16
決行は夜から。
何かしら時間を決めての荒事というのはミュゼにとって初めてではなかった。育ての親の指示の元、武器を持つのは何度もあった。
育ての親―――エクリィ・カドラーと名乗っていた男―――は、苛烈で粗雑な性格をしていた。彼から、色々な事を教わった。
料理の仕方、裁縫のやり方、掃除の方法、乗馬だって野草の判別だって、生きるための手段を幾つも身につけさせられた。幼い時に親を亡くしたミュゼにとって、彼は唯一無二の存在だった。
彼と逢わなくなって一年程が経った。
気づいたら、このアルセン国の五番街の河原で倒れていたと言われた。
其処に至るまでの色々を、ミュゼは覚えていない。何故そんな所にいたのかも知らない。
けれどひとつだけミュゼには分かっていた。
『この世界は、あってはいけない世界だ』と。
外に出る事を許されず、ミュゼは夜まで酒場の中で過ごすことになった。服は体格が一番近いユイルアルトが持っていたものを借りた。全身を黒で覆う踝丈のワンピースは、シスター服よりも動きにくくはあるが落ち込んだ気分に丁度いい辛気臭さでそのまま借りた。
「この服、血で汚れるかも知れないけどそれでもいいのか」
と聞いたら。
「良いですよ、多分その服にももう既に血がついてますから。差し上げます」
と何でもないという風に返答されて、ミュゼが面喰らう。
「アタシ、武器が欲しいけど何か無い? 孤児院に置いてきちまった。丸腰じゃ何も出来ない」
と声を掛けたら、アクエリアから細身の槍を手渡された。その僅かなやり取りだけで、ミュゼの体が強張る。
「返さなくていいですよ、そのまま持っておきなさい」
アクエリアの声は優しかったが、どこか突き放したような雰囲気さえ感じ取れた。
知っているからだ。この酒場の、否、マスター・ディルのお気に召さなかったなら、このミュゼの命が奪われてしまう事を。
突き放して、必要以上に関わらない事で、喪う辛さを最小限にしようとしている。
それが分かるくらいには、ミュゼはアクエリアを知っていた。
「んじゃ、有難く貰っておくよ。私が死んだら一緒に燃やしてくれな」
冗談めかして言うミュゼに、アクエリアが唇を引き結ぶ。
今の言葉に何か思う所があったのだろうか。それとも、『この顔』が再び死に至る所を考えてしまったのだろうか。
そんな顔もするんだな、という言葉はミュゼの喉の奥に押し込まれてしまった。
今回の審査とやらで、ミュゼは死ぬ気は一切なかった。
それだけ、育ての親に仕込まれた自信があった。彼から身につけさせられた護身と武術は、アルカネットに対して存分に発揮された。
自信は油断ではない。
これまで何度も、危ない目に遭っても生き延びてきた。
死ぬのは怖い。けれど、ミュゼにとっては自分の力が及ばない世界では死ぬしかない事を分かっている。
死ぬのと、消えるのと。もしくは、殺されるのと。
どれが一番楽になれるだろう、と、ミュゼはぼんやり考えていた。
外に出られない退屈な夜が来るのを長く感じた。
その日も変わらず酒場は開店する。とはいっても客数が多い訳ではないこの酒場『J'A DORE』は、店を開く前も後も空気感はまるで葬式だ。入って来る客も、カウンター奥で何をするでもなく椅子に腰かけている店主も、店員の所作さえも喪中のような雰囲気。ご注文の品です、なんて言いながら提供するマゼンタの声も明るいものではない。
ミュゼもフェヌグリークも、シスター服ではない借り物の服で一階にいた。オルキデは厨房に籠り、マゼンタは客席を担当する。アクエリアは酒の注文が入った時だけ下りて来させられて、提供が終わると部屋に戻っていく。居心地の悪い店内で、ミュゼとフェヌグリークは一番端の席で黙ったまま夕食を摂っていた。
客が入り、酒を飲み、そしてまた別の客が入って、先にいた客は気が済んだら出て行く。酒も料理も提供し終えて、夜が更けたら店を閉める。最後の客が帰った後に閂を閉めて、それで終わり。看板も出していない店なのに、客の入りがある方が不思議なのだが。
閉店作業の最中に、二階から誰かが降りてくる音がした。足音は二つ分、それはヴァリンとアルカネットだ。
「こっちの準備は終わったぞ」
アルカネットの沈んだ表情は隠せない。
「……じゃあ、最終確認と行くか」
ヴァリンは黒い手袋を指に嵌めながら、切れ長の視線をミュゼに向けながら言った。
うわ、とミュゼの口から声が漏れる。
これまでヴァリンの姿は、野暮ったいような長い前髪を下ろした姿しか見た事が無かった。しかし今のヴァリンは、濃紺の髪を全て掻き上げて後ろへ撫でつけている。どこかの王子と言われても疑いようのない程に整った顔立ちが露わになったヴァリンは、服も黒と青で統一された正装のような服を纏っていた。首元まできっちり留められたボタンと、気品を感じさせる白い
腰から下げているのは、黒の鞘に金の飾りが付いた細身の剣。レイピアだ、と分かるくらいにはミュゼの知識もある方だ。やや豪奢な飾りはこの酒場には不似合いで、それでなくともヴァリンがそんな恰好をしていると思うと鼻につく。
「どうした、惚れたか?」
まじまじと見ていたミュゼに、自信に充ち溢れた微笑で問いかけるヴァリン。
「誰が」
と返すが、その佇まいの価値は色恋に疎いミュゼだって分かる。
例え中身は軽薄で下世話なクズだとは言え、外見で釣れる女がいるならば入れ食いだろうという事も理解できる。
