18
細い小道を、男女が二人手を重ねて歩く。
それだけ聞いたら、仲睦まじい恋人同士を連想するかも知れない。
けれど実際は違う。男はいつでも女を殺せて、女は男を嫌悪までは行かないにしろ蔑視していた。
そんな二人が向かった建物の裏側、もう一つの入口側には贅肉で体が膨らんでいる男が一人いた。一応見張り役のようだが、建物に背を付けて立ったまま舟を漕いでいる。
「……自分達のお仲間が昨日殺されてるってのに、緊張感足りないんじゃないかこいつら」
呆れたようなヴァリンの声。それにはミュゼも概ね同意見だ。
二人の手が離れる。ヴァリンの手は自分の得物であるレイピアに掛かった。手袋に覆われた長い指が鞘をなぞり、かと思えば柄を握って翻るように抜剣する。
流れるような動きに、ミュゼが感心する。その所作はやや芝居がかっているものの、流麗な美剣士のような動きだ。
「暫く動くな」
小声で告げる自分の唇に、剣を持たない方の指をあてて『静かにしてろ』の仕草を見せる。声と仕草の二つで命令されたミュゼはお手並み拝見、という風にその場に座り込んだ。
ヴァリンは足音をさせない。男に音もなく近寄って、さてどうするんだ。ミュゼはその先のヴァリンの動向を、余すことなく見てしまう。
男の正面に位置付いた。男はまだ起きない。
その瞬間、暗闇にヴァリンのレイピアが閃いた。
最初は、男の口を抑える。それは一瞬だ。
次の瞬間には、男の左胸にレイピアが吸い込まれるように突き刺さる。
男は、僅かに痙攣したようだった。声もまともに出せず、口ごと頭を抑えられて立ったまま絶命した。
「―――……あ」
ミュゼの口から声が漏れた。
ヴァリンは視界の先で、男の絶命を確認してからレイピアを引き抜いた。そして、音を立てぬように支えながらゆっくりと地面に降ろす。重いであろうその体を、難無く。
そして再び、音を立てずにミュゼの元へと戻ってきた。血を飛ばすこともせずに緋色に塗れた剣先を、鞘の中に仕舞う事もせず。
半ば放心しているミュゼをそのままに、ヴァリンは建物の様子を窺っていた。中から誰か出て来る気配はなく、勘付かれてはいないようだと感じて漸くミュゼを見た。
「さて、ミュゼ。さっき俺がしたことを、お前にもやってもらう」
掛ける声は慈悲も無く。
「……さっ、き、って。ちょ、っと、まて」
問答無用で、人を殺した。
「何だ、殺戮処女か? 初物なんて良いことないからさっさと喪失しとけ。俺が見といてやるからとっとと慣れろよ」
「そんなっ、!!」
視界の中で、ヴァリンの剣が僅かな星の光を反射した。つい大声を出しそうになったミュゼの喉が、それを見た瞬間に声を殺した。
「……静かにしろ。今の時点で失格になりたいのか」
『審査』は、もう始まっている。
ミュゼがそう理解した時、槍を握る手に余分な力が籠った。
表情を強張らせるミュゼの頬に手を添えたヴァリンが、その耳元に顔を寄せて囁く。
「改めて、今回の審査に於ける指令を伝えよう」
この先で倒すべき者達が悪魔なら、この男はそれを凌駕する存在のように感じた。
もう、今更逃げ出せない。
「全員殺せ。それが出来るなら捕まってる子供達なんかどうだっていい。どうせ、生きていてもこの先良い事なんてないだろうからな」
―――逃げられない。
ミュゼの額から、暑くも無いのに冷や汗が流れる。
今、なんて言った。この男は、指令が叶うなら他はどうだっていいと言ったか。
この国で、恐らくは最下級の生活をしている可哀相な子供達の、その命なんてどうだっていいと。
「綺麗事なんて必要ない。どうせ、この惨状を見ているのは俺達だけだ」
言いたい事だけ伝えて、ヴァリンの顔が離れていく。
放心したままのミュゼは、今更体が震えてきた。
