17
「ねぇ、誰か煙草持ってねぇの」
酒場を出るなり、ミュゼが発した第一声がそれだった。
春の夜は肌に心地いい快適な気温。しかし遅い時間故か出歩いている者は殆ど居なかった。
アルカネットが自分の素を隠さなくなったミュゼの発言にぎょっとした。この女、喫煙者なのかと表情が語っている。
「仕事前に煙草は止めろ。臭いが残るような事はするな」
釘を刺したのはヴァリンだった。発言としては至極真っ当なのだが、言った人物がヴァリンなのでミュゼの口が面白くなさそうに曲がる。
流石ギルドの副マスターといった発言だ。しかし、ミュゼのその考えは次の言葉で塵と化す。
「何か吸いたくなったのなら、別のモノでも咥えてろ」
途端にミュゼとアルカネットが侮蔑の表情でヴァリンを見る。
「死ね」
「ヴァリン、ちょっと黙っていろ」
「心外だな、俺は『何を』なんて言ってないのに」
ここ一日の間に、ヴァリンという人物の性格をそこそこ知ってしまったミュゼが遠慮なく辛辣な言葉を投げる。アルカネットもそれに続くが、ヴァリンの顔に浮かんでいるのは無表情だ。
三人の足は目的地を目指して進む。向かう先は口頭で聞いたが、二番街とやらの地理に明るくないミュゼとしては二人の後を追いかける形になっている。最後尾になっても二人が振り返らないのは信頼されているのか、それとも逃げ出せないからだと踏んでいるのか。常に監視されているより気が楽ではあるのだが。
「なぁ、ミュゼ」
そんな不信感を読まれてしまったのか、急に声を掛けてきたヴァリンにミュゼの身が強張った。
「……何」
「お前さ、あいつの嫁の惚気話聞いたんだって? 言ってたじゃないか、誰経由かは知らんが延々聞かされたって」
ヴァリンは振り向かない。
あいつ、という言葉だけで、誰の事を指すのかその場にいる三人とも分かっている。アルカネットさえ、二人の会話に耳を澄ませた。酒場では滅多に話題に上がらない、既に喪った者の話だ。
「……聞いた。色々聞かされた。聞いたの幾つか昨日マスターに言ったらブチギレられた」
「あの時の怒鳴り声それか。はは、あの馬鹿の惚気話か。俺も聞いてみたいものだ」
「何だっけな、アイツの副隊長とか何とかから唆されて着た服が、って話とかもしたな」
ミュゼの口から出てきたその言葉に、ヴァリンが突然足を止めた。
顔は、向けない。
釣られてミュゼもアルカネットも歩みを止めた。何で進まないのかと疑問が浮かぶ前に、ヴァリンが口を開く。
「副、隊長?」
「あれ、違った? あの女『そういう仕事』してたんだろ? えーと、副隊長っての名前なんて言ったかな」
「ソルビット」
「ああ、そうだ、それだ! ……って、……あれ、その名前、昨日」
昨日、聞いたような気がする。
何処で聞いたっけ。
そう、あの時、マスター・ディルの口から出てきた名前だった気がする。
それで、何で出てきたんだっけ。
その名前で、ヴァリンに問いかけたんじゃなかったっけ。
ミュゼの頭の中で、声に出ない言葉がぐるぐる回る。
聞き覚えのある名前の筈だ。エクリィ経由で何回か聞いた名前じゃなかったか。あの女の側に居て、それで、『あの女と共に死んだ女』。
何かが耳元で囁いたように、ミュゼの頭に嫌な予感が駆け巡る。
『ソルビットを忘れた事はあるか』
マスター・ディルの言葉が、ミュゼの頭を通り抜けていった。
「……ヴァリン、あのさ」
「………何だ」
「ソルビットって、もしかして」
「……、…………」
続きを口に出すことは憚られた。ヴァリンが一瞬だけ、息を飲んだような声を出したから。
それから続く沈黙が、重い。
聞いていたアルカネットさえ沈痛な表情をしてミュゼに振り返った。もう、それ以上を言うなと言いたいかのように。けれど夜の闇は、その表情を呑み込んでしまう。
なんだよそれ、と、ミュゼの声が漏れた。
その声はヴァリンの耳にも届いただろう。空を仰いだ彼の呟きが漏れる。
「俺だって」
沈んだ声が齎す空気は、春の空気を肌寒くさせるような錯覚を感じさせる。
「……止めてくれ、あれから何年も経ったんだ。もう、こんな時に思い出させてくれるなよ」
自分が振った話の延長線上だからか、ヴァリンは黙れとは言わなかった。
再び歩み始めたヴァリンの足音が重い。
普段は極力足音を立てないように注意を払っているヴァリンにはあるまじき事だった。ざり、と地面を踏み締める音は、胸に蟠る苦悩をそのまま二人の耳に届けているようで。
二番街までは、普通に歩けば二時間程度の距離だ。
普通に会話がされていたのは最初の三十分程度だけで、あとの時間は沈黙に包まれた道程だった。
戦争は、何も遺していかなかった。
増えた戦災孤児、倒壊した戦場の街、喪った命は数知れず。
