体を羽虫が通り過ぎて行った。
再び、ミュゼが嘔気を催す。
たった一つの蝋燭の灯しかない中にいたのは一人の少年だ。手入れもされていない伸びきった黒髪を持ち、肌は酷い痣が散見され、深い切り傷で血を流している。擦り切れた襤褸を着せられて蹲り、尊厳なんて何処にもないような姿。
彼は木材の檻に入れられていた。建物のそれより上質な木材は、動物を閉じ込めるためのものだろうというのは簡単に想像できる。
その少年の周囲には、既に変色した血が飛び散っている。まるで拷問でも行われていたかのような劣悪な光景に、ミュゼの意識が一瞬飛びかけた。羽虫の発生源は、恐らくここだろう。
「ミュゼ」
アルカネットは、努めて冷淡な声で名を呼んだ。ミュゼも寸での所で意識を繋ぎ止め、空間を覆う悪臭に息を止めながら歩き進む。
木の檻の側に屈みこむと、中の少年は青ざめた顔を、痩せ細った手で隠した。
「……安心して、私は貴方を傷つけたりしません」
言いながら、手の中にあった槍を床に置く。
「ここに居るのは、貴方だけでしたか?」
少年は、酒場にいたジャスミンよりも細かった。乾燥した皮膚に骨の形が浮き出ている。顔を隠す指の爪さえ変形して、酷い栄養失調を視覚で伝えて来た。
ミュゼの声を聞いた筈の少年は返事をしなかった。
「……ころ、して、ください」
代わりに、自分の望みを伝えて来た。
ミュゼが言葉を失う。
「……『スカイ』。『十四歳』。奴隷みたいだ、買い手は決まっていたようだな」
「え」
「見てみろ、ご丁寧に書類がある」
窓際の粗末な机の上に、重しを乗せられた二枚の書類があった。ミュゼがその書類を受け取って、ざっと目を通していく。
二枚とも身上書のようだ。名前、性別、それから、何かの暗号のような言葉。
『エスプラス』『種付き』。
アルカネットがその単語を理解したのかは分からないが、ミュゼはその言葉を見た瞬間に顔を顰めてしまった。
「……なんだコレ?」
アルカネットが次に手に取ったのは小箱だった。小箱だけは、この場にあるのが異常な程に綺麗なもの。深紅の
「触るな」
ミュゼがすぐさま警告を出す。
「……それ、絶対落とすな。触るな、閉めて置いとけ、危ないぞそれ」
「は? ……これが何か、知ってるのか」
「多分知ってる。いいか、乱暴に扱うなよ。間違ってもそれ、絶対そこの男の子に渡すんじゃねぇぞ」
「爆発でもするのか」
「するって言ったらお前触らないか? じゃあそれ爆発するから丁重に扱えよ」
アルカネットはミュゼの様子が変わったのを訝しみながらも、大人しく蓋を閉めて元々あった場所に箱を戻した。
少年はまだ檻の中で震えていた。その姿を横目で見るミュゼは、その姿に眉を下げて。
「……アルカネット、檻、壊してやれるか」
「壊してどうするんだ。そのうちヴァリンの手下がこの子も保護するだろう、それを待ってからでも」
「この子は逃げられないよ。栄養状態が悪い、動けないだろう。一秒でも早く、こんな檻からは出してやりたい」
言いながらミュゼが書類に再び目を通す。二枚目の紙にはこれまでの所有者が書いてあったようだ。……しかし、直近の一名を除いて全て黒塗りされている。
直近の一名の名前は『ウバライ・ゴーン』。名前の横に買い取り金額、そして引き取り日までが書いてあった。引き取り日は、明日になっている。
「ウバライ・ゴーン……。アルカネット、この名前に聞き覚えあるか?」
「ウバライ? 知ってる、自警団でも名前の知れた奴隷商だ。時々この城下にも顔を出してるとは聞いたが」
「これまで殺した奴の中に、こいつ居たかは分かるか」
「……いや、俺には分からない。外見までは知らないんだ」