育ての親に武器の扱い方は習った。近距離戦だって、そこいらのゴロツキよりはよっぽど自信がある。
けれど、強くて粗雑で乱暴な育ての親は、ヒトの殺し方までは教えてくれなかった。
それを最後の一線とした。ミュゼを大事に思っての事だと知っていた。
「折角だ、楽しもう。断末魔も、慣れれば潤滑剤を塗っていない弦楽器の音くらいにしか思えなくなる」
育ての親も教えなかった事を、目の前の男が無理矢理押し付けてくる。
クズだクソだと思っていた男は、ミュゼが思っていた以上に外道だった。
「………わかっ、た」
それでも了承せずにいられなかったのは、自らの存在を否定されるわけにはいかなくて。
育ての親がミュゼに向けて一番注意を払ったであろうそれを、彼のいない所で侵す。
「そうそう、アリィちゃんに合図もしないとな」
ヴァリンが自分の胸元を探り、小さな宝石を出した。
それは白の光を放ち、暗闇の中でも二人の顔を浮かび上がらせる。
そうして見えたヴァリンの口許は、笑っていた。
「あそこの扉、お前が開けろ。そしたらすぐに目を閉じろ、何も見えなくなるぞ」
人殺しの指示を、黙って受け入れる。足音をなるべく立てないようにしたけれど、ミュゼの膝は震えていた。
扉に手を掛ける。二、三度の深呼吸の後、意を決して勢いよく扉を開く。
「上手だ」
鼓膜に纏わりつくようなヴァリンの声。同時に嫌悪感が込み上げてきて、指示された通りに閉じる瞼に力を入れる。
―――刹那、閃光。
それは閉じた瞼さえも貫通してくるかのような眩い光だった。建物の中で、眩しさに呻く誰かの声が聞こえた。声が複数なのは分かる、だがミュゼが瞳を開くより先に、体を突き飛ばされてしまった。
「っ!?」
戸惑いが先行して足元がふらつく。そして瞳を開いた時には、すぐ目の前をヴァリンが駆けていた。
縺れる足を堪えて踏みとどまる。その瞬間、ヴァリンのレイピアが閃いた。
「っぐ!?」
駆ける速度そのままに、ひとりめ。
「がぁっ!!」
横跳び、振り向きざまにふたりめ。
喉に銀の刀身を受けた者。胸元に一突きされたもの。
ミュゼが体勢を整えていたほんの少しの間に、その場に死体が二つ出来上がった。心臓を刺されて絶命する男が崩れ落ちる、その僅かな時間さえも勿体無いとでも言いたそうにヴァリンが死体を蹴り飛ばした。
その場にいる者はそれで終わりだ。建物内部の検分より先に、一方的な殺戮を見てしまったミュゼの瞳が開かれたまま揺らいでいる。
「と、まぁ見本はこんなものだ。それじゃ、実戦行くぞ」
「っ……は、ぁ、?」
「次出てきた奴はお前が殺せ。ハジメテってんなら一人で良い。そんなアクエリアの
ヴァリンが顎で、ミュゼの持つ槍を指した。細身のそれは、ミュゼの手にしっくりと馴染む硬質の木材で出来ている。玩具なんてとんでもない。これは、人を傷付け命を奪う事に特化した『武器』だ。
覚悟は決めた筈だった。でも、いざその時になると体が言う事を聞かない。
そんな戸惑いも全て見透かして、建物内の僅かな灯りしかない暗がりの中ヴァリンが微笑む。
「心配するな、俺がちゃーんと見ててやるからな」
もう、聞きたくない。
ミュゼが俯いて、片手で槍を振った。同時、足音が建物の向こう側から聞こえて来る。
「おい、お前らそっちどうなってる!」
聞こえた声は野太い男のもの。
足音は二人分。
振った槍の穂先を、部屋の出入り口に向けた。急ぎ足の煩い音が、耳障りで仕方ない。
心臓の音が、嫌に大きい。聞きたくないのに耳を塞いだって無駄だと分かっている。
息が、動いても無いのに荒くなる。
「聞こえねぇのか、返事し―――」
そして部屋に入って来た瞬間。