戦争から六年が経とうとしていたのに、傷を癒しきれていない者の多さを身を以て知った。
犠牲になるのは大人だけじゃない。何も知らない子供は運が悪ければ、もっと非道な目に遭わされる。
今から向かう先には、そんな不運な子供達と。その子供達を食い物にする悪魔たちがいる。
「あれだな」
概ね順調に来ることが出来た二番街。時折ある、ならず者の襲撃は今日は無かった。
ヴァリンが道の先に見つけた建物は、周囲のあばら家などとは少し違った佇まいをしている。
安っぽいささくれた木材で組まれた建物は二階建て。窓らしい窓は見当たらないが、規模だけは大きかった。酒場『J'A DORE』と比べても、床面積だけで言うならこちらの方が大きいだろう。
問題はここからだ。
建物の外に、それと分かるくらいには柄の悪い男が二人立っていた。
外は火が焚いてある。それを囲むように位置付いて、周囲に気を払っている。
―――『廓』だ。これまでの話を聞いていれば、あそこに子供がいると分かる。
ミュゼの肩が震えた。あの場所が仕事先。あの場所を制圧するのが審査。死神がミュゼの背中に鎌を向けている気さえする。ここでマスターが満足できるような成果を上げられなければ、願いも果たせず殺されるのだから。
「アリィちゃん、お前は暫く待機してろ。俺らは裏から回る、合図出すから余所見するなよ」
「その呼び方いい加減やめろ。……分かってる」
「ミュゼ」
ヴァリンが軽く指示した後、まるで貴公子が令嬢にするかのような仕草でミュゼへと手を差し出した。
夜会へ行くような服装も相俟って場にそぐわない姿に戸惑ったミュゼだが、大人しくその手を取る。手袋越しの男の手は大きく感じられて、華奢なミュゼの手をそっと握った。
髪を掻き上げて貴族然とした見た目と、女性に優しく接する時だけは本当に美麗な男だ。握られた手とヴァリンの顔をまじまじと見ていたミュゼ。
「何か下手な事したら、ここにお前の死体置いて行くから宜しくな」
行動と発言が伴わない、暗がりでも至近距離なら分かるその男の笑顔を視界に収めながら。
「……私の手元が滑って、お前の腹に風穴空けても笑って許してくれよな」
一方的に言われているのが我慢ならなくなって、重なる手を全力で握り返した。「痛い痛い」と笑い交じりの声がヴァリンの口から漏れる。ミュゼの握力ではこの手を粉砕するには至らない。
そんな二人のやり取りを見ながら、アルカネットが溜息を一回。
「早く行け、遊ぶな」
憎まれ口も一回。
二人は手を繋いだまま、少し離れた小道へと姿を消した。
ヴァリンとミュゼが居なくなった場所で、先程の名前の主の事を思い出していた。
―――ソルビット。
アルカネットにとって、名前を聞いた昨日の時点で久々に顔が浮かんだ。その顔を思い出さなくなって、でも名前を聞くだけで記憶が蘇るくらいには印象に残る美女だった。
巻いているような癖の強い茶髪、大きく丸い鳶色の瞳、何を塗らずとも朱に色付く唇。『あの女』と共に仕事終わりに酒を飲みに来て、幾らか飲んで管を巻いて帰っていく。
よく通る声を煩いと嫌悪した事もある。けれど見ているだけなら目の保養になった。気取った酒を口許で傾けている姿は、肉体労働に従事している女には見えなくて。
ヴァリンは、その女の事を。
過去の記憶を引っ張り出していると、アルカネットの視界が一瞬だけ明るくなった。まるで雷でも落ちてきたかと思う程の眩い光だが、空を見上げても星空が見えるばかり。
それをヴァリンからの合図と感じ取って、アルカネットが自分の得物を握る。見ると、外に出ていた見張り役は建物内の異常に気付いて中に駆け込んで行った。
「……あいつ、本当に派手好きだな」
アルカネットが抜いた両手剣の重みは、人の命と比べれば軽い物だろう。その軽さが、重いとされる人の命を刈り取って、奪い取って、体を肉塊にしてしまう。
ミュゼは『肉体はただの容れ物に過ぎず、あとは蛆がたかるだけ』と言った。その考えには同意見だ。しかし、彼女はそれを実行することに異論はないのだろうか。
人を殺して糧を得る、その行為に後悔は覚えないのだろうか。
アルカネットは後悔しているというのに。
人の命が潰える瞬間を、素面では耐えきれないほどの罪悪感が襲う。酒を飲んで誤魔化し続けて、いずれ近くない未来に感覚が麻痺してくれるのを待つだけ。
息を吐いた。吐いて、吸った。それを何回か繰り返して、覚悟を決める。
握りしめた柄を振り回せば、今日も誰かが死ぬだろう。
建物の中からは既に叫び声が聞こえている。
断末魔のようなそれを出来るだけ精神を集中させて聞かないようにしながら、黒衣の死神も建物の中に入って行った。
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