15

 朝から物々しい空気を感じ取って、ミュゼが下りて来るなり嫌な顔をする。なるべくなら、この場に居る男共の顔は視界にも入れたくない。

 ミュゼにとって、フェヌグリークが無事であるならそれでいい。彼女が朝食を摂っている姿が確認できて、安心した表情を浮かべた。


「……おはようございます、皆様。この早い朝によくもまぁお揃いで」


 挨拶の皮を被った嫌味がミュゼの口から放たれると、憮然としたヴァリンが続く。腕を優雅に振り上げて芝居がかった仰々しい礼をしつつ、まるで演劇の舞台俳優を思わせる芯のある声で。


「御機嫌よう、眠り姫。可憐な白薔薇を思わせる貴女の寝顔が見られなかった事が残念だ。今晩貴女の寝所へと忍び込んでも?」

「やめてください」


 返事をしたのはマゼンタの冷たい声だった。確かに、ミュゼの寝ていた部屋はマゼンタとオルキデの部屋だから彼女が返すのは道理なのだが。

 げ、と、ヴァリンの口から声が漏れる。その声に気まずくなったのか、一度大きな咳払い。


「……俺だって好みじゃない女に本気で粉はかけないさ」


 今の声は普段のヴァリンだ。

 どこまでが本気で、どこからが嘘なのかが理解できない。この男の軽薄さにミュゼも嫌気が差してきた所だ。

 やがてまた新しく階段上から姿を現す影がある。アルカネットが下りてきた。……フェヌグリークがそちらに一瞬だけ視線を向けるが、何かを言いたそうにしているのに瞳を逸らす。アルカネットも同様で、二人の間に会話が交わされることはない。


「三人、揃ったな」


 そこでマスター・ディルが口を開いた。体はまだ椅子に座ったまま。

 三人、という単語はこの場に居る面子ではミュゼとヴァリンにだけ分かる暗号のようなものになってしまっている。他の面々は何のことか分かっていない。

 次々に朝食の配膳をするオルキデは他人事として、話を聞く姿勢にはなっていない。

 その場にいる全員が、各々思い思いの椅子へと腰を下ろす。


「アルカネット、副ギルド長、ミョゾティスの三名。本日深夜、二番街の例の施設を制圧せよ」


 名を呼ばれた三人の表情はそれぞれだ。

 ミュゼは嫌そうに眉を顰めるだけ、ヴァリンは不快そうに顔全体を歪めた。初耳のアルカネットは、驚愕と嫌悪を顔中に浮かべている。

 仕事を伝える時の言葉は、他の職種と変わりない。ただ上の者が実際仕事をする者に、時間と場所を伝えて指示するだけ。けれどマスターー・ディルの指示はそれで終わる。後は自分達でどうにかしろとでも言いたいように、そのまま瞳を伏せるだけ。


「待てよ、俺はいいが何でヴァリンとシスター・ミュゼも行くことになったんだ。俺は何も聞いて無いぞ」

「今回はミョゾティスとやらの審査も仕事の内だ。彼の者が此の場所に相応しくないと判断すれば、其の場で首を刎ねても構わぬ」

「っ……は、ああ!!?」


 その言葉で強張ったのは、ヴァリン以外のその場にいた全員の顔だ。

 あまりに人の命を軽視しすぎている言葉に、フェヌグリークの表情が青に染まる。自分の生きてきた世界とかけ離れたマスターの一言に、全身が拒絶を示しているかのようだった。

 何故、そこまで言われなければならない。フェヌグリークの知っているシスター・ミュゼは、そこまで軽んじられる存在では無くて。気が付けば、テーブルを平手で叩いて立ち上がっていた。


「いい加減にしてください!!!」


 これまでそんな声で叫んだことはないという程の悲痛が混じる怒声。

 自分で出した声に驚いたフェヌグリークだったが、思いと反して口からは勝手に怒りがぶちまけられる。


「聞いていれば勝手な事ばかり……!! 人の命を何だと思ってるんですか!? 貴方に大切な人はいないんですか!? 人の命をそんなに軽く見て、自分より偉い人がいないとでも思ってるんですか!!?」

「おい、止めろフェヌ!」

「止めない!!」


 兄と慕ったアルカネットの静止の言葉さえ振り切って、フェヌグリークは言い募るのを止めなかった。


「こんな事、神は御赦しになられない! 誰かの命を誰かが奪っていい訳ない!! 貴方は間違ってる! それなのに間違ってる事にも気付いてない哀れな人です!!」


 神、との言葉が出た途端、ヴァリンの表情が青くなる。「それ、こいつには……」と、呻きのような声が漏れた。

 反応したのはヴァリンだけではない。オルキデとマゼンタの姉妹も、まるで災害から逃げるかのように酒場の端まで移動した。

 三人の様子が変わったのに気付いて、状況を把握していないユイルアルトとジャスミンさえ場所を移動する。この酒場に身を寄せてからの勘が働いたらしい。

 二人だけ、フェヌグリークに近づいた者が居る以外は全員が逃げていた。


 頬を張る音が響く。


「―――あ、っ!」

「止めろって言ってるだろう!!」


 空気の違和に気付いたミュゼが、背中にフェヌグリークを庇う。

 アルカネットはその背後で、妹の頬を張り飛ばしていた。突然の暴力に華奢な体が床に倒れる。

 それだけでは終わらない。無骨な男の手が、フェヌグリークの胸倉を掴んで起き上がらせた。


「……んな事、ここに居る全員分かってんだよフェヌ!」

「………なん、で、……アリィ」

「お前が熱心なシスターになってくれたのは俺だって嬉しい。……けどな、それが通用する相手かどうかも分かるようになってくれ。……今のはヤバイ、こいつには禁句の一つだ」

