19
階段が軋む音がする。
同時に三人が上っているから当たり前なのだが、その音は酒場の階段よりも大きい気がした。あの場所も相当場末の場所だが、この地獄と比べればまだマシだったのではないか。
季節柄か、虫が飛んでいる。害虫と疎まれる小さな羽虫だ。ミュゼはそれを気怠く掌で追い払いながら、まだ時折引き攣る胃の痛みに耐えていた。
階段を上がる間は、誰も無言だ。ヴァリンが足を進める度に軋む階段だが、ここまで来れば足音を消す意味は無かった。
既にこの地獄を、更なる別の地獄に塗り替えている。
これで救われる心があるのだろうか。もう手遅れなのではないだろうか。
階段を上り切った先、目の前に現れたのは二方向に別れた廊下。
右側からは小さくすすり泣く声が聞こえて来る。左側は、下の騒動が聞こえていないのか誰かの話し声や笑い声がする。その全てが気持ち悪いもののように思えて、ミュゼが顔を顰めた。
出口を塞ぐ、という意味合いではこの場に誰かが残らねばならない。その指示はヴァリンが下した。
「ミュゼ、誰も下に行かないようここで見張ってろ。アリィちゃんと軽く見て来る」
「お前いい加減にしろよ」
再び妹達にのみ許した愛称で呼ばれた事に憤慨するアルカネットだが、二人はそれ以上を言い争う事をせずに細い廊下を左に進んでいった。
右から聞こえるすすり泣きは、そこに誰かが確実にいるであろうことが分かっている筈なのにだ。
……『子供達はどうだっていい』と言ったヴァリンの言葉を思い出す。泣いている声は、多分子供だろうから。
階段を正面に見られる位置に背を付けて、そのままずるずると腰を床につける。溜息が漏れて、天井を仰いだ。
泣き声はまだ聞こえている。
「上等だな。あの女、ハジメテとか言いながら二人殺したぞ」
短い廊下、アルカネットに声を掛けたヴァリンの声は小さい。辛うじて聞こえたその声に、アルカネットがぴくりと眉を動かした。
「……二人、か。俺の時は三人だったけどな」
「自分からこんな仕事に志願した癖に何言ってるんだ。人数で争うなんて、食ってきた女の数自慢し合うカスみたいな事するなよ」
「……お前がそれ言うと出生本当に疑うからやめろ」
「知らんな、勝手に疑ってろ」
ヴァリンの口振りはいつもと変わらない。
一番最初の個室らしき部屋の扉に手を掛ける。入室を告げる合図も無く、一気に大きく開いた扉の向こうには人が居た。
あー、と、ヴァリンの口から吐息が漏れた。アルカネットは廊下に残ったが、その場から室内の様子は見ている。
暗い室内に蝋燭が二本。両方とも壁に掛かっていて、ぼんやりとした光を室内に届けている。
床は鮮血。
そこに転がるのは、十代前半と思わしき全裸の少女の体だった。
アルカネットが勢いよく視線を逸らした。幼くても艶めかしい少女の肢体が、真っ赤に染まっていた。虫の息のその少女を一瞥したヴァリンは、その一瞬だけで視線を別の場所へと向ける。
「っ、な、なんだ貴様等は!?」
中にはもう一人、この施設の『利用者』と思われる全裸の男が居た。
腹が出た二重顎の、六十代だろうと思われる年寄りだ。その手には短い刃物が握られていた。血に塗れた刀身が、ヴァリンとアルカネットの眼前に晒される。
ミュゼをこちらに来させなかった理由。
『こういう事が行われている』と、知っていたからだ。
この場に来れば幼き者は男女関係なく、性的搾取や加虐趣味に否応なしに付き合わされる。
そして奪われる命が、今まで幾らあっただろう。
今日が初めての『仕事』であるミュゼに、これ以上心的負担を掛ける訳にはいかないと流石のヴァリンでも考えたのだ。
「なんだ、って言われても……。俺達が混ぜて欲しそうな顔してるように見えるか? そんな粗末なモンぶらさげて子供甚振って、下半身だけは元気そうだな」
ヴァリンが嘲笑交じりで男に言う。
「立場を弁えろ! 貴様のような若造が、儂に偉そうな口を利くな!!」
「……若造、ねぇ」
男のしわがれた声が放つ返答は傲慢だった。その傲慢さを鼻で笑いながら、レイピアを振った。ひ、と情けない声が男の口から漏れる。
威勢の良いのは口だけらしい。レイピアを持ち上げて刀身を空いている手で撫でながら、ヴァリンが貴公子の笑みで言い放つ。
「そう勝手に侮るのは構わん。だが、その侮った若造に今から串刺しにされるんだからもう黙れ」
「くっ、串刺し!? そ、そんな事をしては儂の従者が黙っとらんぞ!!」
「従者? ああ、お前そこそこ立場があるんだな。でも俺達の今回の目的は残念ながら『鏖殺』なもので、運が悪かったと諦めろ。一階の奴らは先に死んでるしな」
笑顔を崩さないヴァリンだったが、機嫌よく喋るその顔に男が急に何かに勘付いた。
「……もしや、貴方はアールヴァリン様ではありませんか……!?」
そう呼ばれたヴァリンが、笑みを消す。
「…………」
その名前には、意味があったからだ。
「わ、儂、いや、私です!! ガレイス陛下より爵位を頂いております、フェドファス・ロッサ・バルオードでございます!! 陛下の知己である私に、何卒寛大な処置を……!!」
「バルオード……? ああ、バルオード卿か……確かにいたなそういう奴。あの戦争以降、滅多に顔も見せなくなった奴が」