よく見れば、外見だけで言うならこの酒場は平均以上の美男美女が揃っている。ミュゼが昨日今日で見かけた面々だけで全員なのだろう、手洗い場に下りて来る姿もあれ以上の顔を見た事はなかった。
「綺麗な顔ばっか揃ってるのに、なんだってこんなに辛気臭いかねこの酒場」
独り言のように呟いた声はフェヌグリークにしか届いていないだろう。フェヌグリークは沈んだ顔を上げてミュゼを見る。
「……綺麗な、顔。そう、ですね」
顔を青くしたフェヌグリークはミュゼにそれだけ言うと、再び顔を下に向ける。
ミュゼはそれを、これから自分やアルカネットが荒事に向かう事への不安を隠しているものだと判断したけれど。
「……そんな顔、しないでくださいシスター・フェヌグリーク。大丈夫ですよ、私達はちゃんと戻ってきますから」
「……は、い」
蚊の鳴くような掠れた返事は恐怖を告げている。
そんな顔をこれ以上見たくなくて、ミュゼが席を立った。
ヴァリンの元へと向かうミュゼを、フェヌグリークは見なかった。―――否、見られなかった。
「最終確認って、何すんだ。注意事項とかかったるい事でもあんのかよ」
「注意事項? ……『無い』。ああ、ひとつだけあるとしたら、俺とアリィちゃんの邪魔はしてくれるなよ」
「ウイッス」
「目的地の入口は表にひとつ、裏にひとつ。到着したらお前は俺についてこい、俺らは裏から回る」
「ウイッス」
二人が話している間に、アルカネットがフェヌグリークの側に寄る。身を竦ませた妹は、恨めし気な視線を下から投げて来るだけ。
アルカネットは背中に両手剣のような大きさの武器を担いでいる。鞘を黒塗りにした、柄に一本だけ銀色の線が入っている凶器。よくこんなん扱えるな、とミュゼが変に感心する。
兄妹のやり取りを、その場にいた全員が遠くから見ていた。
兄妹、なんて、そんなもの本当は違う。
二人に血の繋がりが無いのは確定している。アルカネットは、紛れもないヒューマンなのだから。
「……フェヌ、行ってく―――」
兄が、妹の頭を撫でようとした。
その手は妹の手によって振り払われる。
手を払う、乾いた男が広い酒場内に響いた。
「……行ってらっしゃい」
兄の顔を見ることも無く、妹がそれだけを口にする。まるで邪魔者を追い払うような語気の強い言い方に、アルカネットが瞼を伏せた。
二人の溝は、今に開き始めたものじゃない。
これまで見ない振りして、互いに顔を背けて、背まで向けた結果がこれだった。
この後の結果がどうなろうと、二人の仲は既に修正も難しいものだった。
兄妹ではないと知れても、二人にはもう驚きも拒絶も無い。ただ、ああそうか、その程度の関係だったんだなと納得するだけ。
アルカネットも、ヴァリンの側へ向かった。
今から向かう先でやるべき事、それに伴う行為への恐怖などは無い。
これまで似たような事を、何度もやって来た。
これからも、変わらない。
三人が挨拶も何もなく、酒場の裏口から夜の街に出て行く。こんな時間に人通りはないだろうが、堂々と出歩いていい格好をしている訳でもない。
ヴァリンが開いた扉は音もさせず開く。ミュゼが最後尾になった扉は、僅かな軋みを持って閉まった事を酒場にいる面々に伝えた。
「……行っちゃった」
閉店作業中のマゼンタが、ぽつりと漏らした瞬間。
「……っ、は、あ」
冷や汗を流していたフェヌグリークが、漸く顔を上げた。
「なんなん、ですか、あれ。だれも、気付いて、ないんですか」
「……ああ、見えました? 私達プロフェス・ヒュムネは『見えやすい』んですよね」
「見えた、って。マゼンタさん、あれは」
フェヌグリークが顔を上げなかった理由は、兄やミュゼが荒事を起こしに行くからだけではなく。
ヴァリンの居る場所に、その肩に、見えてしまったものがある。昨日までは見えなかったものだったのに。
顔の上半分を、抉られたかのような骨と肉を曝け出している茶の髪を持つ人物の上半身を。
胸元から下は見えなかった。胸元から上だって、向こうが透けて見えていた。
フェヌグリークにとって、初めての体験だ。これまで、『それっぽい』ものを見た事が無かったのに。
朝方、ユイルアルトが何かしらの球体に『目だけですか』と言ったのを思い出す。それが見えた後に、ヴァリンが近くまで来ていると連れに行った事も。
フェヌグリークには確信があった。つまり、あれは、幽―――。
「見えた事、他の人に言ったら駄目ですよ」
「え……」
「死んだ人が生きている人を縛りつけちゃ駄目なんです。本当は、その逆も許されない。ヴァリンさ―――ん、が『気付いてしまったら』、きっと、彼は彼女を離さない」
「それ、どういう意味ですか」
フェヌグリークの問いかけには、マゼンタは笑みを浮かべて言葉を濁すだけ。
もう酒場には、ヴァリンもその肩に憑いていた霊も居ない。重苦しい空気は大分軽くなって、けれどこの酒場自体がまるで墓場でもあるかのように静まっていた。
「これ以上、この酒場の事に首を突っ込んだら、もう戻れませんよ?」
それは忠告だろうか、それとも警告なのだろうか。
フェヌグリークには判断が出来なかった。
単なる殺人組織ではないらしいこの酒場の更なる闇に触れた気がして、フェヌグリークが再び体を震わせた。
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