ミュゼの跳躍、そして振り下ろす槍。切っ先が男を捉え、皮膚を貫いて最奥を目指して突き抜ける。全体重を掛けた刺突は、相手から戦意だけを失わせるものじゃない。
突き刺した槍を捻りながら、着地と同時に男の体を蹴り飛ばす。勢いよく引き抜かれた槍の痕から、血飛沫が噴き出してミュゼの顔と体を汚す。男は言葉も無く、床に倒れて動かなくなった。
「なっ、お前ら誰だ!!?」
二人目の男へと、ミュゼが視線を向けた。その一瞬で、ミュゼが男へと肉薄する。短めに持った槍から
男の言葉で意味あるものはそれが最後だった。鋭い切っ先は、男の眉間を狙う。一瞬だけ固いものにぶつかった感覚が手に伝わるが、何かが割れる不快な音と共に、切っ先が更に奥へと進んだ。柔らかい何かを侵食する感覚が、槍の先から感じられる。
呻き声が漏れ、それはすぐに終わる。
その感覚が恐ろしくて、ミュゼはそのまま手を離してしまった。
崩れ落ちる男の体が、もう動かない。
「っ……あ、ああぁあああ、ああああああああああああああっ…………」
喉を通る呼吸が、動いたのとは別の理由で更に荒くなった。
膝が震えて立っていられない。
出したくも無い声が漏れ始めた。
戦慄く両の手を広げて、その手に残る感触を振り払うよう、しっかり握りこんで両目に当てる。
膝を床に付けて蹲るミュゼに、ヴァリンは満足そうな笑みで手を叩いた。それはまるで、観客席から閉幕までを見守っていた観劇者のように。
「上手に
気持ち悪い。
気持ち悪い。
きもちわるい。
その場で苦悶に呻きながら過呼吸を繰り返し嘔吐するミュゼを、ヴァリンはまだにこやかに見ている。その場に夕方に食べた食事の残骸を垂れ流しながら、ヴァリンの言葉に耳を塞ぐ。
「ここで止まってる暇はないぞ、入り口と出口は塞いでるから後は二階だ」
まだ胃が痙攣しているミュゼの後頭部、一つ結びにしている髪を引っ張って無理矢理立たせる。ミュゼは逆らいもせず、涙を浮かべた瞳で立ち上がった。
耳を覆っていた手は、無意識に助けを求めるように槍を握って。
男の眉間から槍が引き抜かれる時、僅かに男の頭が持ち上がってごとりと鈍い音を立てる。
「………死んだら、後は肉塊じゃなかったのか」
聞こえた声に、呆然自失状態のミュゼの視線が動いた。
奥から現れた影に無意識にミュゼの体が強張るが、声がアルカネットのものだと分かると力が抜ける。
「よくもまぁ聖職者が罰当たりな事を言うと思っていたんだがな。お前も所詮、ただの女だったって事か」
「……ば、か、じゃねぇの?」
汚れた口許を袖で拭ったミュゼ。折角貰った服だったが、血と汚物で汚れてもう二度と着られそうにない。
震える唇が苦痛を、零れた涙が自分への失望を表し、もう戻れない所まで来てしまったと、声に出さずに嘆く。
「慣れりゃ、いいんだろ。通過点なんだろ、今は。私を舐めんな、私を、私の覚悟を甘く見るな」
呼吸に混ぜた呻くような声が、精一杯の矜持を語る。
ただの強がりだ。そんなの言った本人だって、ましてやアルカネットとヴァリンにだって分かっている。
アルカネットはその姿に、初めて人を殺めた時の自分の姿を重ねて見てしまった。
ヴァリンは二人を無視して、先に進む。
「行くぞ、外から見てたが二階には窓が無かった。とっとと終わらせて帰ろう」
二階に窓が無いという事は、上階にいる者の逃げ道は無いということだ。
まるで付き合わされた買い物に飽きたかのような言い草で、ヴァリンが部屋から出て行った。
アルカネットは無言でミュゼを見ていたが、そのままヴァリンの後を追う。
ミュゼは、込み上げてくる吐き気を無理矢理抑え込むと、息を止めて二人と同じように部屋を後にした。
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