「私は若かりし折に、陛下と共にこの国の未来を語り合った仲でございます!! 何卒」
「はぁ? 未来語り合った癖にこんな場所で女子供甚振ってんのかよ、語り合った未来の浅さが知れるな」
名乗った男の言葉に重ねるように、ヴァリンが苛立った口調で返す。その声に、男は先程の高圧的な言葉とは正反対に体を震わせた。最初は元気だと評された粗末な下半身は、今はもう既に萎びたように小さくなっている。
「あ、アールヴァリン様、殿下、私は」
「黙れって言ったんだが」
ヴァリンは、全て後ろに流した髪型が崩れていないか確かめるように頭部に手をやった。額から後頭部まで、自分の頭に髪を撫でつけ。
「知らない。俺は何も知らない。この施設の利用者にこの国の爵位持ちが居るだなんて
髪は崩れていなかったが、その貴公子を思わせる表情は更に嗜虐に深まって崩れた。
「その汚ねぇイチモツをぶった切られて自分のケツに突っ込まれて死にたくなかったら、黙ったまま俺に殺されろ?」
レイピアが暗がりに翻る。
男の汚い断末魔が聞こえた。
アルカネットはその間、横目で少女を見ていた。
男が息絶えるのを見届けた後、少女の僅かに繰り返されていた呼吸が止まった。
次の部屋。
「ま、待ってくれ俺は、別にっ……! ここに来るのは初めてだ、バルオード卿に誘われてっ!!」
「ん、初回かどうかなんて関係ないんだ。居合わせたのが悪い。死ね」
次の部屋。
「今日が最終営業だって聞いたから……!! だから、今日だけだから! もうしないから!!」
「男の『もうしない』くらい信用ならん言葉を俺は知らんぞ。そうか、今日が最後だったんだな。最後にいい思いが出来たな、良かったな」
次の部屋。
次の部屋。
次の部屋。
左側の全ての部屋を回り終えて、それ以上誰もこの『廓』の個室に居ない事を確認する。
部屋に宛がわれた『商品』は、半数が死んでいた。生きていた者もいるが、心が壊れてしまっているかのように身動きすらしなかった。
そこまで長くない時間を費やしてミュゼの待つ階段前に二人が戻ると、ミュゼは無言で天井を見ていた。二人に気付いて、やっと腰を上げる。
「……お疲れ」
ミュゼの表情は、この短時間で窶れてしまったようだ。きっとヴァリンが殺して回った者共の断末魔も、その混血の耳に届いたろう。
ヴァリンの返事は手を挙げるだけ。アルカネットに至っては何も言わないし、しない。
この場所に居る事自体が苦痛だったミュゼだが、そんな彼女の心を知らない振りでヴァリンが階段を下り始めた。
「お前、何処へ」
ミュゼの口をついて出た疑問は尤もだ。しかしヴァリンは何を当然な事を、とでも言いたそうな顔で振り向いて。
「俺の仕事はここまでだから、後始末の連絡しに帰るんだよ」
「後始末?」
「二番街なんぞで俺が死体の隠蔽なんて雑用やってられるか。後はお前らで何とかしろ」
「ちょっ……!?」
ヴァリンはもう振り返られなかった。ミュゼは呆然としている。これ以上何をしろと言うのか。
アルカネットの方に視線を向けたら、彼は彼で複雑そうな顔をしている。
「あいつ、これが目当てで三番街のあそこ焼いたんだろうな」
「あそこ? ……昨日の、あの場所か?」
「オーナーから書類の事聞かれて、あいつが『出なかった』って答えたろ。……出たら困るんだ。この施設の利用者に、この国のお偉方がいるっていう証拠が出て欲しくなかったんだろう。……出たら、さくっと殺せなくなるから」
この状況に於いて、アルカネットが吐き出すように言った言葉の意味が分からないミュゼでもない。
ああ、となんとなく理解して、二人が行って戻って来た左側の道の先を見る。
いたのか、と。
この施設を利用して、もしかすると施設運営の手引きもしていたような地位のある輩が。
ミュゼには想像しか出来ない。面倒臭い『国の事情』を知った気がして、眉間に皺を刻む。
「……お貴族様相手じゃ、証拠突き付けて取り調べようとしても揉み消されてしまう可能性だってあったからな」
「だから、証拠を消す為に火を放った?」
「あいつの考える事は難しいんだよ。……文字通りの意味で。ところでミュゼ」
「……何だよ」
「右側は、見たのか?」
問われれば首を横に振る。勝手に動いてはいけないと思ったし、すすり泣く声はまだ続いている。
アルカネットとミュゼが互いに顔を見合わせ、そして同時に道の先を見た。
「……子供の生き残りがいたら、後始末とやらのときにどうされてしまうんだ?」
ミュゼとしては当然の疑問だ。
「……状況次第だ。俺の知っている範囲じゃ、ギルドに関わった被害者の子供はあいつの知己とやらが施設長をしている孤児院で、口封じされながら生かされる、らしい」
「孤児院? 知己? あんな奴でもそんな場所に伝手があったんだな」
「………ああ、まぁ、な……」
濁したようなアルカネットの返答。それに特に疑問を覚える事はなかった。疑問を抱く先はヴァリンだったから。
やがて、どちらともなく右側の廊下を進み始める。
廊下の先のすすり泣きを、止められずとも様子を見なければいけないような気がしたから。
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