「禁句、って」


 一体、何の―――。

 フェヌグリークが問おうとした時、マスター・ディルの唇が開かれる。


「『我らの主が世界のなにもかもを作り出し、生きとし生けるもののすべてを想像したのだから、万物の父でありし主の前で隠しごとが成せると思う事勿れ』」


 その場にいる全員の前で一文を諳んじた声は、紛れもなくマスター・ディルのものだった。

 マスターのテノールはこれまでの暗く沈んだ声とは違う、涼やかさと威厳を兼ね備えたよく通る声。


「『弱きものに寄り添うこころこそを主が尊ぶ、そのもののために涙を流す者は主の救いによりその身を遥かなる楽園へと招かれる』」


 フェヌグリークが震えた。

 それはアルセン国の聖書の一節だ。

 この国の信仰は自由だが、元々根付いていた宗教は三神教だ。三柱の神の中でも国の成り立ちに大きく関わったアルセン神を特に信仰している。

 信仰が自由だからこその無神論者も、この国には少なくない。

 なのに、聖書を諳んじるその男の声は、まるでそれを読み上げる事に慣れているかのようなもので。


「フェヌグリーク、と言ったか」


 名を呼ばれて、フェヌグリークが驚きを隠せない瞳で見返す。

 この男は一体何なのだと。

 聖書の一節を知っているだけならまだ良い。諳んじられるという事は、それなりの信仰心を持っているという事だ。

 それなのにこんな血生臭い世界に身を置いているなんて、フェヌグリークには考えられなかった。

 アルカネットが静かに胸倉を掴んでいた手を離す。もうこうなってしまっては、成り行きを見守る事しか出来ない。


「神の救いは何を以て救いと成る。命を現世へ留める事か。其れとも、遥かなる楽園とやらに招かれる事か。では楽園とは何を以て楽園と言う。苦しみの無い世界か。衣食住に困らぬ世界か。争いの無い平穏な世界か。終わり無き営みの続く世界か。ならば、何故神は最初から現世を楽園と成さなかった」

「っ、そ、それは、主が私達に与えたもうた試練で」

「生き物の親は子へ死が付き纏う試練を与えるか? 弱き者と強き者を生み出した不平等を神の愛と叫ぶのか? 生と死を与える神が、其れすら平等に分け与えぬ。神による贔屓入り混じる此の世界で、救いを求めて泣き喚く赤子に試練を与えても理解しようも無かろう」


 責めるようにフェヌグリークへ言葉を連ねるマスターの言葉は、孤児として受けた教育と、それからシスターという職を選んだ彼女にとって信仰心を揺るがせてしまうもの。

 神の愛が平等である訳がないと、フェヌグリークだって知っている。けれど自分が捧げる愛は平等であろうと努めてきた。


「現世での我が行いは地獄行きに値する。成れば最早、神の怒りなど恐ろしくも無い」


 その考えが、覆される。


「……まだ、まだ、間に合います。今からでも悔い改めれば、神はきっと」

「我が同胞は先んじて地獄で我を待っている。安穏とした環境で不戦を謳う腑抜けよりも、余程誇り高い者達だ。……我が地獄へと落ちぬ理由など、何処にも無い。其れ以前に」


 マスター・ディルが、覆す。


「神など存在しない。居ない神など我は恐れはせぬ。死すれば大地へ還るのみ、その時には我が望む場所で果てる以外に救われる事は無い」


 年若いシスターであるフェヌグリークには、それ以上返す言葉を持っていなかった。

 それっきり黙り込んだマスターは、先程から微動だにしていない。黙らせる強硬手段に出なかった彼を見ながら、ヴァリンが再び口を開く。困ったような、不満があるような、けれど動かなくて助かったと言いたそうな表情で。


「……それ、俺達の前で言うか」

「………。ふん」

「いや、お前が昔からそういう立ち位置なのは知ってるけどな……一応俺達だって、……まぁいい」


 不満そうな顔なのはオルキデもマゼンタも同じだ。何かしら思う所があるような顔はマスター・ディルに向いていた。

 フェヌグリークには、何が何だかもう分からない。その場に膝を抱えて蹲って、黙ったまま涙を流している。


「オルキデ、マゼンタ」


 マスター・ディルの声だけが響いた。


「ミョゾティスの審査が終わるまで外に出ぬよう、部屋でフェヌグリークを監視せよ。外へ出たら諸共に命は無いと思え」

「……承知致しました」

「あはっ、マスターにそれが出来るか試してみてもいいですかぁ? ……嘘々、分かりましたよ」


 挑発するようなマゼンタの言葉にも、マスターは一瞬視線を向けただけだった。

 再び、連行されるようにフェヌグリークが二階へ向かう。前後は姉妹が手を引き、背中を押している。


 その場にいた面々に残されたものは、重苦しい沈黙だけだった。


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