言いながら、アルカネットが得物を振った。破砕音に近い轟音が鳴って、檻の一部分が壊れ木屑が舞う。
檻が壊れた。けれど、少年は動かない。正確には、動けないのだ。
「ミュゼ、ここは俺が様子を見ておくから……俺達が行ってた向こうの部屋を頼めるか」
「向こうの部屋?」
「生きてる子供が居た。……俺にそういう手当とかは……無理だから。女であるお前が相手なら、少しは子供達も安心するだろう」
「ああ……そういう。あーね、あぁーね。分かった」
ミュゼもその言葉で察したらしい。顔全面にこの施設への嫌悪感を出しながら、槍を置いたまま部屋を出て行く。例え彼女が似非聖職者だとしても、誰かを思いやる心に嘘は無いのだと分かったからアルカネットも任せる気になった。
スカイという名の少年は未だすすり泣いている。
「ころ……、して、ください」
「……。悪いが、聞いてやれない」
「……いたい、です。いたいです、くるしい」
「分かる。……でも、無理だ」
アルカネットは、そう返すしか出来ない。
殺す慈悲と殺さない無慈悲を知っている。死んだ方が楽になる者が存在することも知っていた。
「俺は、優しくないんだ」
この場所での仕事は終わった。アルカネットは寄り添うように、少年の居る壊れた檻に背を付けて座り込んだ。
それから一時間もしないうちに、黒服と頭巾を纏った男達が四人ほどやって来る。名前も顔も分からないその男達に後を任せて、ミュゼとアルカネットが帰路に着こうとした。しかし。
「後始末って、どうやるんだ?」
それだけはどうしても気になったミュゼが問いかけた。しかし黒服の男達は一言も発しない。
アルカネットの方を見ても、肩を竦めるだけ。その素振りは知らない時のものだ。
ミュゼが帰路への足を止めて、これからどう『後始末』されるのか見ようとした。しかし、アルカネットがその腕を引っ張る。
仕方なしに一階へ降りるミュゼとアルカネット。アルカネットが先導して建物を裏から出ようとする二人の耳に、二階から鋸で何かを切断しているような音が届いた。
帰る間、二人は無言だった。
「おかえりなさい」
日付も変わって大分経つであろう時間なのに裏口の鍵は開いていて、厨房から酒場の中に入ると灯りはまだ点いていた。
帰還の迎えをしてくれたのはマゼンタだった。眠そうな顔をしているが、掃除をしながら待っていたらしく手にはモップを持っている。
アルカネットが「ああ」と返す。ミュゼは、酒場の中を見て驚いた。
酒場で見た顔の殆どがそこにいたのだ。
「無事なようで何よりです」
ユイルアルトが微笑み、ジャスミンがミュゼに頭を下げる。
「……お疲れ様です」
無難な言葉選びをしたアクエリアは、二人から視線を外しながら労いの言葉を投げた。
「……無事で、よかっ……」
声にならない安堵を漏らしたのは、ミュゼ達が酒場を出た時と同じ席に座っていたフェヌグリークだった。
「連絡は届いている」
そして、いつもと変わらない声を向けたのはマスター・ディル。
アルカネットもミュゼも、同時に体を強張らせた。
「ミョゾティス。日の出と共にフェヌグリークとやらを孤児院へ戻せ。其の時に、汝の荷物を此方へ持って戻るが良い。汝の部屋は用意してある」
「……寛大な御心遣い、感謝の極みでございます。何なら今からでもこんな胸糞悪い場所から送って行こうかと思っていましたがそう仰いますなら有難ぁくそうさせていただきます」
「ふん」
ミュゼの発言にも動じることなく、マスターはそれだけ言って口を閉ざす。内心冷や冷やしているのは、二人以外の全員だ。
酒場内に今居る顔触れを見渡して、ミュゼが疑問を口にする。
「……あいつ、居ないの。先に出たからもう戻ってるかと思ってたのに」
「あいつ?」
「あの下半身でモノ言う奴だよ。ヴァリンだったか」
その名前が出た瞬間、ジャスミンがびくっと体を震わせた。よしよし、とユイルアルトがその背を撫でる。
「……あー、あの人は別に帰るところがありますから。今はきっとそちらでしょうね」
「はぁ? なんだよそれ、副マスターだからってそんなんが許されるの?」
マゼンタが苦笑しながら説明すると、ミュゼが険しい表情で問いかける。
「……あの人にも、色々ありますから」
マゼンタの返答は、それで終わりだ。
アクエリアが立ち上がって、カウンター内部に足を進める。その間にアルカネットもミュゼも、手近な椅子に座り込んだ。ここまで帰ってきて漸く、二人に疲労が襲い掛かる。ミュゼはテーブルに突っ伏してしまった。
「お疲れ様です」
アクエリアが、そんな二人に飲み物を出してきた。香りで分かるくらいには強い酒だ。ミュゼは飲む気にはなれなかったが、アルカネットはそれを何も言わず手に取った。
「……じゃあ、まぁ、お二人も戻っていらした事ですし。ミュゼさんに改めて軽く自己紹介でもしていきましょうか」
え、今更? とミュゼが顔を僅かに上げる。
「俺はアクエリア。……担当は交渉、潜入、事前情報の提供です。前金制で仕事の手伝いもしますよ」
アクエリアが話し終えると、ユイルアルトが立ち上がる。
「私はユイルアルト。こっちはジャスミン。普通の薬から人に言えない薬まで手広く扱っています。診察も出来るから、傷から病気まで何かあったら言ってください。他より安くします」
ジャスミンも頭を下げた。
次に声を出したのはマゼンタだ。
「私はマゼンタ。……お伝えしたとおり、プロフェス・ヒュムネです。普段は酒場での仕事をしてますが、言われれば『色々』します」
マゼンタが次に視線を向けたのはマスター・ディル。
彼も渋々ながら口を開いた。
「……ディル」
ただそれだけを言うと、再び口を閉ざした上で瞼も下ろした。
次に、自分の順番だと悟ったのかアルカネットが口を開く。
「……アルカネット・エステル。普段は自警団員をしている。担当は荒事」
ミュゼとしても既に知っている情報だ。はー、と大袈裟に溜息を吐いたミュゼが、手に酒を握って立ち上がった。
フェヌグリークに視線を向けられることはなかった。
「……ミョゾティス。多分私も荒事担当になるんだろうな。いつまでになるか知らんが、これから厄介になる」
これで、もう『仲間』だ。
「ギルドに関わり、此の場に居ない者は三名。内二名はオルキデと副マスターになるが、もう一名は姿を見せたら名乗らせよう」
マスター・ディルがそう最後に付け加えるのを聞き届けた後、ミュゼが手の中の酒を飲み下した。
一気飲みするには些か強すぎる酒だが、何も考えなくて良くなるのには丁度良かった。
一滴残らず飲み干した時に、ミュゼの脳裏に育ての親の顔が過った。乱暴で粗雑で苛烈な男。でも、ミュゼの身を一番案じてくれたひと。
ごめんな、エクリィ。
そんな謝罪ごと酒を飲み干したミュゼの耳に、マスター・ディルの声が届く。
「歓迎しよう、ミョゾティス」
嫌悪感で悪酔いしそうな、頭に響くテノール。
視界の端、酒場の片隅で、フェヌグリークが声を出さずに泣いている。
二度と元の生活には戻れない。かつては兄と慕った筈の男と、仲良くして貰っていた同僚と、世界を切り離される彼女の涙は何の意味も持たなかった。
ミュゼが知るより歪んだ世界で、フェヌグリークに押し付けられた真実は絶望しか齎さない。
その肩を支える資格は、もう誰も持っていない。
音を立てて軋んでいた関係は、この日を境に崩れ去ってしまった。
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